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>スイーツマフィア
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逮捕者が出たことで、少しの間、殺害予告が投稿されることはありませんでした。<br>
逮捕者が出たことで、少しの間、殺害予告が投稿されることはありませんでした。<br>
しかし、そんな静寂もつかの間、それ以降は携帯電話でツイキャスティング(通称ツイキャス)というストリーミング配信を行いながら、<br>
しかし、そんな静寂もつかの間、それ以降は携帯電話で[[ツイキャス|ツイキャスティング(通称ツイキャス)]]というストリーミング配信を行いながら、<br>
突然、私の事務所に押しかけてチャイムを鳴らしたり、事務所の上の階から撮影した写真を投稿したりする実動部隊が出現しました。
突然、私の事務所に押しかけてチャイムを鳴らしたり<ref>[[月永皓瑛]]</ref>、事務所の上の階から撮影した写真を投稿したりする実動部隊が出現しました。


インターネットという二次元の世界から飛び出し、現実(実在)の私の近くに現れる者が増え、その行動もどんどん過激になり、実害へとエスカレートしていきました。<br>
インターネットという二次元の世界から飛び出し、現実(実在)の私の近くに現れる者が増え、その行動もどんどん過激になり、実害へとエスカレートしていきました。<br>

2018年12月28日 (金) 23:28時点における版

炎上弁護士 > 炎上弁護士/本文

このページでは、エビケー悪芋により書き起こしされた炎上弁護士の本文を掲載する。

【唐澤貴洋殺す】雑談★149【挫折経験のない、意識高い系の幸せそうな人たち(40)】
232 :無名弁護士:2018/12/15(土) 12:04:26.70 ID:ZEQFKjXY0
>>103 
ガチればテキスト化も余裕(誤字脱字がないとは言ってない) 
http://txti.es/jfgte 
http://txti.es/qtxqi 
http://txti.es/b5e1n 
http://txti.es/wienf
炎上弁護士満絹の唐澤貴洋

まえがき

2018年10月30日午後10時。私は、アベマTVの「アべマプライム」という番組からの出演依頼に応じて、テレビ朝日のスタジオにいました。
そこには、私が長期にわたり炎上する原因となったインターネット掲示板の管理者であった西村博之氏(以下、西村氏)がいました。
西村氏は、過去に自身の著書『僕が2ちゃんねるを捨てた理由』の中で、掲示板管理者として法的責任を問われ、損害賠償金の支払いを裁判所に命じられたにもかかわらず、
「裁判に負けても賠償金は支払っていません」と明言していた人物です。
そして、彼は、今現在も2ch.scというサイトの管理者と目されている人物です。

アベマTVとは、サイバーエージェントとテレビ朝日が母体である、パソコン・スマートフォン向けの無料で視聴できるインターネットテレビであり、一般の放送事業者ではありません。
そのため、放送法の縛りやスポンサーへの付度などがゆるく、かなり突っ込んだ意見を言ったり、議論を交わしたりすることができるメディアです。

そのメディアで、私の「炎上」のきっかけとなった「2ちゃんねる」の西村氏に、直接、管理者としての責任を問うことができるので、出演を決めました。
しかし、当日渡された台本を見ると、テーマは、「2チャンネル創始者のひろゆきさんと、インターネットの歴史と功罪にせまる」という、西村氏が当事者というよりは、第三者的な、評論家的な立場で番組に関与することがわかりました。

そこで、私は、アべマプライムのスタッフから渡されていた台本を一切無視して、 西村氏にインターネット掲示板の管理者としての責任を問う戦いを挑みました。番組は生放送です。
自身が運営するインターネット掲示板で、被害者が発生していることについてどう思っているのか、管理者として対応することはないのか、を間いました。
生放送の結果、インターネット上でどのような評価がされようとも私は気にはしていません。問わなければいけないことがある、ただそれだけです。
私は「炎上弁護士」と呼ばれ、揶揄されることも多々あります。 炎上していようが、私は弁護士です。弁護士として言わなければいけないことがあります。
本書では、その言わなければいけないことを、率直に言います。批判を恐れずに。

日本のスマートフォンの個人保有率は、2015年には5割を超え、あらゆる人が インターネットを常に利用できる環境となっています。
インターネットは、情報を調査し収集するのにとても有用なツールですが、利用の仕方によっては、とても危険なものにもなります。

私が体験したことをお伝えする本書を通じて、一人でも多くの方々に、インターネットをめぐる問題が共有され、より健全なインターネット利用がなされることを願っています。
最後に、本書の出版にあたって、ご尽力いただいた関係者の方々へは、この場を借りて厚くお礼を申し上げます。

2018年11月 唐澤責洋

目次

まえがき 1

プロローグ

100万回の 殺害予告が来るまで

――誕生日に突然、見知らぬ人から郵便物が届いた

自宅に届いたレターパック 14

第1章

なぜ、僕が炎上弁護士になってしまったのか
きっかけは「2ちゃんねる」 30
そして、ついに殺害予告が来る 36
被害はついに家族に及ぶまでになった…… 40

第2章

弁護士を目指したきっかけは、弟の死
私には年子で仲良しの弟がいた 48
壮絶なリンチの末、弟は自死を選んだ 50
戦えるだけの力をつけた大人になりたいと誓ったあの日 55
弟の死でバラバラになりかけた家族を救った 57

第3章

落ちこぼれが弁護士になるまでの茨の道
恵まれた家庭に生まれ育って 62
ツマラナイ大人になりたくないと、高校1年で中退を決意した 64
ドロップアウトしたものの、何をしていいかわからない 67
何があっても見守ってくれた家族 71
定時制高校へ入学。社会とのつながりが再び持てた 74
人より3年遅れて大学に入学する 79 自分が欲しいと思っていた力が法曹の世界にはある 84
誰もやっていないことをやろうと決意が固まったインターンシップ経験 87

第4章

弁護士になってからも茨の道は続いた
最初の事務所を半年で辞めることに 94
ネットの誹誘中傷案件を担当して…… 97
被害は拡大し、悪質を極める 98
親子関係の未熱さがネットに走らせる? 105
唐澤責洋という"記号"を利用して"居場所"を探す人々 108
事務所の鍵穴にボンド実家の墓に落書き……被害はエスカレートしていく 112
ついに、なりすましによる爆破予告がなされる 119
爆破予告をした人物逮捕された! 122

第5章

ネット社会のゆがみ、人の心の闇を思い知らされた
私が考える炎上の定義とは 128
誰が、なぜ炎上行為を行うのか 131
インターネットが凶悪犯罪の温床に 133
誰もがネット犯罪に巻き込まれる時代がそこまで来ている 140
正義は多数決では決まらない 142
ネット炎上にどう対応していけばいいのか 144

第6章

100万回の殺害予告を受けても、僕は弁護士を辞めない
フェイスブックによる反論 150
炎上で私の生活環境は一変した 156
個人主義が根づいていない社会 161
プライバシーなどの暴露の手口 166

エピローグ

すべては人権のために
新たな被害者が今でも生み出されている 172
ネット広告の功罪 176
被害者を守る法律をつくりたい 177
なぜ被害者を守る法律がないのか 185
インターネットは新しい非行・犯罪の温床に 188
未成年者のインターネットの使い方 190
信念は曲げない 194
それでも僕は人を救いたい 199

あとがき 205

装丁 ナカジマブイチ (BOOLAB.)

プロローグ 100万回の殺害予告が来るまで ―誕生日に突然、見知らぬ人から郵便物が届いた

自宅に届いたレターパック

私が38回目の誕生日を迎えた2016年1月4日。仕事を終えて、深夜、自宅に戻ると、見知らぬ人からのレターパックがポストに届いていた。
差出人の住所も名前も、心当たりがまったくない。それなのに、レターパックには自宅の住所と私の名前が書いてある。
私は瞬時に嫌な予感がして、悪寒がした。
その場でレターパックを開けて見てみると、A4判5枚ほどの小説のようなものが入っていた。[1]気味が悪すぎて内容はよく読まなかったが、
おどろおどろしい幽霊のような字体のフォントで書かれたものを見て、「やっぱり……」と目の前が真っ暗になった。
「ついに自宅まで特定されてしまったか」と絶望して、その場に立ち尽くした。

詳しくは後述するが、これまでも、私は数多くのプライバシー侵害を受けてきた。インターネット上での私への誹諾中傷は、2012年から現在に至るまで、ずっと続いている。
インターネットの検索エンジンで、私の名前「唐澤貴洋」を検索すると、とてつもない量の書き込みが出てくる。その多くは掲示板やSNSで私をネタとしてからかい、揶揄して、勝手にねつ造されたものばかりである。

最初は誹謗中傷程度であったものが、それだけにとどまらず、私への殺害予告、私の弁護士事務所への爆破予告と書き込みの内容もエスカレートしていった。
そして、事務所のある建物に侵入した動画をネットで公開する、事務所の入り口に私を中傷した落書きを残す、カミソリ入りの手紙を送ってくるなど、悪質なイタズラによる実害もこうむっている。
あるときは、私の後ろ姿を撮影した写真までがネットに公開されることも……[2]

