唐澤貴洋の発言一覧/note
唐澤貴洋が自身のnoteに投稿した記事の一覧
記事一覧
記事名 | 更新日時 | 備考 |
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日本ダービー(魚拓) | 2021/05/30 | |
ユニコーンS回顧 ピンクカメハメハへのレクイエム(魚拓) | 2021/06/20 | |
卒業-平岩英子とその時代(魚拓) | 2021/06/26 | |
政治家(魚拓) | 2021/06/27 | |
差別(魚拓) | 2021/06/28 | |
人生の選択(魚拓) | 2021/07/14 | |
正常と異常の境目(魚拓) | 2021/07/15 | |
長い別れ(魚拓) | 2021/07/19 | 恐らく唐澤厚史について書いた記事 |
私の問題と世界の問題(魚拓) | 2021/08/08 | |
人の命に優劣はつけられるのか。(魚拓) | 2021/08/14 | |
差異(魚拓) | 2021/08/17 | |
サブリミナルと公正な政治批評(魚拓) | 2021/10/12 |
記事本文
日本ダービー
本文
2021年5月30日
日本ダービー、17頭が午後3時40分に発走する。 東京2400m、左周り。 正面スタンド前からゴール板を通り、約450mの向正面を通り、第3コーナー手前から緩やかな坂、第3コーナーから第4コーナーにかけては緩やかな坂を通り、最後の直線は、2度目の坂もある約530m。 ペースにもよるが、コーナーをうまくまわって、というよりは、スタミナ、瞬発力、多頭数であることから馬込みに入れても落ち着いて走れる精神力も問われていると考えている。
本命を先に言うとエフフォーリア。
対抗はワンダフルタウン。
▲はグレートマジシャン
△サトノレイナス △レッドジェネシス △ヴィクティファルス △ステラヴェローチェ △グラティアス
エフフォーリアは、皐月賞、先行馬群最内でじっとし、4コーナーで、馬群の中で、前が壁になるかと思ったが、タイトルホルダーが外に1馬身ほど馬を出し、ワールドホルダーが後退する中を割って抜け出し、後方の馬達に差を詰めさせず、1着でゴールインした。ヨーホーレークに次ぐ上がりを出し、0.5秒差。
0.5秒差、3馬身差。
これには重要な意味がある。
2020年 1着 コントレイル 2:00.7 2着 サリオス 2:00.8
2019年 1着 サートゥルナーリア 1:58.1 2着 ヴェロックス 1:58.1
2018年 1着 エポカドーロ 2:00.8 2着 サンリヴァル 2:01.1
2017年 1着 アルアイン 1:57.8 2着 ペルシアンナイト 1:57.8
2016年 1着 ディーマジェスティ 1:57.9 2着 マカヒキ 1:58.1
2017年 1着 ドゥラメンテ 1:58.2 2着 リアルスティール 1:58.4
2014年 1着 イスラボニータ 1:59.6 2着 トゥザワールド 1:59.8
2013年 1着 ロゴタイプ 1.58.0 2着 エピファネイア 1:58.1
2012年 1着 ゴールドシップ 2:01.3 2着 ワールドエース 2:01.7
2011年 ● 1着 オルフェーヴル 2:00.6 2着 サダムパテック 2:01.1
2006年 1着 メイショウサムソン 1:59.9 2着 ドリームパスポート 2:00.0
2005年 1着 ディープインパクト 1:59.2 2着 シックスセンス 1:59.6
1994年 ● 1着 ナリタブライアン 1:59.0 2着 サクラスーパーオー 1.59.6
皐月賞で後続馬に3馬身差をつけたのは、●の2頭。
この2頭は言わずもがな、三冠馬だ。
皐月賞の3馬身差が意味するのは絶対的な能力差だと理解した。
