マヨケーがポアされたため、現在はロシケーがメインとなっています。

臥薪嘗胆

提供:唐澤貴洋Wiki
ナビゲーションに移動 検索に移動
尊師語録 > 臥薪嘗胆
臥薪嘗胆

臥薪嘗胆(がしんしょうたん)とは、復讐のために耐え忍ぶこと、また、成功するために苦労に耐えるという意味を持つ、中国の故事成語である。

概要

唐澤貴洋が司法試験合格に要した期間をこう表現したため、恒心教においても頻繁に用いられる。

本来の意味・由来

薪臥・呉王夫差の復讐

紀元前497年(春秋戦国時代)、越を強勢に築き上げた允常(いんじょう)が死に、太子である勾践(こうせん)が後を継いだ。越と敵対する呉王、闔閭(こうりょ)は宿敵を滅ぼすべく越に攻め込んだのである。

しかし、紀元前495年、越の奇策によって呉は大敗する。闔閭は足の親指に矢傷を負い破傷。それが原因で無事死亡した。 代わって闔閭の太子である夫差(ふさ)が呉王として即位。父の臨終に復讐を誓った彼は日々薪に臥し、その屈辱を思い出していたと伝えられている。 そして紀元前495年、遂に夫差は精鋭を率いて越を破り、越王勾践を会稽山に追い詰めたのである。

嘗胆・越王勾践の復讐

窮地に立たされた勾践。彼は夫差に助命を申し込み、夫差もそれを受け入れた。 こうして呉にて夫差の召し使いとして仕える勾践だったが程なくして解放され越に戻った。彼はその時の恥を忘れまいと、吊るした胆を日々嘗めていていたと伝えられている。 こうして越は10年間国力を蓄え、紀元前478年に呉へ攻め込んだ。呉王夫差がおらず太子が留守を任されていた呉は立ち向かうも連戦連敗。紀元前473年、とうとう夫差は皮肉にも、あの会稽山に追い込まれたのである。

呉越戦争の終結

夫差の部下は勾践に和睦を申し込んだ。かつて夫差が勾践の命を助けたように、勾践も夫差の命を助けてくれないかと。 憐れに思った勾践は夫差を助命し、島流しにすることにしたのだ。

だが夫差にはもう思い残すことはなかった。 彼は勾践の心遣いに感謝の念を述べた後自決。呉は、ここに滅びたのである。

真相

薪に臥すという行為について

毎晩薪に臥せていたら全身の筋肉が柔軟性を著しく失い、動かすたびに激しく傷む事になる。恐らく寝違えどころじゃすまないだろう。ダルビッシュが聞いたらどんなツイートをするのだろうか。

如何せん体を徒に痛めつけ、最悪のコンディションで本番を迎えるのは愚行としか言いようがない。

そんなことしてるから悪芋に唆されて有能な身内を殺しまわった挙句、国を滅ぼされるのである。無能。

胆を嘗めるという行為について

にがそう。

熊の肝は栄養豊富であるから理にかなっているといえる。

彼らは本当に臥薪嘗胆してたのか

実際は後世の作り話だといわれているが、この物語が呉越の悲しき復讐の歴史から生まれたものだという事を忘れてはいけない。

しかし、この言葉を愚かしくも、意図的に誤用する連中がいるのだ。恒心教徒である。

恒心教における臥薪嘗胆

臥薪嘗胆の日々

大学後の進路を考えたときに、自分の思いと直面し、司法試験を目指しました。
臥薪嘗胆の日々を経て、合格。[1]

1999年に慶應義塾大学へ入学した唐澤貴洋は、2000年に総合政策学部へ編入・転部している。[2] その後2002年には廣瀬ゼミでナショナリズム研究の発表 を行っている。
ナショナリズム研究の発表時、2000年度に2年だった久野氏を差し置いて唐澤貴洋が筆頭とされている為、この時点で唐澤貴洋は4年生であると推測される。
そして2003年に慶應義塾大学綜合政策学部を卒業したと思われる。