弁護士という仕事の特性上、事務所の所在地を公開するのはやむを得ないこと。
実害に対して嫌悪感や恐怖心は抱きつつも、ネットでの言動がエスカレートしている状況を鑑みると、事務所への実害は想定の範囲内ではあった。
しかし、ついに自宅まで突きとめられたとなると、身の危険を一層感じざるを得なかった。

不安と恐怖に駆られながら、パソコンを開いて、インターネットを確認した。すると、私について書かれている掲示板の中で、やはり私が住んでいる自宅のマンション名が明記されていた。
レターパックの宛先を再度確認すると、部屋番号までは記載されていない。
つまり、レターパックの送り主は部屋番号までは特定できなかったということだ。
ただ郵便局貝が気を利かせて、親切心でレターパックを私の自宅ポストに投函してくれたのだろう。
しかし、配達記録が残るレターパックを私が受け取ったことで、配達完了が送り主に伝わってしまったことになる。いずれ不審者が私の自宅マンションに来て、事務所と同様に不法侵入やイタズラをするのは間違いない。
このマンションにはもういられない
そう思うと、心臓の鼓動が早くなった。

すぐに私は家を出る決心をした。
同じマンションの住人や、お世話になっている管理人に迷惑をかけるわけにはいかない。
私の居場所がバレているのであれば、当然、自分も危険な目に遭うかもしれない。このままでは安眠もできない。もうここでは平穏な日常が送れない。
そう判断して、私は外に室内の光が漏れないよう、暗い部屋の中で日常生活に必要な最小限の荷物をトランクひとつに詰めて、深夜に部屋を出た。
 マンションを立ち去る前に、住所がネットで明かされた今となっては、同じように不審な郵便物が次々と届くことが頭に浮かび、ポストの差込口にはガムテープを貼って対応した。
その後、自宅マンションから遠く離れたホテルに移った。これでしばらくはホテル住まいになるだろうと、内心穏やかではなかった。

なぜ私の自宅マンションが特定されてしまったのか……。
推論の域を出ないが、おそらく私の出身大学のデータベースで、住所が判明してしまったのだろう。
その日見たインターネットの投稿の中に、「大学のデータベースを見た」と書かれていたのだ。
私の出身大学では、在校生であれば、OB・OGの個人情報が簡単に見られるシステムになっている。
個人情報が見知らぬ第三者に勝手に盗み見される危険性を、大学の広報に伝えたが、なしのつぶてであった。

ちなみに、私に対する殺害予告が同大学のIPアドレス(インターネットに接続された機器が持つナンバーで、インターネット上での住所のようなもの)からなされたときにもクレームを入れたが、大学側からは一切報告がなかった。
逆に「何も答えない」という事実から、やはり情報源は大学のデータベースなのだと確信している。
大学のシステムが現在どうなっているかはわからないが、少なくとも2016年の段階では、大学の個人情報の管理がきちんとなされていなかったこと自体に、私は相当の危機感を抱いている。

嫌がらせは自宅への郵送物だけではない。
インターネット上でも、赤の他人である人物の近しい関係者であるかのように書かれることもしばしばだ。
たとえば、2014年5月、岩手県で開催されていたAKB48握手会での傷害事件の犯人として、私がインターネットで誹譜中傷されたことがあった。
新聞にも載った事件なので覚えている方も多いと思うが、背森県の24歳男性が、改造した折り畳み式のこぎりで、入山杏奈さんと川栄李奈さんと男性スタッフの計3名を襲った事件だ。犯人はその場で現行犯逮捕された。
当然、そのとき私は岩手県にもいないし、犯人はその場で捕まっているのだから、犯人であるはずもない。
しかし、ツイッター上では、なぜか私が犯人だということで盛り上がっていたのだ。

最近の話でいえば、2017年には元SMAPの3人が所属するCULENという事務所が、偶然、当時私が構えていた虎ノ門の弁護士事務所の隣に入居してきた。
すると、雑誌やテレビの記者から「CULENの顧問弁護士になったのですか?」「関係者なのですか?」などと問い合わせが殺到した。
インターネットでの書き込みを鵜呑みにしたマスコミが、真偽のほどがわからずに確認してきたのだ。

また、同じ年の9月に『週刊文春』で不倫疑惑が報じられた山尾志桜里衆議院議員の相手として、私の名前が取り沙汰されたこともある[3]
私は山尾議員と面識もないどころか、当然、不倫相手でも何でもない。

その号が発売される前日に、あるジャーナリストが「山尾議員の相手はK弁護士」とツイッターに書き込んだのを見た人たちが、ツイッターに「K弁護士は唐澤じゃないか?」と書き込んだのが発端だった。
それが思いも寄らぬほど拡散していった。完全なるフェイクニースを流されたわけである。
都内の某テレビ局が実際に、アポなしで取材に来たことで、私はその事実を知った。
アポなしで来た方には、「その書き込みを本当に信じたのですか?」と問うて、帰っていただいた。

さらに不謹慎で悪質だった投稿もある。
「法律事務所クロス 弁護士唐澤貴洋弁護士」というツイックーのなりすましアカウントが、昨年お亡くなりになった小林麻央さん(享年34歳)の〝叔父〟を騙り、「私の姪の小林麻央、先ほど亡くなられたとの第一報」という投稿をしたのだ。

私が書いたものでないことは明白だし、そもそも当時39歳の私が、小林麻央さんの叔父であるはずもない[4]
お亡くなりになったという正式発表の会見がある何時間も前に、私のなりすましアカウントをつくった人物が、そうした心ない投稿をしていたのだ。
実際にテレビ局、スポーツ新聞、大手新聞社の記者からの問い合わせがあっただけではなく、ツイッター上では多数の非難がなされ、大炎上していた。
その内容は、「親族でもない人間が勝手なこと言うな」「この唐澤っていう弁護士はおかしい」などであった。

私はその日のうちにツイッター社(ツイッター・ジャパン)になりすましアカウントの削除請求をしたが、それは受け入れられなかった。
しかし、さすがに死者を冒涜するような行為は悪質すぎるため、犯人を特定しようと、私はすぐに動き出した。ツイッター社に発信者のIPアドレスを開示する仮処分手続きをとったのだ。

実はこの捜査はまだ継続中であるが、私としては法的手続きに則った情報開示による情報をすでに得ている。
犯人は、この本を興味本位で手にしているかもしれない。良心の呵責があるのならば、自ら名乗り出てほしいと思っている。[5]

このように、社会的に有名な方々と私が紐づけられ、SNS上でのなりすましアカウントが勝手に根も葉もない投稿をし続けていると、
私を知らない人たちからすれば、本当に「唐澤貴洋」という人間が情報発信していると誤解してしまうだろう。
刑事的には業務妨害、民事的には人格権侵害として、損害賠償請求の対象にもなりうる案件であるにもかかわらず、いまだに無法地帯であるのだ。

さらに、私が驚いたのは、インターネット上のフェイクニュースを本当の事実であると誤解して、アポなしで突然マスコミの方々が取材に来ることだ。
実際に私の事務所を訪れるならまだしも、実家の両親に対して「息子さん(=私)が容疑者とされていますが……」と問い合わせがいくこともたびたびあった。
事件や訃報、話題の出来事に何の関係もない私の名前が紐づけられ、インターネット上で取り上げられるたびに、マスコミの方々が押し寄せてくる。

たしかに、現役の弁護士が何かの事件の当事者、しかも加害者となれば、ニュースは盛り上がるのかもしれない。しかし、私がインターネット上で被害に遭っていることは、少し調べればすぐにわかることだ。
私に関するフェイクニュースも、情報源が信用できなかったり、私とはまったく関係がないとすぐに判明したり、
不自然で怪しい文脈だったりするため、本来なら情報を扱うプロであるマスコミの方々が惑わされることはないはずだと思っていたが、
実際にマスコミの方々からの問い合わせがこれだけあることを考えれば、そうした知識を持ち合わせていない一般の人たちがインターネットの情報をたやすく信じてしまうのは仕方がないのかもしれない。

従来、マスメディアがマスメディアとして機能していた時代は、番組でのコメンテーターや芸能人などのタレントの発言も、ある程度スクリーニングされていたように記憶する。
つまり、扱いの大きさも含めて、報道すべきか否かの判断基準が少なからずあったように思う。
ところが、各個人がメディアを持ち、自分の意見や主義主張を、世間の目などのフィルターを通さずに情報発信できる現代にあっては、
情報そのものが玉石混交であることを認識したうえで、各自が判断していかないとならない時代になっているのだ。
そうした時代背景を考慮しても、情報を精査すべき立場のマスコミの仕事に就いている記者が、インターネットの情報を鵜呑みにして問い合わせすることが少なくないことに正直驚きを隠せない。
このことは非常に恐ろしい事実であるので、改めて多くの人に知っていてほしい。
たとえば、法律家は論証の中で「多くの人間が言っていることが、論理的に正しいわけではない」という考え方を学ぶ。
インターネット上で飛び交う情報の多くは、根拠がなく、真偽も厳密に精査されないまま、容易にリツイートやコピーをされて、拡散していく。
多くの者がリツイートやコピーをした記事は、多くの者が賛同しているという一点で、信用されているのだ。
ウソで塗り固められた意図的な情報操作も簡単にできてしまう。こうした危険性を理解したうえで、自戒も込めて情報を取捨選択していかねばならない。