調教も最終追い切りが併せ馬で折り合いをつけながら 南W 5F 66.0 4F 51.4 3F 37.7 1F11.8 (競馬エイト参照) と加速ラップをしっかり踏んでいる。
状態は問題なく絶対的な能力差を信じて本命とした。
問題は2着に何が来るか。
2011年 ダービー 1着 オルフェーヴル 2:30.5 2着 ウインヴァリアシオン 前走青葉賞1着 2:30.8
1994年 ダービー 1着 ナリタブライアン 2:25.7 2着 エアダブリン 前走青葉賞1着 2:26.6
皐月賞組の中では、決着がついて、他路線組が来ている。
他路線組で、有力馬としては
ワンダフルタウン 前走青葉賞1着 休み明けにも関わらず、共同通信杯4着のキングストンボーイを下した。 共同通信杯は、エフフォーリアが1着、2着ヴィクティファルス、3着シャフリアール 2着から4着は、1.48.0で同タイム。 そこで、ワンダフルタウンを、ヴィクティファルス、シャルフリアールよりも評価した。
グレートマジシャン 前走毎日杯2着 毎日杯1着のシャフリアールとは同タイム クビ差。 レースを見ると、距離が延びたら、グレートマジシャンの方が勝ったレースと評価。上がりは、シャフリアールよりも早く、シャフリアールが栗東で、長距離輸送がなく、グレートマジシャンが初輸送をこなす精神力も評価。
ワンダフルタウンとグレートマジシャンの比較では、2400mのレース経験のあるワンダフルタウンを評価。
その他は、多くのウッドの調教をしたサトノレイナス、京都新聞杯1着レッドジェネシス。
枠的に横山武史騎手騎乗のエフフォーリア、横山典弘騎手騎乗レッドジェネシスを見て競馬ができる穴を開ける池添謙一騎手騎乗のヴィクティファルス。
皐月賞組で評価しているステラヴェローチェ、グラティアス。 タイトルホルダーは、先行しての馬なのだが、距離的に疑問を持っているので、皐月賞では、評価を下げた。
5月29日の東京7レース、2400m 横山武史騎手騎乗の1枠1番ジェニーアムレット。 内を先頭で走って、直線で垂れてしまった。
これを持って、内枠の評価を下げるのは早計。 レース映像を見ればわかるが、縦長でレース道中は走っている。 皆道中は、距離ロスなく走っている。 最終コーナーで、1着のグレアリングアイは、後方から外に馬を出し、ジェニーアムレットの2馬身外を走らせ一着。 これは馬の能力差と評価せざるを得ない。
最後直線で外を回したヒシシュシュは後方で足をため、馬群を捌く形で外へ。
このレースの意味を1番知っているのは、横山武史騎手であろう。
スタートを遅くし、道中中団につけ、最後、外を回して、これが答えであれば、そんなことは騎手が1番分かっているはずだ。
そこを踏まえて、どういうレース運びをするか、それも含めて明日のダービーは楽しみで仕方がない。
最年少ダービージョッキー、 2年連続三冠馬、 ダービーは夢を見ていいレースだ。
発走は、午後3時40分。
最高のレースを。
#エッセイ #競馬 #日本ダービー #明日は夢を見る
ユニコーンS回顧 ピンクカメハメハへのレクイエム
本文
2020年7月19日 函館5R 芝1800m 9番、武豊騎手騎乗のピンクカメハメハ 名前を初めて見たとき、キングカメハメハの子供かと思ったら、リオンディーズの子供だったから、それ以来忘れずにレースは気になっていた。 先頭に立ち、内を行く向正面で、ルメール騎手騎乗のゾディアックサインが横に並びかける。 そこで、ピンクカメハメハは、冷静だった。 かからず、ペースを維持する。 ルメール騎手は、そこは予想外だったんだろう。 行ききらず、ゾディアックサインの折り合いを付けながら、ピンクカメハメハと並走する。 そこから、ピンクカメハメハは突き抜ける。 ゾディアックサインを気にせず、4馬身差の圧勝。 幸先いい新馬戦。 ここから快進撃が始まるかと思った。 神様は、そう優しくなかった。