2004年度より法科大学院制度が始まり、同制度制定と同時に早稲田大学法科大学院が設立される。唐澤貴洋がいつ早稲田大学法科大学院に入学し修了したのかは定かではないが、法科大学院の修習年限は法学未習者の場合3年間であり、唐澤貴洋は総合政策学部卒のため法律を学んでいないはずなので、法科大学院には3年間通っていると考えるのが妥当である(もしも既習者として法科大学院に2年しか通っていない場合、更に空白期間が伸びることになる)。

以上の事実・推察と事務所プロフィールを照らし合わせると、

  • 唐澤貴洋は1978年生まれであり、法政二高中退後1年間家でニート 母親の勧めで再入学した定時制の都立山吹高校に3年在学し、1年間予備校で浪人 慶應義塾大学入学当時21歳(3年遅れ)卒業後は早稲田大学法科大学院に入学
  • 弁護士登録したのが2010年、2004~2009年の間に3年間早稲田大学大学院に在学していたと思われるので、大学院入学前1年間・卒業後1年間の空白期間の存在が確定
  • 上2点より、唐澤貴洋の経歴には最低でも5年間の空白期間が存在する

32歳で司法試験に合格するまで親の庇護のもと甘やかされていたことが伺える。

また恒心綜合法律事務所は2011年7月4日設立なことから、事務所開設以前に在籍していた坂本総合法律事務所には半年たらずしか在籍していなかったことが明らかである。[3]

田中一哉弁護士の臥薪嘗胆

評価こそ教徒間で大きく意見の割れる田中一哉弁護士であるが、発見された当時所属していた事務所のHPに記載されていた自分語りが、尊師と同じ臥薪嘗胆民でありながら尊師のようにそれを正当化せず、その頃の自分を自虐的に回想している点が対照的であると評価され、「苦労人の有能弁護士」として持ち上げられていた。

当時の自分語り[4]

 9月13日に入所いたしました弁護士の田中一哉(たなかかずや)です。 生年月日は昭和44年4月3日。あと一日遅ければ4並びのキリ番だったのですが、それではあまりに縁起が悪かろうとの両親の余計な配慮から、予定日より一日早く、この世に生をうけました。 実家は東京都練馬区です。ここは23区内では比較的のどかな地域で、自然も豊富に残っています。自宅から10分も歩けば石神井公園という大きな公園があり、ボートに乗ったり、釣りをしたりすることができます。
 また、区内には映画やアニメーションのスタジオ、マンガ家の住居などが多数あります。そのため、そうした作品の舞台になることも多いです。
 最近では「よつばと!」というマンガの中に練馬のまったりとした街並みを見ることができます。お暇な方はぜひ読んでみてください。作品自体もとてもおもしろいですから。
 学生時代はこれといって打ち込むこともなく、ただぼんやりと過ごしてしまいました。はじめは天文学者とか、航空宇宙関係の技術者とか、とにかく宇宙と関わりのある仕事に就きたいと思っていたのですが、
 数学と物理の成績が「そんなことはできっこない」ことを教えてくれました。それでとりあえず潰しのきく商学系の学部に入ったものの、これが途方もなくつまらなくて、あっという間に重度の5月病に罹ってしまいました。
 大学1年次の取得単位数はたしか8単位だったと記憶しています。本当によく4年で卒業できたものです。司法試験の勉強を始めたのは、大学を出て暫くしてからです。
 まあ悪くても5年もやれば何とかなるだろうと軽く考えたのが大間違いでした。ふと気がつくと30歳をとっくに過ぎていて、もうニッチもサッチも行かなくなっていました。
 今だから言えますが、もう死んでしまおうと思ったことも何度かあります。実行しなかったのはただ怖かったからにすぎません。こんな感じで、私はつい3年前まで社会の最底辺に居ました。
 30過ぎで、無職で、しかも職歴無しだったのです。それが今、金ピカのバッジを付けて、時には「先生」などと呼ばれます。でも、いったい何が変わったのかな?と不思議に感じてしまいます。
 少なくとも自分自身は何も変わっていないことを知っていますから。自分に対する評価は相変わらず「人生の落伍者」のままです。この評価は一生変わらないと思いますし、変える必要もないように思います。
 私はこれからもずっと、落ちこぼれとして生きてゆくつもりです。そして、同じように落ちこぼれた人たちの手助けをしたいと思います。私のような人間が司法試験に受かり、「おおいた市民」のような事務所に就職できた。
 この奇跡に報いるには、それ以外に道がないと考えています。この文章を読む人の中に、私の考えに共感してくれる人が居てくれたら嬉しいです。また、かつての自分と同じように、暗闇の中で生きる人が居てくれたら嬉しいです。
 もし、そんな人が居たら、いつでも訪ねて来てください。一緒に歩いて行きましょう。