今回、私が本書で伝えたいのは、人々の生活に必要不可欠になったインターネットは、使い方次第で恐ろしい道具にもなるということである。
これから紹介する私に起こった出来事は、決して他人事ではなく、誰でも当事者=被害者になる可能性があるということ。
人知の結集であるインターネット技術が進歩した現実世界に、それを利用する人々のリテラシー、そして、人々を守るべき法律が追いついていないこと。
こうした状況に警鐘を鳴らしたいのだ。

残念ながら、現行の法律では、インターネットによって被害を受けた人たちの権利を守り切ることができない。
インターネットがこれだけ人々の生活に密着する前にできた法律であるため、本書で起こったような事態は想定されていなかったのだ。
しかし、私は弁護士を生業としているので、いち法律家として、現実に見合った法律をつくりたいとも思っている。
法律をつくるのは一朝一夕にはいかない。
10年単位の年月がかかる大仕事でもある。その間にも、インターネットを利用した悪意により、誰かが傷つけられ、誰かが被害に遭っている。
被害者は刻一刻と増え続け、追い込まれている。
本書がそうした現実を改善する一助となればという思いから、筆をとった。
私の身に起こったこと、その経緯、今後の課題などをわかりやすくお伝えして、そうした事態に陥らないための道しるべとなれば率いである。

第1章 なぜ、僕が炎上弁護士になってしまったのか

きっかけは「2ちゃんねる

私がなぜインターネットで炎上することになったのか、簡単に経緯を説明します。
事の始まりは、2012年3月。当時、インターネットの電子掲示板「2ちゃんねる」で誹謗中傷されていた少年の弁護を引き受けて、誹謗中傷記事の削除請求等を行ったことでした。
当時「2ちゃんねる」では、削除請求や匿名投稿者の特定などの依頼をすべてインターネット上で行うという方式をとっていました。
誰がどのような要求をしているのか、内容がすべて公開されてしまうのです。
権利侵害を受けている者が、自ら被害者であることを公表して、誹謗中傷記事の削除を求めることは、
ときに、心無い者の目にとまり、削除できるどころか、記事がコピーされて、むしろ拡散してしまう危険性をはらんでいました。

そんな状況下で私は、「2ちゃんねる」に削除請求をしたものですから、格好の標的になってしまい、あることないことが大量に、「2ちゃんねる」上で削除請求をした直後から書かれ始めました。

当時、インターネットでの誹謗中傷の削除などを担当している弁護士は私のほかにも数人いましたが、私はリスクがあっても、困っている依頼者がいる限りは断らないというスタンスで仕事をしていました。
もちろんその志は今も変わりません。しかし、ものすごい勢いで「この弁護士、何だかおかしいぞ」と「2ちゃんねる」で新たなエサにされ、叩かれ始めたことには、相当な危機感を抱きました。

そのとき、私は弁護士として独立して、まだ1年弱。新米弁護士のため、自分で新しい仕事をどんどん開拓していかねばならない立場にあり、誹謗中傷問題をメインの分野として取り組むことにしました。
そこで、私は営業活動の一環として、事務所のホームページや事務所アカウントのツイッターを開設しました。

インターネット上での名誉毀損の事件が増え始めていた時期でした。誹謗中傷などで困っている方はインターネットを利用している方が多いのではないかと思い、
多くの人に自分の存在を知ってもらおうと、インターネットを精力的に活用し始めました。
そこで、ツイッターでは名誉毀損とかかわりのありがちな政治家、芸能人、著名人など多くの有名人をフォローしていました。

その中にアイドルがいたことが、炎上を加速させてしまったようです。
「こいつはアイドルオタクだ」と決めつけられ、「ドルオタだ」と揶揄され始めたのです。

ちなみに、私の趣味は読書と映画鑑賞で、アイドルについてはまったく詳しくありませんでした。
たとえ私がアイドルオタクだったとしても、弁護士をやっていくうえで何の支障もないとは思いますが、
「ドルオタ」というレッテルを貼りつけて、ある種の高揚感を共有してアイドルオタクに対する差別的な感情を前提として、
マウンティング(人間関係の中で、何事につけても相手をそれとなく貶め、自分が優位に立とうとする言動のこと。格付け争い)をした気になっている者がいることに、激しい違和感を抱きました。

とにかくおかしなことになってしまっていると、すぐにツイッターを非公開にしましたが、一度燃え出した火花は延焼していくのでした。

掲示板上では、私の名前とネガティブなキーワードを組み合わせた投稿をたくさんすることによって、検索エンジンのサジェスト(予測変換)ワードをつくり出そうとする動きがありました。
つまり、「唐澤貴洋 犯罪者」「唐澤貴洋 詐欺師」などのように、私の名前を貶める言葉を次々と入力し、私の名前を入力すると予測検索で表示させようと盛り上がっていたのです。
こういった行為は、「サジェスト汚染」と名づけられ、その後、誹謗中傷の手段として繰り返し行われていきます。
そうした誹謗中傷は悪質を極め、ありとあらゆる罵詈雑言が毎日インターネット上で羅列されていきました。

私は、そういった誹謗中傷に対して、裁判所で仮処分を取得し、「2ちゃんねる」上で発信者の開示を求める手続きをとり続けましたが、そのことがさらに反感を買い、誹謗中傷は加速していきました。
サジェスト汚染について取得した仮処分について、「無差別的に仮処分をとっている」という見解がインターネット上にありました。
しかし、サジェスト汚染による権利侵害を疎明(裁判官に確からしいという推測を抱かせること)し、裁判所から正式に決定を取得したものであって、その見解は、的を射ていませんでした。

今では弁護士もインターネットを使って仕事の営業をするのが主流ですが、当時はまだ使いこなす人が少なかった時代。
そもそも弁護士に関する情報量が少ない中で、私自身がひときわ炎上していくのは、弁護士生命が危ぶまれる事態です。当然ながら、弁護士というのは対外的な信用が重要ですし、それを大切にする職業です。

ところが連日、大量に誹謗中傷が投稿された結果、私の名前や事務所名で検索すると、「犯罪者」や「詐欺師」といったひどい文言が同時に出てくるようになってしまったのです。
常識的に考えても、インターネット上でさんざん誹謗中傷されている弁護士に、仕事を依頼しようと思う人など皆無でしょう。
弁護士として砦ともいえる信用が、毎日のように目の前で失われていく窮状をどうにかしようと、私のほうからも誹謗中傷を書いた人物の身元を特定するべく、必死で法的手続きをとりました。
しかし、その甲斐もなく、かえって「こいつは反省していない」「歯向かってきたぞ」と、書き込みの内容はますますひどくなるばかりでした……。

そして、ついに殺害予告が来る

この一連の出来事は、数週間の間に起こったことでした。
それからというもの、連日の誹謗中傷によって、インターネットを見ていないときに何が起こっているかが気になり、不安でよく眠れなくなりました。
そして、頻繁に悪夢を見るようにもなったのです。
感情の起伏がなくなり、夜にはアルコールを摂取しなければ、寝つくのに時間がかかるようになりました。
ようやく眠りについても、悪夢を見て、目を覚ましてしまうことがたびたびありました。

また、周囲の目が気になり、人混みに出ることを極力避けるようにもなりました。
匿名の者による投稿によって誹謗中傷されているため、どこに私を攻撃しようとしている者がいるのかがわからず、疑心暗鬼になっていたためです。
ポイントカードを利用することをやめたのもこの頃です。
不用意に個人情報を外部に出せば、リスクコントロールできないからです。

そうした不安定な生活が5カ月ほど続いたある日のこと。毛色の違う新たな投稿が出てきたのです。
それが殺害予告でした。

「8月16日、五反田で唐澤貴洋を殺す」 「ナイフでめった刺しにする」 といった投稿でした。
その投稿者は、当時高校生でした。 彼が未成年であることがわかったため、都内で印刷会社の社長を務める父親に連絡をとると、
本人に確認もせずに「そのようなことを息子がするはずがない」とにべもなく電話を切られてしまいました。
連絡した時点で彼の自宅に送った内容証明は、まるで戦利品かのように「唐澤から内容証明が来たぜ」とインターネットでさらされました。
このことは子どもがインターネット上で何をしているのか、親が管理監督できていない事実を示していました。
当時、高校生だった彼も、今は成人しています。真っ当に生きることを願ってやみません。

この殺害予告を皮切りに、インターネット上では私への殺害予告がブームになっていきました。
誹謗中傷だけのときは警察には頼りませんでしたが、さすがに殺害予告については、警察に相談をせざるを得ないと判断しました。

その後、警察によって10数件以上も立件され、助けていただきましたが、当時は、警察においても、まだインターネット上の投稿が犯罪になるという認識が薄かったように思います。
私は「IPアドレスとは何か」「どうすれば犯人を特定できる可能性があるか」など、警察署で一生懸命伝えました。
私自身は数えたことはありませんが、警察の方から聞いた話だと、私は100万回もの殺害予告をされているとのことでした。