芝で思うように結果がでず、乗り替わり乗り替わり。 そんなピンクカメハメハが転機が訪れるのは、2021年2月20日。 サウジダービー(ダート、1600m)。 初ダートだ。 芝で成績が出ないとダートで走らせる光景は見ることがある。 中央で走れなくなった馬が、地方競馬に転厩して走っているのもよく見る光景だ。 初ダートで、世界が舞台だ。 世界中から馬が集められて走る。 1着賞金90万ドル。 無理させるな。 流石に厳しいだろうと思った。 しかし、ピンクカメハメハは、人の評価なんか気にしなかった。 13番、ソフトウィスパー、天下のゴドルフィン所有馬。 ソフトウィスパーの少し後ろ、外を並走する形で、正面に入ってからが新馬戦を思い出させる粘りを見せる。 1400mのところでソフトウィスパー交わす。 残り200mだ。 後ろからは、6番、ニュートレジャーにデットーリ騎手が必死に鞭を打ち、ピンクカメハメハを追い抜かそうとする。 そして、残り100mのところからは、外を2番、コワンが強襲してくる。 どうなるんだ。 思わず、頑張れ、声が出る。
結果は、
キングアブドゥルアジーズ競馬場のゴールを駆け抜け、 1着。 そんなことあるんだ。 驚かされた。 今後どうなるんだろう。楽しみが増えたな。 そう思った。 2021年6月20日。 東京競馬場 11R、ダート1600m。 ダート馬として今後活躍するのかな。 どう走るんだろう。 スタートの出はよく、前から3番目につけることができた。 ここからサウジダービーのごとく、第4コーナーからハナに立ち、粘って走るのかなと思った。 しかし、神様は残酷だ。 3番目から後ろに後退しだしたかと思ったら、柵にぶつかり、レースを中止してしまった。 急性心不全。 ピンクカメハメハは、東京競馬場を駆け抜け、天国に行ってしまった。 思い出を有難う。 オレはピンクカメハメハの走りを見て、より競馬を好きになれた。 ありがとう。 オレは君のことは忘れないから。
#ピンクカメハメハ
卒業-平岩英子とその時代
本文
平岩英子という歌手をご存知だろうか。
世紀末のある日、私はある郊外のあるCDショップに車で行った。
名前はなんだったろうか。今はもう店すら存在しないかもしれない。
郊外におきまりの、広い無料駐車場がある、外観は黄色だったろうか、デザインというよりも目立つことに目的が置かれたそんなCDショップに。
様々な課題を抱えて、憂鬱な気分のときは、海にいくか、CDショップで適当にCDを買って聴くなどして気分転換をしていた。
邦楽コーナーでは、アイドルのCDにけばけばしいポップがついて、存在主張していたが、興味はなかった。
何々プロデュースとかいう類の音楽、それは、歌手の声が平坦で、情感がなく、繰り返されるサビ、そのようなものは私にとって心に沁みるものではなかった。
ああ面白そうなものはないなと嘆息していたところ、名前を聞いたことのない歌手のCDに、店員が書いたであろう推薦文が、小さな紙に書かれ張られていた。
「Airium」という名のアルバムだった。
推薦文になんと書いてあっただろうか。その文を読んだとき、少し心にひっかかるものがあった。
CDを買って、車に帰り、エンジンをかけ、包装をほどき、プレイヤーにCDを入れた。
2曲目のカラカラ~Home Sweet Home~を聞いたとき、明るく、穏やかな歌声に惹かれた。
3曲目の卒業は、別れの唄だった。
心の奥底にある、自分の中で決着をつけた感情が呼び起こされる、そんな唄だ。
別れは、何も恋愛においてだけではない。
人は、様々な別れを経験し、自分なりの決着をつけていく。
平岩英子は、今はもう活動していない。
音楽の商業主義とかそういうことを嘆いても仕方がないし、彼女の唄は、流行り廃りとは違う次元で、聞き継がれていくだろう。
平岩は言う「自分の中で時期が来るまでLIVEしたりアルバム出したりの活動をお休みしたい」と、彼女のCDは、その言葉が表す通りの穏やかさ、時間の流れを感じさせるものだ。
いつかその声がまた聞こえるように。
