恒心文庫:核宿り・狂っているのは君のほう
本文
1.
その日も午後から日暮れにかけて、軽い夕核が降りつづいた。
ドドドドッという昔どこかで聞いたドラムのような音と共に核が降り注ぎ、夕陽と共に東京の街を紅に染め上げてゆく。
まいったな、今日に限って傘を忘れるとは。
慌てたまま私はT門の一角、とあるビルのエントランスに駆け込む。
それほど長い間は降らないだろう。日が沈むまでには降りやむはずだ。
しばしの間、ここで核宿りをすることに決める。卸したてのスーツを放射能に晒すのも気が進まない。
エントランスの階段に腰を下ろし、ビル前に設置してあった自販機で購入した缶コーヒーを一口飲む。
元より味に期待などしていないが、ブラックは失敗だった。泥水のような液体が喉をくぐり、あとには苦味だけが残っていく。
脇に缶を置き、一日のデスクワークで凝った体を伸ばす。首を回すとこきこきと音が鳴った。
自分以外に核宿りをしている人間がいることに気づいたのは、更に体を伸ばそうと後ろを向いたときであった。
小太り……いや、かなり太り気味の男性がひとり、階段を登り切ったところ、集合ポストの脇にたたずんでいた。私より幾分か年上の風貌である。
男は微動だにせず、手に持った分厚い文庫本を一心に読んでいた。
こちらに気づいていないのだろうか。
よくよく見ると、男の履いている白いスラックスの前部が、もっこりと膨れ上がっている。
一体、こいつは何を読んでいるのだ?
男の文庫本にはカバーはかかっていない。目を細め、興味本位で背表紙に書かれた文字を読もうとする。
作者名、ウラジーミル・ナ……。
「読みますか」
突然声をかけられ、思わず肩を震わせてしまう。
視線を文庫本から上げると、男の細い両目がこちらを捉えていた。
「読みますか」、男は再び言った。わずかに目に笑みを浮かべて。
「そんなに本をにらまれたら、当職も読みづらいですよ。今とってもいい所なのに」
「……いえ、結構です。失礼いたしました」
ねっとりとしたその声に軽い生理的嫌悪感をおぼえながら私は返答する。
男は文庫本をぱたりと閉じると、私の隣まで歩み寄ってきた。この程度動くだけでも息が切れるらしい。ぜいぜいとした荒い息遣い。
彼の体臭だろうか、腐りかけの果実のような甘ったるい香りが私の鼻孔を突く。
「よく降りますねぇ」と男は空を眺めて呑気に言った。「ここ一か月、ずっとこんな調子だ」
「そうですね」、私は適当に話を合わせる。
「私も今日に限って傘を忘れてしまって。まったく、困ったものですよ」
くすくす。
隣の男は何がおかしいのか、小さく笑いはじめる。笑い声に合わせて贅肉にまみれた体がぷるぷると震える。
私はどう反応すべきか少々悩んだのち、軽く愛想笑いを浮かべておいた。
「……ね、あなた、どうしてこう核が降るのか御知りですか」
ひとしきり笑った男が、私の顔をのぞきこんで言う。脂肪に隠れた眼球の中で、小さな瞳だけが異様に輝いている。
反射的に目をそらしながら、私はこたえる。
「どうして、って……季節柄、仕方のないことでしょう。一つの天候ですよ」
「いいえ、それは違います」
ぴしゃりとした発言で私の言葉は断ち切られる。
男は私の隣に腰を下ろすと、暗記した文章を読み上げるように淡々と話しはじめる。
「初めて夕核が観測されたのは2012年3月8日。そこから断続的に夕核は降りつづき、現在に至る。
主に夕核が降る場所はここT門、そして千葉県M市。降った核の合計は現在40298発。まだまだ増えるでしょう。
……しかし、ここ一か月の夕核ははっきり言って異常だ。あまりにも多い」
男は一度言葉を切ると空を指さし、薄い笑みを浮かべて私を見た。
「見てくださいよあの光景を。あの夕空に輝く核の光を。
まるで世界の終わりを告げるようではありませんか。実に愉快だ、この世界の終焉は近い」
2.