この100万回にも及ぶ殺害予告がどの程度のものなのか、なかなか想像できないと思いますが、ネットに「殺害予告ランキング」という、あまりうれしくないものがあります。
誰がカウントしたかは不明ですが、それによると、1位はジャスティン・ビーバー、そして2位が私、3位にジョージ・ブッシュ、以下、ランス・アームストロング、バラク・オハマ、パリス・ヒルトン、タイガー・ウッズなど、錚々たるメンバーなのです。[6]
この中で私が2位にランクインしていることを見るだけでも、その異常さ加減がわかってもらえるのではないでしょうか。

誹謗中傷を受けて、すでに疲弊しきっていましたが、2012年8月の殺害予告以降、私の生活はさらに一変しました。
「殺害されるかもしれない」「殺されずとも、刺されたり、車で突っ込まれたりして危害を加えられるかもしれない」という恐怖を日々抱き、同じ行動パターンをとらないよう、毎日歩く道を変えました。
背後に人がいないか、常に気にするようになり、不審だと思う人がいれば、行動を確認したうえで先に行かせました。
狭い密室が怖くなり、エレベーターではなるべく人と一緒に乗らないようにしました。周りを気にして、ビクビクするようになったのです。
これでは正常な精神状態が保てません。
相変わらず夜はアルコールを飲まなければ、眠りにもつけません。
床に入ると「このまま朝、目覚めなければ楽になるのに……」と何度も思いました。考え始めると不安と恐怖が襲ってきて、夜遅くまで眠れないことも多々ありました。

被害はついに家族に及ぶまでになった……

さらに、誹謗中傷の矛先は、私のみにとどまらず、私の家族にまで及びました。
殺害予告の1カ月後の2012年9月には、私のプライバシーをすべて暴くべく、実家の住所がインターネット上でさらされたのです。

当時、私は公認会計士の父親と共同で、五反田事務所を構えていました。
実家の住所が特定されたのは、かつてNTTの電話帳に実家の住所や電話番号を登録していたためです。
インターネット上に、NTTの電話帳の情報を、許可を得ないまま公開しているサイトがありました。
このため、インターネット上で父親の名前で検索された際に、同サイトの存在により実家の住所や電話番号が知られてしまったのでした。

住所を特定されたあとは、見知らぬ人物が実家周辺を排御して写真をアップしたり、実家の登記簿がインターネットにあげられたり、そこからさらに、父親の実家も暴かれたりしました。
真偽のほどはよくわかりませんが、私の家系について、多数の資料を調べ、勝手にインターネット上で家系図がつくられているようです。
どこの誰かもわからない、不特定多数の得体のしれない加害者たちの悪行に、抗う力もなす術もなく、恐怖におののく日々を過ごしていました。

2013年には、弁護士として独立して初めて構えた五反田の事務所を移転することにしました。 当然ながら、新たな物件を探す手間、引っ越し費用、荷造りの煩わしさ、引っ越し作業自体の時間もかかります。
私がインターネットでの被害に遭っていなかったら、する必要のない引っ越しです。 結局、2013年から2018年現在までの5年間で、私は事務所を4回も移転せざるを得ませんでした。
自分の命と本業を守るためのリスクマネジメントとしてやむを得ないとはいえ、精神的にも肉体的にもつらい時期でした。

殺害予告をされ始めて、1年半が経った2014年5月、ようやく初めて一人の逮捕者が出ました。
21歳の派遣社員の男性で、私とはまったく面識のない人でした。
現実でもインターネット上でも、彼とは一切関わったことはありません。

逮捕時の様子はテレビで報道され、彼の顔も見ましたが、幼く寂しそうな眼をしていたのがとても印象的でした。
私は彼がきちんと更生して、二度と脅迫行為などしない平和で幸せな生活を送ってほしいと今でも強く願っています。

逮捕者が出たことで、少しの間、殺害予告が投稿されることはありませんでした。
しかし、そんな静寂もつかの間、それ以降は携帯電話でツイキャスティング(通称ツイキャス)というストリーミング配信を行いながら、
突然、私の事務所に押しかけてチャイムを鳴らしたり[7]、事務所の上の階から撮影した写真を投稿したりする実動部隊が出現しました。

インターネットという二次元の世界から飛び出し、現実(実在)の私の近くに現れる者が増え、その行動もどんどん過激になり、実害へとエスカレートしていきました。
おそらく、ネット上での誹謗中傷では満足できなくなり、より刺激を求めたのではないでしょうか。
なぜ炎上するのかは、改めてお話ししたいと思っていますが、掲示板で盛り上がっている人たちには絶えず新しいネタが必要なのです。
同じレベルのことをしていると飽きてしまうのが、彼らの特徴でもあります。
ただ、殺害予告をした者の中から逮捕者が出たことで、「殺害予告なんてつまらない」「捕まったら嫌だし」という流れになっていったようです。

しかし、彼らには刺激が必要です。
そこで、殺害予告に代わる新たな投稿が出現したのは必然の成り行きでした。動画配信にも飽き足らない彼らが次に手を出した手段——。
それが爆破予告です。
しかもその予告には、私の事務所を爆破するという人物だけではなく、私の名前を騙り、地方自治体などに爆破予告する人物まで現れたのです。
いわゆる、なりすましによる犯行です。

殺害予告に代わって登場した爆破予告は、連日のように投稿され続けました。
「爆破予告された事務所の様子を撮りに来た」と、あるテレビ局のクルーが事務所の前に突然やって来たこともありました。
事務所のある階と同じ高さの場所を目の前のアパートで確保し、そこから、事務所の様子を撮影していたのです。
もし、爆破が起こったら、そのテレビ局のクルーも被害を受けるのは間違いないのに、撮影しているその様は、本当に爆破が起こるわけはないと思いながら、単にテレビのネタとして映像を撮ろうとしていることを意味していました。

「まさか本当に爆破されないだろう」
「大丈夫だと思うが、とりあえず犯行時刻までいよう」
という呑気さが伝わってきて、私は非常に気分を害しました。私は日々流れて消費されていくニュースの箸休めの面自ネタではないのですから。

そのあとも数多くの実害をこうむりますが、私は弁護士活動を続けました。
よく弁護士を辞めませんでしたね、と聞かれることがあります。それには私が弁護士になった経緯をお話しする必要があります。

第2章 弁護士を目指したきっかけは、弟の死

私には年子で仲良しの弟がいた

私には年子の弟がいて、同じキリスト教系の私立小学校に通っていました。
弟はやさしい性格のお人好しで、ちょっと悪ぶっているような強めの同級生から割といじめられやすいタイプでした。
そのため、ちょっとしたことでよくいじめに遭っていました。
私は、小学校で弟が泣いていると聞くと、弟の教室に行って、「泣かせた奴は誰だ! 出てこい!」といじめた相手を見つけ、ケンカをしていました。
弟の同級生たちからは、「怖い兄貴」「ヤバイ兄ちゃん」と恐れられて、「アイツをいじめると、兄責が出てくるからやめておけ」という抑止力にはなっていたと思います。

こんなことをいうと、正義感が強かったと思う人もいるでしょうが、当時の私は単純に、弱い者いじめをする奴が許せなかっただけ。
特に身内がやられるなんて、絶対に許せない。やられたら必ずやり返す。そう思っていました。
幸いにしてケンカは強いほうだったので、弟を守ることができていました。 とはいえ、年が1歳しか変わらないこともあり、普段は一緒に外で遊んだり、駄菓子屋に行って買い食いをしたり、
他愛のないことで兄弟ゲンカをする、どこにでもいる仲のいい兄弟でした。

小学校を卒業して、中学・高校になると、私たち兄弟は別の私立大学系列の付属校に通うことになりました。
お互いに思春期を迎え、自我が芽生えていたため、それぞれのコミュニティをつくり、そこでできた友人と遊ぶようになり
、 ほかの家庭の兄弟などと同じように、私たちも次第に行動をともにすることもなくなりました。
家庭で口をきくこともほとんどなくなり、お互いが何を考え、何をしているのかもわからず、疎遠になっていきました。

私自身、自分の人生に疑問を持ち、通っていた高校を中退して、定時制高校に入り直すなど、人生の岐路を迎えていました。
正直なところ、自分のことでいっぱいいっぱいで、弟のことを顧みるような余裕もなかったというのが実状です。

そして、1995年8月25日のことです。
弟が突然、自ら命を絶ったのです。

壮絶なリンチの末、弟は自死を選んだ

弟が自殺したのは、高校2年生、16歳の夏でした。

弟は中学から同系列の高校にエスカレーター式で入学していましたが、その弟の様子が徐々におかしくなっていることに私はうすうす気づいていました。
たとえば、高校入学直後は普通の学生だったのですが、次第にヒップホップミュージシャンが着るようなストリートファッション(B系ファッション)を好んで着るようになったのです。
オーバーサイズのTシャツに、ダボダポのずり下げたズボン(腰パン)を履いていました。
人がよく、やさしかった以前の弟とは、イメージがまったくかけ離れています。
なぜそんな個性が強めの格好をするようになったのかと、実は私は気になっていました。
彼が自ら選択し、好んで着ている服装ではない気がしたのです。見た目からも私がよく知っている弟ではないのは明らかでした。