平岩英子さんの歌が、天国から聞こえてきたら。
素晴らしい音楽をありがとうございました。
#音楽
政治家
本文
政治家 ここにある一冊の本がある。
『野中広務 差別と権力』魚住昭 講談社文庫
この本の中には、かつて権力の中枢にいた野中広務という政治家の凄み、光と闇が描かれている。
この中で、あるエピソードが描かれている。 野中が大阪鉄道局で勤務していたころのことだ。 同僚と二人で酒を飲んでいたところ、中年女の誘いで売春宿に入った。 その宿には、火傷によって顔が爛れた女がいた。 足すくむ同僚に対して、野中は女に話しかけた。 「あんた気の毒な芽にあわれたな。戦災でそうなったんとちがうか」 野中は女の話に耳を傾け、最後に金を握らせた。
その後、同僚は女と再会する。 その場には野中はいなかったが、女は両手を併せて拝むようにこう言った。 「あの人はきっと偉くなる。だって、私がこうやって毎日、あの人が出世してくれる ように祈っているんだから」 同僚は、その後野中が出世していく姿をみて、女を思い出した。 (魚住昭『野中広務差別と権力』講談社、60-62頁より)
政治家とは何であろうか。
人は問題をかかえる。問題に解決の方法がある場合には、人は希望を持つ。 解決の方法は万人に平等に与えられているわけではない。 問題の大きさによっても、解決の方法のアクセス可能性が異なる。 解決のためには、法律を変えることが必要であったり、資源(資金など)が必要であることがある。 解決の方法がない場合、人は絶望する。
政治家とは、望みのない心に、望みを与える職業である。 光の射さないところに光をあてる職業である。
政治家は、法律をつくり、システムを設計するとともに、法の執行に必要な予算を決定する。 国民の幸福追求のため、国外においては、外交交渉よって地域平和、国際平和を追求し、国内においては、資源を再配分する職業である。
もちろん、この考え方には異論があるだろう。
今喧伝されている小さな政府が目指すところは、規制緩和を推し進め、民間でできることは民間でやり、行政主導の今までの事前調整型社会から司法中心の事後調整型社会に移行することにより、政府の規模を縮小することである。
当然、官僚が立法権と特別会計を中心とした資源配分権を実質的に握っている現状は解決されるべきである。 資源配分権は、恣意的に行使され、光の射さないところに光はあたらず、憲法15条2項「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」という条文は空文と化している。 無駄が多い部分を削り、行政の効率化も推し進めるべきであろう。
しかし、必要のない部分を削り、民間できるところは民間で行い、政府の規模を縮小することが、すなわち、資源再配分を放棄することにはつながらない。
健康で文化的な生活を最低限度の生活を営む権利を保障できるのは、国家であり、政治家である。憲法の名宛人ではない企業には期待できない。 資源再配分は依然として国家において重要な機能である。
政治家は、声なき弱者の心の叫びを把握し、絶望を希望に変えるために資源再配分を行わなければならない。
そのために必要な能力を冒頭のエピソードは教えてくれる。
#政治とは何か
差別
本文
憲法14条は、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と記している。
なぜ平等であることが必要なのだろうか。
ひとつ例をあげてみよう。選挙権は、18歳以上であれば誰でも有している。不平等が許されている社会で、議員を選ぶ際に、ある人は10票、ある人は1票をもつことが許されているとしよう。10票は1票より影響力が強いのはあきらかであろう。その際、1票しか与えられていない者の選挙権は、権利として保障されていると事実上いえない。権利として機能していないからだ。
10票を持つ人間は当然、自分に有利な投票行動に走る。
