恒心文庫:追憶
本文
ある晩、当職のメールボックスにある一通のメールが届いた。ドメインはsigaint.org。
また心無い者たちの悪戯だろうと削除ボックスへ入れようとしていたが、その手が止まった。そのメールはいつもとは少し趣向が違っていた。
「100ビットコインをよこさなければエッフェル塔を爆破する。」
その刹那、当職の脳裏にある思い出が甦った。懐かしきその塔の凛々しい姿は既に20数年たった今でもはっきりと思い出された。そう、私が中学二年の時分の話である。
あれは弟の厚史の死からまだ間もない頃だった。友達のいない当職にとって心を許せる数少ない人間の一人だった厚史は、当職にとってかけがえのない存在であった。
それ故にその弟が自分の手の中で死に征く姿を見た時は、世界の終りとさえ感じられた。その日から自室に引き籠りがちになった私を心配してか、父洋は何かと気を掛けてくれていた。
いや、父洋もまた途方もない悲しみに暮れていたのかもしれない。当職の陰茎を労わる父洋の手は、なにかから逃げようとする必死さがあった。
そんな父が、ある日突然パリに行こうと言い出した。学校は疎か、どこにも行く気が起きない当職を半ば無理矢理に、父洋は部屋から連れ出した。
初めての飛行機に緊張する反面、今は亡き弟を置いて日本を出る事には多少の罪悪感があった。
日本からパリまでは移動に往復で一日以上かかる距離だ。その旅は長旅ではなく、パリには二泊ほど滞在した。長旅にはならなかった理由に父洋の仕事の関係ももちろんあったが、なによりやはり父洋も純粋に楽しめる気持ではなかったのかもしれないと、今になって邪推してしまう。
しかしこのパリへの旅行、特別見たいものがあって来たわけではない。空港に着くなり何となく途方に暮れる当職に父洋は声を掛けた。「エッフェル塔へ行こう。」
シャルル・ド・ゴール国際空港からエッフェル塔まではタクシーで約30分、当職と父洋はどこか落ち着かない顔で車に揺られていた。今思えば不思議な客を乗せたものだと運転手も思ったことだろう。それはそうだ、性的関係にある異国の親子が暗い顔をしてタクシーに揺られているのだから。
エッフェル塔はそれはそれは見事なものであった。テレビで見ていたのとはやはり迫力が違う。雄々しく悠然とそびえるその塔は、行き場を探していた当職たちを優しく包み込んでくれた。
弟はもういない。もう戻ってこない存在なのだ。それは永久不変の事柄なのだ。その証拠に、田園調布にある墓誌には深く弟の名が刻み込まれている。
当職がやることは引き籠ることだろうか?ありもしない、ifの世界を思い続け無為に過ごすことだろうか?
その答えをエッフェル塔の悠然な姿に、言葉無しに教えられたような気がしたのだ。
ふと我に帰ると、パソコンの画面の右下では「2:00」と表記されていた。
これはいけない。思い出に浸っているうちにこんな時間になってしまった。
当職は毎晩、インターネットに強い弁護士として様々なウェブサイトの警邏を行っている。その時に小腹を満たすために夜食を食べつつ警邏して回るのが、日々の当職の秘かな楽しみである。
給湯室に入ると、徐にチキンラーメンの袋を開け、沸騰した湯に入れ込む。冷蔵庫からは子供の顔ほどの大きさもあるダチョウの卵を取り出す。立てかけてある燃料棒で卵を割り、麺を茹でる鍋に入れる。上手そうだ。
これが当職の、昔からの好物である。腹の虫が威勢よく雄叫びを上げる。
熱に気を付けながら、当職は当職の机へ当職の椀を運んだ。
Torを起動し、エロいのとアングラ板とか言う悪いものたちが巣くう掲示板をチェックする。火の通った柔らかな溶き卵と麺を啜りつつ、「野菜即達」だとか「アイス」「キメセク」といった他愛もない文字列たちの中から当職は当職の目当てとするスレを探す。
幼気もない少女たちが晒される今のインターネットははっきり言って異常だ。常識から逸脱したインターネットの世界に胸を高鳴らせつつ麺をそそる。夢中になって小指とマウスを動かしているうちに椀の中は空っぽになっていた。
傍らに置かれたティッシュペーパーに手を伸ばす。腹の虫を治めた次は荒ぶる肉塊を治める番だ。
私はもう、全てを自分の手に任せていた。
重みを増したティッシュペーパーを屑籠に投げ入れた頃、時間を確認すると時刻はもう午前の三時を回ろうとしていた。ふと先程のことを思い出す。パリと日本の時差は八時間。今頃パリは18:00を回ろうというところだろうか。
「そろそろナリね」
唐澤貴洋は机の引き出しを引き、厳重に管理されているその赤いボタンを押した。
聞くところによるとエッフェル塔は18:00になるとイルミネーションで美しく輝き、人を魅了するそうだ。
今宵の特別な煌めきは、さしずめ当職からの恩返しといったところか。絶望の淵にいた当職を救ったあの日のように、当職の灯した輝きを纏ったエッフェル塔は、また誰かのことを救うのだろうか。