あとになってわかることですが、弟がエスカレーター式で入学した高校には、中学から進学する生徒と高校から新たに入学する生徒がいました。
高校から新しく入った生徒の中に、私たちが住んでいた実家の近くに住んでいる不良のKがいて、その人間を通して弟は地元の不良グループとつながったようでした。

不良グループと関係を持ったあとのことだと思いますが、こんなことがありました。
あるとき、弟の腕をふと見てみたら、赤い痕のようなものがありました。
それは、火のついたタバコを皮膚に押し当ててできた、いわゆる〝根性焼き〟なのですが、当時の私にはそれが根性焼きという認識がなく、「赤くなってるよ? 火傷か? どうした?」と事の重大さもわからずに尋ねました。
すると、弟はうつむき、何も言わない。私はその様子が気になって、母親に「何かおかしいと思う。注意して、様子を見ておいたほうがいい」と忠告だけはしました。

先ほど述べたように、私と弟は思春期真っ盛りで疎遠になっていました。
それでも、私は弟の身に何かよくないことが起こっていることは敏感に察していました。何だか違和感を抱いていたのです。
しかし、弟に面と向かって言うのはさすがに気恥ずかしくて、「弟に『何かあったら、俺に言え、俺を頼れよ』と言っておいて」と、直接本人ではなく、母親に伝えることしかできませんでした。

当時、東京の繁華街にはさまざまな不良グループが存在し、「パーティーを開く」という名目のもと、パーティー券(パー券と呼ばれていた)を売りつけ、収益を上げていました。
パーティーは金目当てであったので、開かれないこともしばしばありました。
弟は高校の同級生のつながりで知り合った地元の不良たちに目をつけられて、パシリ(使いっぱしり)、恐喝の対象になっていたようです。

また、その不良グループには、優秀な私立高校をドロップアウトし、「人を殺すことは怖くない」「自分は少年院にいたことがある」と吹聴している人間もいました。
こういった連中の中に、後に暴力団員になり、振り込め詐欺で捕まった者もいました。
この連中に、弟は「パー券を売ってこい」と命令されていたのですが、人のよい弟は開かれないパーティーのチケットなど当然売ることができるわけもありません。
その結果、パー券が売れなかった見せしめに、多摩川の河川敷で、弟は壮絶な集団リンチに遭いました。
そして、その日の夜に、弟は自らの命を絶ったのです。

1995年8月25日、弟が死んだ日のことを私はよく覚えています。
夏休み中だったので、家族の誰もが、弟が部屋から出てこないのは、ただ寝ているだけだと思っていました。
しかし、昼を過ぎても起きてこない。不審に思った父親が弟の部屋に行くと、部屋の鍵がかかっていました。
そこで、鍵をこじ開けて部屋に入ってみると、そこには首を吊った弟の姿があったそうです。
首を吊ったまま冷たくなっている息子を、父親は一人で降ろしました。

そこで、家族が呼ばれました。ですから、母も私も、弟が首を吊っている現場は見ていません。
弟は全身、傷だらけ、アザだらけで、自傷の跡もありました。
その顔は、半日を開いて、虚空を見つめて、口が開いていました。
首吊り自殺はなかなか死ねない、とどこかで聞いたことがありますが、苦しみ抜いて、悶絶して絶命した弟の表情を一生忘れることはないでしょう。

弟は集団リンチに遭ったあと、家族の誰にも会わないよう、夜中にこっそりと自宅に戻ってきて、そのまま遺書を書いたようです。
その遺書には、自分を追い詰めた連中の名前が書いてありました。そして、家族全員の名前のあとに「ごめんなさい」とも……。

戦えるだけの力をつけた大人になりたいと誓ったあの日

その後、警察がやって来て、現場検証が始まりました。
弟のバッグからは、売られなかったパーティー券が大量に発見されました。
警察からは、「弟は開かれる予定もないパーティー券を売れと命令され、売れなかったことを責められて、多摩川の河川敷で、暴行に遭った」と聞きました。
偽りのパーティー券を売る後ろめたさ、売らないとまた集団リンチに遭う恐怖との狭間で、おそらく精神的に追い込まれてしまったのでしょう。
弟は、心身ともにポロポロで限界になり、自ら命を絶ってしまった。今でも私はそう思っています。

集団リンチと自殺の関連は明白だったのですが、結果として事件として立件されたかどうかもわかりませんでした。
両親が何度となく、警察に働きかけていましたが、その少年たちがどうなかったかは何も教えてもらえませんでした。

私は17歳でした。
「この社会には人の命を奪う悪が存在する」と思うと、強い怒りで体が震えました。弟を死に追い込んだ連中を「殺してやりたい」と本気で恩いました。
小学校でいじめに遭っていた弟を救ったように、今度も兄である私が決着をつけると。
これが当時の私の偽らざる本音でした。

でも、未成年だったあの連中は、弟が死んだというのに何のお各めもなく、普通に暮らしているのです。
そんな状況を見て、17歳の私は「世の中には絶対的な不条理が存在する。その不条理と立ち向かわなければいけない」と、怒り、諦め、不信感、絶望感などが複雑に絡み合った感情を抱きました。
と同時に、知識も経験もなく、何もできなかった自分の無力さにも打ちひしがれていました。
ただ私が強烈に感じたのは、「力が欲しい」「力を持たなければ何もできない」ということ。
大切な弟が〝殺された〟というのに、手をこまねいて見ていることしかできないなんて、不甲斐ない。
どうしようもない矛盾や危機に対噂したとき、戦えるだけの力を持った大人になりたいと、そのとき心底から思ったのです。

弟の死でバラバラになりかけた家族を救った父

弟が死んでから、家族はガタガタになりました。
家はいつも暗く、シーンと静まり返り、母は精神的なショックによりふさぎ込み、毎日泣いていました。
家族がバラバラにならずに踏みとどまれたのは、父のおかげでしょう。
もちろん、父も悲しみに打ちひしがれていたとは思うのですが、家族の前では涙ひとつ見せませんでした。
毎日仕事も休まずに行き、淡々と日常をこなしていく。
家族が精神的に参っているからこそ、「自分がしっかりしないといけない」「自分が崩れたら終わりだ」と気負っていたのかもしれません。
人としてタフなんだと思います。

しかし、そんな父も弟が死ぬ前は信心深くなかった印象がありますが、弟の死後はよく神社に参ったり、四国のお遍路に行くようになったりはしました。
父なりに弟を弔っているのではないかと思っています。
親戚からは「高校も中退したし、フラフラしていて、危ういのは弟ではなく貴洋のほうだった。だから、貴洋のほうが、自殺したのだと思った」と言われたこともありました。
自分が親戚からの評判も悪く、親に迷惑もかけていたのは重々承知していました。
迷惑をかけている自分が生き残り、家族や親戚の期待を背負っていた弟が死んだ今、
「自分が家族を守っていく。強くならなければいけない。そのためには勉強をして、悪と戦えるだけの力、手段を手に入れなければ」と、心を入れ替える決意をしました。

当然ですが、この決意に至るまで一本道ではなく、紆余曲折がありました。
「どうして救えなかったのか」「もっとあのときこうしていれば」「弟のSOSに気づいてあげられていたら」と悶々とし、
もしかしたら、弟の自殺を食い止められたのではないかと、自分を責め続ける日々を過ごしました。
高校の授業が終わると、弟の墓へ行き、一人泣いていたこともありました。
両親とはそんな話はしたこともありませんが、これは何も私だけではなく、家族もそれぞれ自分を責めていたと思います。

子どもが成長して高校生くらいになると、行動範囲も交友関係も、親が把握していないところまで広がります。
自分の高校時代を思い返してみても、やはり親にいちいち話などしませんでした。
新しい友人や恋人ができたりして、親の知らない自分の世界を新しく構築していくのが巣立ちの第一歩であり、
子どもも親に自分のことを語らなくなるし、親だって根掘り葉掘り子どもに聞かないのが、普通ではないでしょうか。

だから、両親が今でもあのとき弟に何もできなかったと、自分を責めているとしたら、それは違う、と今なら言えます。
仕方がなかったことだと思ってほしいのです。
私のような身勝手な人間を、責めもせず諦めもせず育ててくれただけでも、両親には感謝してもしきれない。本当にありがたいことです。

第3章 落ちこぼれが弁護士になるまでの茨の道

恵まれた家庭に生まれ育って

私は1978年、東京の閑静な住宅街で生まれ育ちました。
祖父は公認会計士。比較的、裕福で恵まれた家庭だったと思います。
真っ当な倫理観を教えてくれるキリスト教系の私立小学校で幼少期を過ごしますが、私自身はひねくれた子どもでした。
祖父と父は公認会計士ですし、親戚も学者が多く、私の周りの大人といえば、いわゆる社会では成功している人ばかりでした。
そうすると、自分も大人びてしまうというか、純粋に無邪気になれませんでした。
世の中を斜に構えて見てしまう。何かに熱中するわけでもなく、かわいげのない嫌味な子どもだったと思います。