権利が機能するためには、平等であることが基本的に必要なのだ。
この観点では、投票に行かないことも平等の放棄だ。
平等の意義は他の観点からも検討できる。
平等であることは、その人がその人であるために必要なのだ。
不平等が許されている社会では、人々は差別される者よりも差別する者になりたいであろう。差別されることは人々にとってとてもつらいことだ。差別されることの困難から逃れたいがために、差別する方にまわる。そのとき、その人は本当は差別などしたくはないかもしれない。
しかし、差別は、その人がその人であることを許さないのだ。
差別は差別を生み、連鎖していく。強者にまわることで差別されることから逃れることができる場合もあるが、変えることのできない生来の特徴によって差別されても、そこから逃れることは困難である。
差別が構造化されていくのだ。
差別をする人間はその構造の中でループしているだけの、存在になるだけだ。
単純な記号論的なループの中には、四季はなく、人の触れ合いもなく、自分の人生は存在しない。
生きるんだ、自分の人生を。
今の時代を駆け抜けろ。
#差別
人生の選択
本文
その人の人格、思想という式の中には、様々な変数が存在するが、人生の進行とともに、変数に入る値の幅であったり、変数の数が変化する。人生は、式の中に値をインプットし、常に短期的な結論を積み重ねるものだ。
この際、人格、思想という骨子を決めるのは、自分自身の問題であったり、環境だ。
何を変数として取り入れ、変化として受け入れ、変数の重み付けを行い、結論を柔軟に出していけるのか。それは、経験というものや推論に基づくしかないが、変数の数が多すぎると結果を出すまでに混乱が生じてしまうが、変数の数が少なすぎると、ある種の独善的な結論しか出せない。
自分の人生を自分で決めること、選択をすること、それは、その結論を導くプロセスの問題だ。全ての結論は、自明として存在せず、プロセスを経た結果にしか過ぎない。
そのプロセスが安易なドグマに支配され、変数も少ないものであったりすると、それは、単純な式に支配されている人生を生きているに過ぎない。
例えば、金が全てだという人生の生き方があったとしよう。その人生は、人生で立ち会う多くの事象を受け入れず、見過ごしていく人生に過ぎない。
では、人を差別、誹謗中傷をしていくことが全てだという人生の生き方があったとしよう。その人生は、常に人の挙動を変数とし、人の挙動に頭が支配されているが、そもそも式と言えるものは持たず、結論ありきで、変数、事象に独善的な色を塗り、芸術作品もどきなものを作り続けているに過ぎない。芸術家もどきは、独善的な色を塗り続けることにより自家中毒になる恐怖から、けばけばしく中身のない装飾に走る。けばけばしく中身のない装飾は時に快楽的であることから、他者からの肯定を受けることがあるかもしれないが、最終的にそれは中身がないものであるがゆえに、意味のないものとして砂塵と化す。自分の人生の瞬間瞬間を、ただ砂塵と化すことに費やし生きていく様は、とても悲しい。
何かに囚われることは、自分の人生を何かに委ねて生きること。自分で人生において選択して生きるということは、自分の中の式をどうするのかの問題であり、単一的な結論が出ているときは、自分の結論、結論を出すに至ったプロセスを見直してみることも一考だ。
#人生の選択
正常と異常の境目
本文
正常と異常の境目は実は曖昧だ。
異常の中にいる人は、その人の中では、妄想こそが、現実であり、正常な出来事であったりする。
妄想か否かの判別は、事実関係があるかでするしかない。
よくあるのが盗聴をされている、盗撮をされている、街で人が自分を見て笑っている、毒を盛られているといった内容の話だ。
これらの話の根拠は多くの場合確認できない。
関係のないこと、自分に関係づけ、自分が被害者であるという結論に結びつける。話を、微細に突き詰めていくと、妄想であることがわかる。