福永活也弁護士の臥薪嘗胆

2020年代に入り、立花孝志はあちゅうの弁護人としてスラップ訴訟連発することで注目を浴びている福永活也も、かつて臥薪嘗胆の日々があったことを取材や自身のTwitterでカミングアウトしている。

「最高年収10億円の弁護士」へ大変貌した元フリーターの興味深い仕事観。(魚拓) - StudyHacker

僕は24歳まで月収6、7万円のフリーターでした。そこから弁護士になったのは、本当にたまたまといっていい。きっかけのひとつは父の死でした。親が亡くなると、やはり多かれ少なかれ人生を考えるきっかけになります。

ただ、当時フリーターだったことで自分の人生が駄目なものだなんて思っていませんでした。というのも、仕事とは自分が楽しく過ごすためのツールのひとつに過ぎないと考えているからです。この考えはいまも昔も変わりません。でも、世の中の人が一度は挑戦する勉強や仕事に真剣に取り組んだ経験がないということは、人生にとってなにかよくないのではないかと思ったのです。

そして当時、たまたま観ておもしろいと思っていたのが『カバチタレ!』(フジテレビ)というドラマでした。深津絵里さんと常盤貴子さんが主演で、行政書士が題材のものです。その作品を観て、法律というものに漠然とした興味を持っていました。また、当時は司法制度改革が行なわれて全国にロースクールができた時期でもあった。僕のような法律の知識がまったくない人間でもウエルカムという時代になったわけです。

そうして、24歳で法科大学院に入り、3年間のコースで勉強をして司法試験に合格しました。いま振り返っても、その経緯はやはりたまたまとしかいえません。当時、もしゴルフブームが来ていて僕自身もゴルフに興味を持っていたら、ゴルファーを目指そうなんて思っていたかもしれませんからね。

おそらく本人は若者に向けてのエールのつもりでエピソードを披露したと思われるが、その後に資産状況や人脈アピールと続き結局は自分が自慢したいだけの内容となっている。

https://twitter.com/fukunagakatsuya/status/1531873047019278337(魚拓)

最初に頑張れば後の人生は多少サボっても大丈夫ってのも真実ではあるが
僕もずっとフリーターだったけど、2-3年勉強して形だけ弁護士資格とって、3年くらい独立して税引き後純資産10億超えたら、その後、仲間と健康さえ維持できれば、仕事も資格もお金も世間体も無視して生きていけてるようになった

なお、このツイート前日には福永本人がTwitterでの誹謗中傷による名誉棄損を訴えた損害賠償請求訴訟に敗訴[5]しており、傷心の中で自分自身を鼓舞した呟きの可能性がある。マヨケーでは「世間体を無視して片っ端から訴訟した結果がこれか[6]」などと憐憫の声が聞かれた。

使われ方

大抵は本来の意味通り使われているが、上述した確定・疑惑事項から、唐澤貴洋は親のすねを齧りながら5年間の大半をダラダラと過ごしてたのではないか?と度々疑われたこと[7]より転じて、親の庇護のもと甘やかされている者定職に付かず自宅で一日を過ごす者臥薪嘗胆民と呼ぶ。

143 : 風吹けば名無し 投稿日:2012/12/30(日) 00:42:04.59 ID:dGJsnckn [2/2回]
メシ食ってシコって寝るという臥薪嘗胆の日々 

夫差と勾践は草も生えないこの有り様を草葉の陰からどんな思いで見ているのだろうか。

なお、最近では親のすねを囓ったか否かは関係なしに、単に一般的な「浪人」(大学受験浪人・司法浪人など)のニュアンスで使用されることが多くなっている。

注釈

関連項目