気圧された私が黙っていると、男は尻ポケットから一枚の名刺を取り出した。
「自己紹介が遅れましたね。当職、こういう者です」
突きつけられた紙切れはぐっしょりと汗にぬれている。名刺を直に尻ポケットにしまっていたらしい。
触りたくもないが、一応礼儀として指先で摘み取る。汗でぼやけたインクを読み取るのに少々苦労した。
「……Kさん、ですか。へえ、弁護士を」
男は相も変わらずうすら笑いを浮かべたままながらうなずく。
核宿りで同席した程度で名前など教える義理もないが、わざわざ名刺まで受け取った身だ、何もせぬのは失礼だろう。
自身の名刺を彼に渡す。
にやにやと受け取ったKであったが、私の名刺を見て不意に笑顔が消えた。
「――さん? ――さんとおっしゃるのですか?」
彼は名刺を見つめながらひどく不思議そうに私の名を読み上げる。異国の聞きなれない単語を繰り返すように、ぎこちない調子で。
「ええ、そうですが」、私は彼の反応に少々戸惑いながらこたえる。「それがどうかなさいましたか?」
Kはしばし無言で名刺と私の顔を見比べていたが、やがてその下卑た笑みを再び浮かべた。
「いやぁいやぁ、意外なものだと思いましてねぇ」
彼は尻ポケットに私の名刺を突っ込みながら続ける。
「まさか、あなたとはねぇ。そうですかそうですか、これもまた何かの縁ですかねぇ」
「……あの、どういうことでしょうか」
男はこたえない。代わりに私をじろじろと無遠慮な目で観察してくるのみである。
あまりにもこちらに対し失礼な態度だろう。
更に問いただそうと私が口を開きかけたとき、
「ねぇ――さん、あなた、重力の虹、という小説をご存知ですか」
唐突にKが尋ねてきた。
「……いえ」
出鼻をくじかれた調子で私はこたえる。
ぱちり。Kは太い指を鳴らす。
「では端的に説明しましょう。その小説の主人公というのはですね、傑作ですよ、なんとセックスするたびにV2ロケットがどこかに落ちるという設定なのです」
「へぇ」、他にしようもないので軽く相槌をうつ。
「ね、あなた」
Kが顔をこちらに寄せてくる。真夏の犬のような荒い息遣いが私の鼓膜をノックする。
「当職はね、考えているのですよ。夕核は、ひょっとしたらこういった種の現象なのではないかと」
さて、困ったなと私は思考の隅で思う。
Kの職業界隈は変わり者が多いと聞くが、どうも相当な変わり者と私は同席してしまったようだ。
3.
夕核はやや弱まってきている。
先ほどまではザァザァとした調子であったが、今では散発的に飛来している程度だ。もうしばらくすれば止むであろう。
この場を去っても良かったのだが、こちらににじり寄って来たKは、にやにやと笑みを浮かべ私の返答を待っている。
暫しの思考の末、私の中では礼儀を通す気持ちが勝った。仕方なしに彼の話を拾う。
「えー……その、小説の主人公が、そういう設定であると。それであなたの考えとしては、それがこの夕核と何か関係があると」
「その通りです」
話を繰りかえしただけであるのにKは大きくうなずく。
「当職はですね、この3年間というもの、個人的に夕核の観測を続けてきた。むしろ、せざるを得なかったのですね。
そうして出された仮説が、この現象は《とある男》に由来しているのではないかという言説です」
「とある男」、私は彼の強調した言葉を繰り返す。
「はい」
再びうなずいたKは愉快そうに両手をすり合わせる。うまい商談取引を契約までこぎつけたセールスマンのように。
しかし話が妙な方向へ転がり始めたな、と私は考える。核宿りのあいだの暫しの雑談にしては、妙な方向へ。
転がり始めたのはいつからであろうか。
「聡明そうなあなたのことだ。当職の言いたい事はもうおわかりでしょう?」
Kの声が私を思考から現実へと強引に引き戻す。
私は彼の話の断片を頭の中でつなぎ合わせながら口を開く。
「……つまりあなたは、夕核は、あー……そのとある男がセックスするたびに起こっているのではないかと?」
ぱちぱち。Kが大げさに手を叩く。
「大変よい推論だ。もっとも、当職の仮説は多少違いますがね。
この現象の原因は、その男にまつわる《とある行為》だと、当職は考えているのです。セックスではありません」
この男は狂っているのか?