ある種の妄想である陰謀論が蔓延る世の中では、何が正常であり、異常であるかが、社会的にわかりにくくなっている。
正常から異常への越境は、インターネット社会では、スムーズに行われる。
根拠のない話が、多数派の賛成により拡散し、多くの人が言っているからという間違った論証にも関わらず、真実として浸透していく。
高度消費社会では、些細な差異化が進化論のように捉えられ、アイフォンの色に個性を見出す。その個性は本質的ではないが故に、アイデンティクライシスに陥りやすく、常に不安に苛まれる。
陰謀論は、その隙間に入り込んでくる。
陰謀論は、その人を正常からハメルーンの笛吹のごとく、異常の世界に落とし込み、不安を癒すことなく、仮想敵を常に設け結合を促し、不安を拡大し、場合によっては、終末論に導いていく。
陰謀論は、刺激があり、中毒的だ。
人は、消費社会、誹謗中傷、陰謀論に中毒性を見出しやすい。
狂気は、人に特殊なスキームをもたらし、多様な情報の入手さえも困難とし、地獄の黙示録となっていかざるを得ない。
それに抗うには、事実関係を確認し、身体感覚を維持し、様々なものに平衡感覚を持ち、物質による差異に個性を依存しないことだ。
#境界
長い別れ
本文
いつも別れは突然だ。 誰にも何も言わずにあの人は去っていった。
去っていったあの人の哀しみを夏が来ると思い出す。
残された者は自分の無力を打ちひしがれ、ただ哭くことしか出来ない。
涙は、酷薄な街に、浸透圧の如く流れ出るけど、 乾いた街で雫はライデンフロストのように、霧散していく。
人は忘却を求めるけれど、忘れることができないこともあるんだ。
人の痛みは、心の中で感じなければわからない。
忘れることを求める人は、忘れたいほどの思いを経験したことがない人だ。
夏はいつだって、哀しくて、風鈴の音とともにあの人がまた現れて、逢えることを願う。
夢の中では、いつも子どものまま。
こちらはただ年を取ってしまい、また暑い夏がやって来る。
夏の青空は、どこか物悲しく、雨香が長い別れを思い出させる。
私の問題と世界の問題
本文
物語の作り方として一つの見る形式で、主人公は個人的な問題を抱えているが、世界で危機が起こり、その危機への解決に関与していくことで、自分の問題もなぜか解決していく、ときに、それは成長の物語として描くことで、世界の問題と個人的な問題の解決を一緒に描こうとするものだ。
個人的な成長の問題を抱えている者が、世界の問題の解決に参与できる可能性はとても低く、現実的ではない。だからこそ、ファンタジーとして受け入れられるのかもしれないし、ファンタジーとして受け入れるしかない。
個人的な問題は、自分の生活への姿勢を変えたり、経済的な状況を変えたり、人間関係が変わったり、体調が良くなったり、個人の生活環境を構成するマクロの問題が改善しなければ、解決はしない。
個人的な問題を直視し、解決に向かおうとすることは、ときには自己否定をしなければならないことから、精神的なストレスが発生するため、人は直視せず逃げてしまうこともある。
逃げ方として、何かに没頭して、その問題を解決できればいいけれど、時間がただ過ぎ、より問題が悪化することの方が多いように思う。
何かに没頭しようと、人は陰謀論にはまり、口角泡飛ばして、コロナ陰謀論だったり、ワクチン陰謀論だったり、イルミナティについて熱情を傾ける人がいる。
それらの問題は、世界の問題ではあるのだけれど、その人からすればどうしようもない問題で、世界の問題の解決は、自分の問題の解決へと繋がらない。 インターネットで陥りがちなのが、同種の情報ばかりを好んで取り入れてしまうから、自己への内省というプロセスを経ることができない。基本的に抽象的に他人への反省を求めがちのため、世界の問題へ参画しているつもりながら、解決に至らないばかりか、個人的な成長も期待できないため、個人的な問題の解決に至らないのが現実だ。