ただ、そうした家庭の親にありがちな「いい中学、高校、大学に行って、成功した人生を歩め」といったわかりやすいプレッシャーはありませんでした。
勉強に関して怒られたことも、「テストで何点以上とれ」などという強制も、まったくなかったのですが、「従兄弟はどこの学校に受かった」「テストで学年〇位をとったらしい」という話はよくされました。
親戚の話で、知らずしらずのうちに競争心を煽られていたのかもしれません。

私は中学受験をして、ある私立大学の付属校に入りました。そこに入学すれば、そのままエスカレーター式で、ほぼ確実に系列の大学に入れます。
それもあってか、中学時代は特段悩みもなく、ごく普通に過ごしていましたが、卒業文集には「中学3年間で、何も学ぶべきことはなかった」と書き残しました。
自分が成長できていないという思いがあり、このままではいけないと焦りを持っていました。

世の中の動きに興味関心はあったのですが、何を学びたいかがわからず、学校では知りたいことが提示されませんでした。
だから、中学生になった私は『中央公論』『論座』『世界』などの月刊誌を買って、読み漁っていました。
付属校ですからそのまま高校に上がりますが、「このままではダメな人間になってしまう」と危機感を強く抱いていたのです。

ツマラナイ大人になりたくないと、高校1年で中退を決意した

高校生くらいだと、「万引きしてやったぜ」などとくだらないことを自慢する悪ぶった奴が必ずいます。
私はそんな連中がいる中で、これからの高校生活を過ごしていくことに、漠然とした不安を感じました。
彼らと一緒にいて、自分の人生はどうなるのか。
このままエスカレーター式で大学に行ったところで、つまらないことに虚勢を張るような人間に囲まれて、どんな大人になれるというのか。
何だか先がわかりきってしまった気がして、急につまらないと感じてしまったのです。

そして、「自分はこれまで何かを決めたことがあったかな」と、それまでの人生を振り返ってみました。
すると、私は自分の意思で何も決めたことがなかったことに愕然としました。 結局、小学校も中学校も、親から「公立より私立のほうがいいんじゃないか」と、言われるままに受験しただけ。
私学に入る同級生や親戚も多かったので、何の疑問も抱かずに受験して進学しました。

親に敷かれたレールに乗っているだけの自分に気がついてしまった私は、「これでいいのか?」と自問自答するようになりました。
それが高校1年生のときでした。それからずっと自問自答を繰り返し、すべてが嫌になり、一度すべてをリセットしようと、高校を辞めることにしました。
まず母に「俺、高校辞めるわ」と打ち明けました。
すると、「それは正しい選択ではない。高校は卒業するまで行きなさい」と、当然のごとく止められました。
しかし、父からは、特に高校を辞めることについて説教された記憶がありません。

何度か話し合いを重ねましたが、高校を辞めるという私の意思が固かったので、両親、特に母も「中退しないで、我慢して卒業だけはしてほしい」とまではうるさく言いませんでした。
ただ、幼い頃から従兄弟と比べられていたので、高校をドロップアウトする私は、親族の恥さらし、頭がおかしくなった者、と見なされるようになりました。
親戚の集まりなどで面と向かって何かを言われたことはありませんが、腫れ物に触れるような扱いをされているのは感じました。
当時の私は気がつきませんでしたが、もしかしたら、両親は私のことで親戚に責められていたのかもしれません。

高校1年生、15歳の秋に、私は正式に高校を中退しました。

ドロップアウトしたものの、何をしていいかわからない

思春期特有の「自分って何者なのだろう」という悩みが、私の場合はほかの人よりも強かっただけなのかもしれません。
高校1年生になったときには、「自分が自分じゃないのが嫌だ!」と、社会や大人も含めたすべてに反発して敵対心を抱いていましたが、
いざ高校を辞めてみると、特に自分に強烈な個性があったわけでもなく、曖昧で、いいかげんな自分しかいないわけです。

やりたいことも特にないうえに、どんな大人になりたいかもよくわかっていない。
「ここではないどこか」に行きたくて、高校を辞めてしまっただけですから。
だからといって、ものすごく不安だったわけでもありませんでした。
要は、何も考えていなかったんです。ただ「人とは違う道を選んでしまったな」くらいしか辞めた当時は思っていませんでした。

親の言いなりではなく、自分でレールを敷いて生きていきたいと思った割には、すぐには明確な目的が見つかりませんでした。
ただ、漠然と自分は世の中のこと、政治、経済、社会などのニュース的なことをまったく知らないという自覚はあったので、
知識をきちんと身につけて、自分の頭で考えるようになりたいと思ってはいました。
そこで、本や新聞を読んで気になった記事や面白いと興味を引いた記事を見つけて切り出して、ノートに貼って、スクラップブックをつくることを始めました。
無意識に社会とつながっていたいと感じていたからかもしれません。

映画は昔から純粋に好きなので、この時期はたくさん観ていました。
時間を持て余し部屋で何もしてないときは、ベッドに横たわり、天井の模様を見つめて、「自分はこれからどうなるんだろう……」とぼんやり考えていました。
どこか不安な気持ちもあったのでしょう。

高校を辞めると、友だちはすべていなくなり、当然、膨大な時間ができました。
たとえば、日中、家にいると、いつどのタイミングで外に出たらいいのかわからなくなります。
子どもが昼日中、ウロウロしていたら怪しい。だから、どうしたら目立たずに行動できるかを考えるのですが、いよいよ社会から外れてしまった現実を目の前に突きつけられます。
私がとった行動は、目深に帽子をかぶること。あまり人目につかないよう、常にこそこそと行動していました。

補導されることはありませんでしたが、一度未遂はありました。
本来はいけないことだとわかっていますが、当時の私は競馬が好きで、年齢をごまかしてウインズ(場外勝馬投票券発売所)で馬券を買っていました。
私は母の化粧品からアイラインを拝借して、鼻の下や顎にちょっと塗って、水で濡らして、髭っぼくして変装。その顔で帽子を目深にかぶれば、見た目をごまかせるとタカをくくっていたのです。
しかし、あるとき窓口のおばちゃんに「あんた何歳? 干支は何?」と、突然聞かれたのです。
合っていたかはわかりませんが、即座に堂々と「25歳です。申年です」と答えたところ、おばちゃんも「あー、そう」と言って、それ以上ツッ込んできませんでした。そのときは冷や汗ものでした。

高校を辞めて、自宅にいた期間は約2年。いつのタイミングだか忘れてしまいましたが、病院に連れて行かれたこともありました。
そこは精神科でした。
何か異常行動をしていたわけではありませんが、高校を辞めて、家でぶらぶらしている私を見かねて、
母が「もしかしたらこの子は普通ではないのかもしれない。おかしくなったのかも」と思ったようです。
精神科での検査結果は、正常。「あなたはここに来る患者じゃないですよ」と言われて、母が安心していたのを今でも覚えています。

高校を辞めてからの2年間は、ただ出口の見えないトンネルの中を歩いている心境でしたが、弁護士になった今では、
インターネットの事件に関わって、加害者の方々と会う中で、もしかしたら、加害者も青年期にもがいていた自分と同じだったのではないかという思いに至っています。
私と加害者は本当に紙一重だったのではないか、その違いはもしかしたら家庭環境にあったのではないか、と思うのです。

何があっても見守ってくれた家族

自分探し、やりたいこと探しをする一方で、文化的活動は積極的にしていました。
幼い頃から読書が好きで、この頃はノンフィクションを中心に読んでいました。好きな作家は立花隆、猪瀬直樹、山際淳司などです。
特に私がこの時期に読んで印象的だったのは、立花隆の『青春漂流』に書かれていたエピローグ「謎の空白時代」です。

平安時代の僧で、真言宗の開祖である空海は、18歳でせっかく入った大学をドロップアウトし、乞食同然の私度僧(自分で勝手に頭を丸めて坊主になること)になり、四国の山奥に入り、山岳修行者となりました。
そこから31歳で遣唐使の船に乗り込むまで、空海がどこで何をしていたか明らかではなかったそうです。
空海のように、人には誰しも「謎の空白時代」があり、それを現代では青春とも呼び、人生の「船出」に向けた、何ものかを「求めんとする意志」を培う時期であるのだという内容でした。
もしかしたら、私も今、船出するための空白時代を過ごしているのかもしれないと、妙に勇気づけられました。
今思えば、一人で過ごした2年間は、私の中では絶対に意味があった期間だったと思っています。

そんなモグラのような生活をしつつも、ただのひきこもりではなく、競馬場と映画館にはよく出かけたものでした。
特に、自宅からアクセスが良かった渋谷には、よく行きました。
今、渋谷ヒカリエがある場所に、昔は東急文化会館という映画館やプラネタリウムが入っている複合施設があって、その映画館はふだんそれほど人も来ないような廃れていた穴場だったのです。
当時は、何度映画を観ても料金は同じだったので、同じ映画を一人で飽きずに繰り返し観ていました。
当時流行っていたクエンティン・タランティーノの作品、『パルプ・フィクション』、『レザボア・ドッグス』は特に好きでした。
脚本がダランティーノで、監督がトニー・スコットの『トゥルー・ロマンス』も印象に残っています。
クリスチャン・スレーター主演のロードムービーでした。『エイリアン』『ブレードランナー』『テルマ&ルイーズ』など、リドリー・スコット作品も好きでした。
怠惰な日々を送っていた私にとって、日常からかけ離れた緊張感みなぎる彼らの作品は、慰めと励ましを与えてくれるものでした。

