恒心文庫:「この物語はフィクションであり、
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実在の人物・団体とは一切関係ありません。
そりゃそうだ。ダニエル・デフォーは無人島に漂流していないし、ジョナサン・スウィフトは小人や巨人の国を訪れたわけではないし、小関直哉は年端も行かぬ少女に熱いドロリとした精液を注いでいない。わざわざこんなことを断るのは、法に保証された言論の自由の恩恵を受けながらも、法的リスクだけはしっかりと回避したいという卑小な作家様だけだ。弁護士の僕が言うのもなんだけれど。
ああ、もちろん『僕』なる存在も、『僕が弁護士である』という記述も、『フィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません』。これは作り話だ、それはわかるよね?
とにかく『僕』は弁護士で、虎ノ門のとある法律事務所に勤めている。いや、勤めているという表現は不適切かな。実状はともかく、書類の上では僕が代表ということになっているから。いずれにせよ、代表職に就いていることを自慢できるほどでもない、ごく普通の法律事務所だ。強いて特徴を挙げるなら、入居している物件の家賃が恐ろしく高額なこと、頻繁に不審者が訪れることくらいだろう。だから、ごく普通の法律事務所だ。
さっき事務所の代表の話をしたけれど、ここの実際のボスは僕じゃあない。公認会計士の男性だ。なんで会計士が法律事務所を……って思うかも知れないけれど、ここらへんの話はややこしいから後にしようか。とにかく彼、唐澤洋がこの事務所を仕切っている。彼に関してはネット上でいろいろと言われているけれど、ほとんどがデタラメだ。彼は男性だから妊娠したりしないし(なぜこんなことをわざわざ書かねばならないんだろう)、風俗狂いでも近親相姦ホモでもない。多少カネにがめついところを除けば優秀な会計士だ。ネットで事実無根の中傷を受けて実に気の毒だと思う。
その中傷の原因をつくったのが彼の息子、唐澤貴洋なのだけれど、しかし責められるほどの落ち度があったかというとそうでもない。ネット炎上という新しい時代の案件に際し、少しばかり対応を誤ってしまっただけだ。その結果、彼は全く謂れのない誹謗中傷を受けることになった。ただこれは、僕の立場でこんなことを言うのは不適切かも知れないけれど、なかなか面白い。だって『脱糞した』だの『核兵器を保有している』だの、まるで小学生が考えそうな悪口ばかりだから。もう少し現実味のある嘘で攻撃すればいいのに、と思う反面、実害がない分こちらの方がありがたい気もする。
そんな僕たちの事務所に、最近新しい弁護士が参加した。彼は」
ここまで書き終えたところで、その新入り弁護士が自分を呼んでいることに気づき、彼はキーボードを叩く指を止めた。山岡さん大変です洋さんが破水しました、という叫び声が耳に届く。いや一つだけではない。もう一つの叫びがトイレの方向から飛んできている。おそらく唐澤貴洋がまた間に合わずに脱糞したのだろう、と彼は判断した。二つの緊急事態と、これからやる予定だった核兵器のメンテナンス、どれを優先するべきか少しの間だけ考えてから、彼はそっとノートパソコンを閉じた。
リンク
- 初出 - デリュケー 「この物語はフィクションであり、(魚拓)
- 核兵器を題材にしたデリュケー作品