個人的な問題の解決は、時に、マクロな問題と結びついていることがあるけれど、その問題の解決を期待するためには、政治に参画するしか基本的にない。このため、ミクロな問題の解決に専念する方が、個人の問題の解決に近づく。
ローマは1日にして成らず。
すべては積み重ねであり、自分の生活の中で、何を積み重ねているのかを点検し、そこで欠けているものを積み上げていくことが何においても大切なのだ。
人の命に優劣はつけられるのか。
本文
近代最大の発明は何か。
動力の進化だったり、新たな化学反応だったり、遺伝的な解明だったり、インターネットの出現だったり、人それぞれ考えがあるだろうが、人にとって革命的な発明は、人であることで基本的人権が保障されるということ以外ないと思っている。
人が人であることで個人として尊重され、文化的な生活を送れ、生存できる。基本的人権の保障の限りで国家が人よりも優先されることはなく、人々の命に優劣をつけられることはない。
人は弱く、愚かだ。人を時に差別し、時に他人の命を軽視し、一時の金銭的な充足感が虚構の万能感をもたらし、他人に対して金銭的な、功利的な評価しかできなくなる。 元々人は無知であり、憲法など知らない、人権など理解できないということも無理はない。
ただ、我々は近代の叡智を礎として、日本国憲法を護持している。 憲法がこの国において希薄化していないのは、優生思想に抗う人々がいることをもって知れたことであるが、人の自由は常に危機に晒されていることもまた真実である。
無知は、人々を侵食し、野蛮な世界への逆戻りを意味する。 近時というか、いつの時代もなのかもしれないが、自己啓発などの類は、人智と程遠く、浅はかで剥き出しで人知れず廃れていくものだ。
我々は、常にオン・ザ・エッヂにいる。同じ人を人として扱わないことを是とする発言をできる人間になることは、翻ってみれば、別の価値観で切り捨てられる可能性を肯定することに他ならない。
人に光あれ。
我々は光を灯し続けることでしか、この社会の平穏を保つことはできない。
皆で共に生きよう。
#生きる #人権 #憲法 #人に光あれ #我々は光を灯し続ける
差異
本文
人は差異に敏感だ。
差異を認識をすると、その位置付けをする。 まず自分と同じかどうか、違うのならば、受け入れ方をどうするか。
同じことで安心することもあるし、ある種の自己嫌悪から、不安に苛まれることもある。
違うものに対しては、何らかの価値基準で自分との関係で優劣をつけるか、または他者の存在に対しての理解と受容ができるならば、そのものとして受け入れる。
違いに優劣を付ける人には、その差異がある事項についてのみの優劣ならまだ良いが、人としての優劣を付けようとする者もいる。この思考のパターンの者は、差異、記号論的なマッピングに安心してしまい、真に人との関係を築くのは厳しい。例えば、自分がいくら稼いでいて、相手がいくらだから自分の方が素晴らしいといった類いの思考の人間は、資本主義だったり、資本主義をある種のドライブである記号論に囚われ、人の心は買うことができず、最後は持っていくことができない紙幣のみ残るだけだ。
インターネットで溢れているのは安易な位置付けであり、ラベリングにより、自分の安定した立場を築こうとする人が、結局は人らしく生きることのできない記号的な生き方を選択しているという事実だ。
記号的な生き方に囚われることは、精神的な不安定を誘発していく。 他者との意味のない差異に時に憧憬し、時に嫉妬する。 その差異について最終的に受容なり、差異をなくすことができればいいが、どちらもできない場合不安のみを抱えて生きるしかない。
その不安はときに、この社会においてはエネルギーとして政治的に利用されることもある。ある種の分断統治であったり、恐ろしいことであるが、ジェノサイドにつながることがある。不安を持つ者同士は、連帯しやすいが、その連帯は政治的には利用されがちだ。 そして、消費社会ではそうした精神構造に陥ったものは、スイッチがわかりやすい搾取の対象となっていく。