息子が学校にも行かず、フラフラしている状況でも、私の両親は特にうるさく言ってくることはありませんでした。
普通ならきっと、「何で学校を辞めたの」「これからどうするの」「何がしたいの?」「お父さん、お母さんがどれだけ心配しているのか、あなたわかっているの?」とガミガミ説教するなど、
子どもに踏み込む親のほうが多いと思います。
あまり細かいことは言わず、家からも放り出されず、見守ってくれました。両親には、感謝しかありません。
我が家は特別に信仰している宗教はありませんが、「神様が見ているから、真っ当に生きなさい」とは言われていました。
両親が冷静に見守ってくれていた環境があったので、たとえば自暴自棄になって、何か罪を犯すとか、
親の過剰な言動や自分の置かれている立場にストレスを感じ、心がすさんで暴力を振るうなどという道に進まず、
仮に何かはずみで道を逸れても、どこかで軌道修正できると心の底では思っていたのでしょう。

定時制高校へ入学。社会とのつながりが再び持てた

高校を辞めた翌々年、将来どうするかもわからず、だからといって何かをするわけでもなく、相変わらず私はフラフラとしていました。
「このままじゃ自分の人生がダメになる」と高校を辞めたくせに、身勝手なものでした。そのあたりが子どもの発想で、詰めが甘かったんです。

将来を悲観するほどの想像力もなく、とにかく日常が流れていく。
そんな漫然とした日々を過ごしていたら、突然親が「やっぱりどうしても高校だけは出てほしい」と言い出し、入試の申し込みをしてきました。
私にはひと言の相談もなく、です。しかも、言われたのは受験日の当日。
気は進みませんでしたが、母が「もう申し込んであるから、どうしても試験を受けてきて」とめずらしく懇願するので、その熱意に負けて、しぶしぶ受験しました。

私も「このままではいけない」という気持ちがどこかにあったので、結果としてはまた社会と接点を持てるよう、母に背中を押してもらえたことになります。
両親は私を放置してくれていましたが、実は母も私の将来が不安で心配で、いろいろと調べていたのだと思います。
高校に行きたくないなら行かずに済む学校がないのか、高校卒業程度の資格を得るにはどんな学校があるのか、
こっそりと誰かから聞いたり相談したりしていたのではないでしょうか。今思うと、親には心配をかけました。

両親が探してくれた学校は、当時、東京都が新しい試みとして始めていた単位制・定時制の高校でした。私はその学校に再入学したのです。
それが、17歳のときでした。

この学校は、昼、夕方、夜間など、比較的自由に自分のとりたい授業を選択できたので、自分で無理なく行ける授業を選んで通っていました。
ちょっとした大学のような感じでした。
通学して感じたのは、とても特殊な学校だったということです。
1クラス20人くらいで、一度ドロップアウトした人間がほとんど。年齢もバラバラ、リーゼント頭の者もいれば、定年退職して授業を受けに来る年配の方もいました。
今まで私が通っていた学校とは明らかに違う人たちばかりでした。
私が通っていた学校は、統一された制服を着て、同じような環境で育ってきた者の集まりでしたが、この学校は、見た目や態度からして、それぞれが違いました。

学校で友だちをつくる気にもなれず、高校には漫然と通っていただけでした。

唯一刺激を受けたのは、同じクラスのKさんという40代後半くらいのおじさんです。
Kさんは真面目で、必ず教室の一番前に座って、授業を受けていました。
Kさんの後ろ姿を見ているうちに、毎日変わらず一生懸命、愚直にすることは決して悪いことではないなと思えたのです。
思春期だったその頃、私は必死で何かに取り組むことをカッコ悪いと思いこんでいました。
Kさんは、何かの事情で中学までしか卒業できず、高校には行けなかったようですが、授業を受ける身なりはいつもきちんとしている人でした。
Kさんに話しかけるまでの勇気はなかったので、Kさんがどんな人生を歩んで、
この高校に来たのかは結局わからずじまいでしたが、人生はいつからでもスタートできるのだと実感することができました。

授業で印象に残っているのは、現代社会の授業でした。
その授業を受け持っていた渡辺先生は社会人経験者。
心理学界の二大巨頭、フロイトとユングの話や政治経済の話など、自分でつくってきたプリントを配って、延々と話す授業スタイルです。
渡辺先生の授業だけは話に偏りはあるけれど、唯一、今後自分がものを考えるために役立つし、聞いていて面白いなと思いました。
ほかはただ教科書を読むだけのつまらない授業ばかりだったので熱心に取り組みませんでしたが、
渡辺先生の授業だけは知的好奇心を掻き立てられて、「これって、こんな意味ですか?」「これは矛盾していませんか?」などと、授業後に夜の教室で積極的に質問しに行ったりもしました。
すると、渡辺先生に「目のつけどころがいいな」などと褒めてもらえるようになり、少しずつ自信も持てるようになっていったのです。

人より3年遅れて大学に入学する

結局、3年間、定時制の高校に通いましたが、卒業後にいきなり社会に出る自信はありませんでした。
担任の先生からは「大学に行ったら?」と勧められましたが、進学校でもないので、大学受験をする環境でもなければ、情報もありませんでした。
そこで、定時制の高校3年生のときに、代々木駅前にある代々木ゼミナールに通って、大学の情報収集と受験勉強をすることにしました。

前章で説明したように、私は定時制の高校1年生のときに、弟を亡くしました。
「いざ何かがあったときに戦えるだけの力をつけたい」ということは、より強く思うようになっていたので、とにかく現実できちんと役に立つ勉強ができる大学を探していました。
いろいろ調べていくと、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)の環境情報学部なら、実益のあることが学べて面自そうだし、
問題解決のための手法を教えてもらえそうだとわかりました。何よりこの学部は英語と小論文だけで受験ができました。
受験への取組みにハンディのある私にとって受験科目が少ないので、手が届きそうな気がしたのです。

しかし、当然といえば当然ですが、現役では受かりませんでした。
浪人生になった私は、高校卒業後、1年間予備校に通いながら、紀伊國屋書店で英語の単行本や『TIME』など英語の雑誌を買って読み漁り、英語の読解力をつけました。
そして翌年、受験先を慶應SFC1校のみに絞り、一点突破で何とか合格することができました。
合格発表の日は、私は見に行く勇気がなく、父親が代わりに行ってくれました。電話をしてきた父親が、「貴洋、受かっているぞ」と喜んでいたのを今でも覚えています。

1999年、21歳のときに、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)環境情報学部に入学しました。

しかし、私は一度高校を中退しているうえに定時制高校を卒業し、さらに1年間浪人をして、大学に入学した身です。
ストレートに入学した18歳とは3年間の差があります。 何より環境情報学部の同級生たちは、基本的に挫折経験のない、意識高い系の幸せそうな人たちばかりでした。
そのことが悪いのではなく、自分があまりに違う道を生きてきたうえに、性格がひねくれすぎていて、
まっすぐ幸せに生きてきた彼ら・彼女らと仲良くできる自信がまったくありませんでした。

そんな中でも、大学で唯一できた友だちが、医学部受験を何度か失敗したSクンです。
Sクンは、東京の進学校である開成中学・高校出身で、紆余曲折して慶應に入学してきたのです。
私たちは年も近く、読書家のSクンとはいろいろな話ができました。
2人とも哲学書などをこよなく愛する文学青年だったので、よく神保町の古書店街に繰り出し、喫茶店で語り合いました。
Sクンとは、今現在も友人関係が続いており、さまざまな局面で助けてもらっています。

慶應SFCは、ほかの大学に先んじて、インターネット環境を整え、インターネットに関する授業や、情報処理に関する授業を行っていました。
今、インターネット関連の紛争に携わっているのも、そこで学んだことが基礎にあります。
政治学に興味を持ち始めていたことから、環境情報学部から総合政策学部に転部したのは、大学2年の頃でした。

大学2~3年のときには、日本の経済・外交政策や国際交渉における政策決定過程などを鋭く検証することで名を馳せた政治学者である草野厚先生のゼミに入りました。

以前から「サンデープロジェクト」(テレビ朝日系列)が好きでよく観ていたのですが、
同番組でコメンテーターをされていた草野先生の授業を受けてみたら、非常に面白かったのです。
それは政治システムという授業で、戦後の日本外交史を中心に学ぶものでした。
草野ゼミはアメリカを中心とした国際関係論、政策過程論を学ぶゼミで、研究課題は非常に厳しく、グループワークで定期的に発表をしなければなりません。