「……あのですね、失礼を承知の上で言わせていただきますが」
私は慎重に言葉を選びながら言う。
「あまりに荒唐無稽な話ではないでしょうか。夕核の原因がひとりの男? ある行為? そんなものが関係あるとは私には思えない。
これはただの気象現象にすぎませんよ。雨や雪や雷というものと同じ、そういう気象現象だ。
現に誰もがそう考えている。ニュースキャスターだって、気象庁だってそうではありませんか」
Kは何も答えない。ただその肥えた面に薄ら笑いを浮かべてこちらを見るばかりである。
その馬鹿にするような笑みに苛立ちが募り、私は更に言葉をつなぐ。
「大体、その仮説とかいうものだって、ただのフィクションが元でしょう。これは本の中の物語ではありませんよ、現実です。
それともあなたは、何か確信が有るのですか。想像でない、何か確信が――」
「知っているのです」
私の言葉は再びぴしゃりと断ち切られる。
Kは体育座りをし、茜空を見上げながら滔々と話し始める。
「ひとつ、あなたに嘘をついてしまった。これは仮説ではありません。事実です。
当職は知っているのですよ、個人的に。その男が誰で、どういった人間で、どういった行動がおこるたびにこうなっているのかを全て」
Kが私を見る。その顔からは先ほどまでの笑みは消えている。
「非常に個人的に、知っているのです」
そのときすぐ近くに夕核が落ちた。衝撃波で焼け焦げたマーチがこちらに飛んでくる。とっさに身を伏せる。
マンチは幸いにもエントランスの上部にぶつかり、耳障りな音をたてて落ちる。外れたタイヤがなだらかな坂道を転がっていく。
体を起こすと、隣の男は微動だにしていなかった。彼は私を見て微笑む。
「大丈夫ですよ、大丈夫です。あなたは絶対に夕核の餌食なんぞにはなりません。なにせ、当職といるのですから」
4.
一時は止むと思ったのに、再び核足は強まってきた。賑やかな音を立てて核が降り注ぎ、東京の街は壊滅してゆく。
ビルのエントランスには居心地の悪い沈黙が流れる。
浮かぶ疑問はいくつもあったが、隣の男に話しかけるのは更にためらわれた。
こちらの気まずさなど素知らぬ風に、Kは非常にリラックスした調子で両足を投げ出し、夕暮れの空にきらめく核を眺めている。
まるでスクリーンの中のCGでも鑑賞するかのように。全ては下らない作り物であるというように。
私はわざとらしく腕時計に目をやり、立ち上がった。Kが意外そうにこちらを見る。
「どうされました? あなたは核宿りをしに来たのでしょう。もう行くのですか」
「ええ」、早口に答え、我ながら言い訳のようだと思いながらも付け足す――「待ち合わせの時間に遅れそうなもので」。
「そうですか、待ち合わせですか」
男はひどくどうでもよさそうに返答する。
「アポイントメントを守るのは大切なことです。お行きなさい」
階段を数段降りたところで、「忘れ物ですよ」と声をかけられる。振り向くとKが缶コーヒーをこちらに差し出していた。
「まだほとんど飲まれていないではないですか。もったいない」
「……ありがとうございます」
言いながら缶コーヒーを受け取り、もう一度階段を下りようとしたとき、声が飛んでくる。
「気になっているのですね。当職とその男の関係が」
私は返事もできずに固まる。
くすくす。
背後からKの忍び笑いが聞こえる。
「いや、正直なお方だ。しかし、あなたにお話しすることはできません。当職と彼は、あまりに等しい存在なのです。あまりにも。
ですから、話すわけにはいかない。……いえ最も、既に少し話し過ぎたかもしれませんが」
くすくす、くすくす。
男は笑い続ける。
私はいよいよこの場を去りたくなり、早足で階段を駆け下りる。
足早にオフィス街を進み、角まで来たところで振り向き、もう一度あのビルの方を見た。
Kは立ち上がっていた。
彼は肥えた両腕を空中にかざし、まるでそれを歓迎するかのように、夕焼けの空にきらめく核へと伸ばしていた。
夕核は降りつづいている。スーツはもう汚染されてしまっただろう、明日にでもクリーニングに出さなければ。
私は一息に残りのコーヒーを飲み干す。ただ苦いだけの液体は空っぽの胃の中にずん、とたまっていく。。
空き缶を近場のゴミ箱に放り込みながら、ふと奇妙な考えに襲われる。
本当に世界の終わりは近いのかもしれない。
あの狂った男の言うように、この世界が終焉を迎えるのも近いのかもしれない。
「……馬鹿馬鹿しい」
呟き、首を振って一瞬浮かんだ考えを消すと、私は駅へと足を進めていく。
口中の苦味がいつまでも喉の奥でねばねばと絡みつくようであった。
-了-
挿絵
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