現代のこうした病に抗うためにはどうしたらいいのか。 一つの答えは、他者の差異への意味付けを放棄し、記号論的なものを捨象した「人」との関係をどのように築くかに四苦八苦し、一般的には矛盾だったりするものを抱えながら生きることだ。そして、体温であったり、身体感覚を大切にすることだ。
#消費社会 #差異 #現代社会論
サブリミナルと公正な政治批評
本文
Dappiを名乗るTwitterアカウントが政権与党に偏った情報発信を従来から行っていたが、立憲民主党の小西洋之議員に対して、権利侵害情報を発信していたとして、同議員がTwitter社に発信者情報開示請求を行い、そこで判明したプロバイダに発信者情報開示請求訴訟を提起し、勝訴判決を得た結果、自民党を取引先と明示する企業名が判明したことが現在報道されている。
Dappiアカウントは、さまざまな動画を使用して、情報宣伝活動を行なっているが、この動画使用について、著作権問題を取り扱っていたかがその全容を明らかにするのではないかと考えている。
通常であれば、著作権上の処理をして動画使用するのが法令遵守に則ったあり方であることから、動画の著作権を有する各団体(自民党、株式会社DHCテレビジョン)は、どのような認識であったかが問われる。
動画を使用料なく、利用することは、無体財産権である著作権の無償使用であることから合理的ではなく、またその活動を無償で行うことは営利を本質とする企業活動は合理的ではなく、別途対価を得ていたと考えるのが合理的である。
そこで、営利を得て、野党、朝日新聞を主として批判(https://twitter.com/dappi2019/status/1435421171885830145のような)し、自民党を保護することを主とした情報宣伝活動を行なっているのではないかと疑問が生じ、公正な政治批評とは何かが今問われることとなっている。
政治的な情報宣伝活動としては、ある種の警句であったり、映画が国威発揚の方法論として用いられてきた。そこで有権者にされていたのは、サブリミナル的な煽動であった。政治が多数派を力とするゲームであることから、より多くの人を動員できる可能性のある煽動は民主主義において古くから行われきた。
Dappiによる情報宣伝活動は、古典的な手法の現在バージョンであり、国を憂う、他国との緊張関係を憂うという体で、一見すると個人が国を憂いてボランティアで行なっており、バイアスに基づかない公正な言論と見せかけ、人々に浸透していく。政治的な言論で力を持つものには、この種の危険が伴い、これは必ずしも与党に限られるものではない。
SNSを使った大衆煽動の時代が現実に存在するのだ。
昔、ドキュメンタリーを何本も撮っている相田洋先生のお話として、ドキュメンターリーもまた切り抜きであり、作者の視座に気をつけなくてはならないというお話を聞く機会があった。情報が発信されるときに、必ず、何らかの視座に基づくというわけだ。
インターネットが普及した時代に、政党が政党助成金であったりを利用して、サブリミナル的手法を用いて情報宣伝活動を行うことは、民主主義を歪める結果になる。熟慮された民主主義とは、証拠ある事実に基づき、その事実に基づき制作課題について真摯な討議することで成り立ちうる。安易な煽動行為で、多数派を握ろうとすることは、多数派の横暴に繋がり兼ねない。
今、政党は、公正な政治批評をしてもらうために、どのような情報発信を行うべきかが問われている。
これは、喫緊の課題であり、今後の健全な民主主義が成り立ちうるかが問われる問題である。
与党、野党問わず、襟を正し、今一度より良い民主主義のための情報発信とは何かを考えることを切に願う。
より良い日本社会のために。
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