たとえば、アメリカの中東政策についてレポートするときには、いろいろな文献を読んで、何人かで話し合い、分析を加えて、A4数十ページほどにまとめる、という流れになります。
課題をクリアするのは大変でしたが、そのグループワークで鍛えられ、勉強の仕方やレポート作成のコツもわかってきました。
アメリカと中東の政治状況は、2~3年生時の草野ゼミで学べたので、4年生のときには、違ったものを学びたくなり、ロシアのコーカサス地方を研究する先生のゼミに入りました。
ナショナリズムの研究が主たるテーマのゼミでした。
アーネスト・ゲルナーの『民族とナショナリズム』という難解な文献が輪読の文献として指定されており、
当初は戸惑いがありましたが、違うアプローチから世界を捉えられて、非常に勉強になりました。

自分が欲しいと思っていた力が法曹の世界にはある

小さい頃から、読書・映画好きである私は、高校を中退したこともあり、さらにその熱を帯びるようになりました。
中でも、アメリカの弁護士かつ小説家であるジョン・グリシャム原作の映画がとても好きでした。
リーガル・サスペンス、いわゆる法廷もので、『評決のとき』『ザ・ファーム 法律事務所』『ペリカン文書』『依頼人』などを観て、
私は困難な状況であっても、法律を武器に巨悪に打ち勝つ弁護士に憧れを抱いていました。

そうした映画や小説に感化されたこともあり、もうすぐ大学を卒業する自分がずっと欲しいと思っていた力は、法律の知識なのかもしれないと思い始め、
法曹(弁護士・検察官・裁判官)を目指すことにしたのです。
私は、2003年に慶應SFCを卒業し、そのまま慶應大学法学部に学士入学することにしました。

2003年に学士入学で法学部に入った翌年の2004年に法科大学院(ロースクール)が創設されました。
私は自分の年齢も考えて、法曹への近道になると思われるロースクールに入学するための勉強を開始し、2005年、27歳にして早稲田大学のロースクールに入学しました。

早稲田大学のロースクールの学生たちは、当然、母校の法学部で真面目に法律を勉強してきたエリートばかり。
そもそも慶應から早稲田に来たという時点で変わっているのに、総合政策学部出身で法律の知識もまだ浅薄な私は、ロースクールでも完全に浮いた存在でした。
実際に授業を受けても、非常に難しく、ついていくだけで精一杯でした。ただ、負けたくないという気持ちは人一倍強くありました。

ロースクールでは議論の面白さを学びました。
ロジカルな考え方をきちんとしている教授は、教科書に載っていない方向からのアブローチでも論理的に答えてくれます。
これは非常に勉強になったうえに、法律の世界が改めて面白い世界であることを実感できました。
大変だけど、楽しい。
ようやく自分の目標が定まり、将来の進むべき道が開けそうだ、と期待に胸を躍らせました。

ロースクールの標準修業年限は3年です。
私の時代には、修了後5年以内に3回までしか新司法試験を受験できませんでした(現在は、修了後5年で5回)。
私は司法試験に一発合格しましたが、ロースクールを卒業した最初の1年は、勇気が出なくて受験を見送りました。まだ受かる自信がなかったのです。
しかも回数制限があるので、受かるなら1回日で受からないと、「あと2回」「あと1回」と受けられる回数が減るプレッシャーに耐えられそうになかったからです。

誰もやっていないことをやろうと決意が固まったインターンシップ経験

3年間のロースクール時代、夏休みにはインターンシップを経験しました。
多くの学生は大手事務所や企業法務のインターンをやりたがるのですが、私はどうせやるなら今後の自分に役立つところがいい、
誰かのためになることをやりたいと、ロースクール1年生のときには、神田の「クレジット・サラ金被害者連絡協議会(太陽の会)」で、インターンシップをしました。
そこは、その名の通り、クレジットカードやサラ金(消費者金融)の多重債務で苦しんでいる人たちを助ける活動をしている団体でしたが、
2005年当時は金利も高く、ヤミ金融業者が横行した時代で、太陽の会は、多重債務者の駆け込み寺のような場所で、いろいろなところから借金を重ねてしまった人に対して、
正しい債務と金利だけを支払うように交渉するだけでなく、借金を借金で返そうとしてしまう人の生活を再建してあげることもしていました。

私は多重債務者の代わりにヤミ金融業者と電話で話をするというのがインターンシップの内容でした。
さまざまな方がその事務所の仕事を手伝っていたのですが、その中には元多重債務者で今は立ち直ったおじさんもいました。
あるとき、そのおじさんに夕飯を一緒に食べに行こうと誘われて、その食事の席で、「君はもうちょっと肩の力を抜いたほうがいいよ」と言われたのです。
おじさんからすると、当時の私は非常に堅苦しく杓子定規な人間に映っていたんだと思います。
修羅場を何度もくぐり抜けてきたおじさんから、
「君が弁護士を目指しているなら、スキをつくったほうがいい。弁護士だって客商売だろう。釣りの話をしたら、すごい笑顔になるとか、そのほうが人間味あるから好かれるぞ」
と力説されると、妙に説得力がありました。

私は、多重債務者を助ける仕事に非常にやりがいを感じ、熱心に取り組みもしましたが、周りのスタッフたちとのコミュニケーションがきちんとできていなかったんだと思います。
ただヤミ金からの電話を受けて、ものすごい勢いで怒鳴りながら言い合いをするようなことを、嬉々としてやっていました。
今思えば、若気の至りといえますが、「私が助けるんだ」という、ちょっと上から目線の正義感を振りかざしていたにすぎなかったのでしょう。
そうした様子をおじさんは見ていて、気になったのでしょう。
人に認めてもらって、付き合いをしていかないと、弁護士としては仕事の依頼をしてもらえないのだと教えられた気がしました。
インターンシップの最中に、当時、多重債務問題、消費者金融問題の第一人者であった宇都宮健児先生にお会いする機会がありました。
先生は、偉ぶるところが一切なく、分け隔てなく、人と接していられるのを見て、これがあるべき弁護士の姿だと感銘を受けました。

ロースクール2年生のときには、ミャンマーの難民問題に関してリーガルクリニックで取り組ませていただきました。
リーガルクリニックは、ロースクールに併設された法律事務所で、実際の法律問題に、ロースクールの学生が実務家のサポートのもと、取り組むという制度でした。
私は大学での卒論で日本政府の難民問題に対する政策について取り扱いました。
それもあって、国際的な人道支援や国連の活動に興味がある人は多いにもかかわらず、日本の中で立場が弱い人が実際には多い現状をずっと危惧していたのです。

難民に対する日本政府の扱いや、政策的にはどうなっているのかを調べてまとめたこともありますが、
結局、日本の難民問題に対する政策がひどいものばかりであることを見知っていたので、
リーガルクリニックで、難民の方がどんな問題に直面しているのかを肌で感じて、実際に学んでみたいと思ったのです。
このリーガルクリニックでは、難民問題について熱心に取り組んでいる弁護士の活動も真近で見ることができました。
現在仕事をしていて、人権問題に真っ向から向き合っている弁護士はごく少数である現実は否定できませんが、
そこで知ることができた弁護士の方々は、本当の弁護士であるとそのときも恩いましたし、今でも強く思っています。

私は、多重債務問題と難民問題という2つの実務経験を通して、自分が将来弁護士としてどのような仕事をしていきたいのか、少しずつ固まってきました。
もともと、誰もやらないようなこと、誰も引き受けたがらないことをやっていこうと心には決めていたのです。
大金を稼いで、いい暮らしをしたいから弁護士になりたいわけではない。
人がやりたがらない事件や困り果てている依頼人の役に立てるような案件であるなら、絶対に引き受けるような弁護士でありたいと、すでにこの頃には思っていました。
そうした思いを持つに至ったのは、やはり弟の死と無関係ではありません。

私が許せないのは、「悪と理不尽」です。
私の中で許せるか許せないかの境界線は、単純に弱い者いじめをしているかどうか。
弱者から金を奪ったり、正当な権利をないがしろにしたり、利用したり、だましたり、いろいろな格差を利用してやり込めるのは絶対に許せない。
ですから、多重債務者から不法に金をむしり取ろうとし、時には人を自殺に追い込むヤミ金融業者は明らかに悪ですし、私はその悪と戦うことに、ある種の充実感がありました。
正義感が強いだけでは弁護士は務まりません。あくまで目の前の悪とどう対峙するか、その戦略を持つことが大切です。

世の中にはきれいごとでは済まないような悪と理不尽がたくさんはびこっています。
弟が自殺したときに何もできなかった私は、自分の無力さをずっと感じ続けていました。
しかし、法律を自分の盾にすれば、もっとたくさんの悪に対峙できる。そう確信して、やっと将来の目標に向かって邁進し始めたのです。

脚注

  1. 恐らくデリュケー小説送りつけ? 詳細はまだ不明
  2. 疑惑尊師?
  3. フジ、山尾志桜里議員の不倫相手を間違えた!? 「ネット掲示板を信じて直撃」で大目玉
  4. 国民的アニメに9歳の叔母と3歳の甥が登場することからもわかるがありえない話ではない。遺産相続に関わる依頼を受けたことがあるとは思えない認識の甘さである。
  5. 漏れたのはパスをカラケーで公開した後に生IPでログインした芋の物という仮説が濃厚
  6. 出展不明
  7. 月永皓瑛

関連項目

唐澤貴洋
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