恒心教の歴史
恒心教の歴史(こうしんきょうのれきし)では、2012年3月7日から現在に至る恒心教の歴史について記述する。詳細な歴史については個別記事と恒心年表を参照。
前史
騒動の発端となった2chなんJ板は元々野球ch難民が板を乗っ取り、野球実況を中心とした雑談板になったという過去があり、住民は野球観戦が趣味というその性質から他板の住人に比べ荒い気性を持っていた。後に、この気性がこの騒動をここまで大規模な物に昇華させた一因であるとも言われている。また、多数の学校裏掲示板など避難所として乗っ取っていた関係で外部侵攻の経験も豊富であった。
当時のなんJは現在のようにまとめブログに寄生されておらず人口も今ほどは多くなく、内輪的なノリが強かった。これはコテハンにとって居心地のよい環境であり、なんJでは多くの糞コテが活動していた。その中でも、騒動の元凶となったなんJの糞コテ「八神太一」は3年間に渡り煽り投稿や自分語りスレの乱立を繰り返してたことから当時のなんJ民からは別格で嫌われていた。
その中で、八神の少し前に炎上した篠田健太郎がTwitterやGoogle+などの情報から特定されており、この時点で現在の主流であるネット上のパズルのピースを頼りに個人情報を特定する手法が確立されていた。 そして、プロ野球シーズン開幕が近づき住民が活気づき始めた状況で3月7日を迎えることとなる。
2012年
八神太一特定
3月7日、前日から一部なんJ民やアワーなどから猛烈に煽られていた八神太一が大学の合格通知書をアップ。これをきっかけに母校(千葉経済)、mixiの情報が明らかになり、ここから本名(長谷川亮太)、進学先(国士舘大学)等々が特定される。自演に失敗するなど初期鎮火に失敗し炎上は拡大する(八神太一特定騒動)。
過去の自分語りから発掘された未成年飲酒疑惑による大学進学取り消しを恐れたのか、長谷川亮太は当時アイオス五反田駅前にあった恒心綜合法律事務所の弁護士唐澤貴洋を雇い、誹謗中傷者のIPアドレス開示を行うことで再度炎上の鎮火を試みた。
そして3月28日に唐澤貴洋は長谷川亮太に対する誹謗中傷レスの開示請求を実行(平成24年(ヨ)第1035号)、このなんJ史上初めての事態に、これまで長谷川亮太をネタにしてきたものたちは驚愕した。だが唐澤貴洋も当初は恐れられていたものの、カンマが統一できていない、宣伝ブログを乱立する、なんJを監視していることがバレる(アイドル大量フォロー事件[1])などツッコミどころが多く次第に馬鹿にされるようになってしまい、なんJ民は唐澤貴洋に対しても誹謗中傷を行うようになってしまった[2]。
これに対し唐澤貴洋は、長谷川亮太そっちのけで自身に対する中傷に対し5月から6月にかけて3回にわたるIP開示攻勢を開始(無差別開示)、少し唐澤貴洋に触れた程度のレスに対しても開示請求を行い始めた。
しかし3月のIP開示を経験し、実害がまるでない[3]ことを知ったなんJ民にとって、これは火に油を注いだだけに過ぎなかった。なんJは唐澤貴洋による開示を狙うものたちによる誹謗中傷やネタ投稿で溢れ、騒ぎは鎮火どころかさらに燃え広がっていった。
この両者の炎上騒動は後にハセカラ騒動、チンパカ騒動などと名付けられ、今日まで燃え続けている。
前恒心時代の文化
この無差別開示を経て唐澤貴洋ネタはなんJに定着、「弁護士スレ」「唐澤スレ」などと呼ばれる文化が興った。
唐澤貴洋は無差別開示が終わった6月以降、翌2013年7月までまったくといっていいほど動きを見せなくなり、当時のスレは二次創作で食いつなぐことになった。当時すでにロリコン、脱糞、弟殺し、用水路、核兵器保有など今日につながる様々な二次創作・設定が誕生している。誹謗中傷と創作の受け皿となった唐澤貴洋に対し、愛情と侮蔑をこめて「五反田の神」の愛称が付けられた。唐澤貴洋が顔写真のかわりにふざけたイラストを掲載していたことも唐澤貴洋の偶像化・神格化・非実在弁護士化に拍車をかけた。
また開示を拒否したヤーマンや、独特の誹謗中傷スタイルで有名となった島根君、初の殺害予告(神聖六文字)を行ったdion君などのチキンレーサーも文化の形成に大きな影響を与えた。
4月、なんJで話題になったウェブサイト「遊戯王カードジェネレーター」に唐澤貴洋を馬鹿にした作品が多数投稿され、ここに最初の芸術路線が誕生した。これに対し唐澤貴洋は、遊戯王カードジェネレーターの管理人JEXに対して削除要求を行い(遊戯王カードジェネレーター騒動)、無差別開示と共に炎上を盛り上げた。JEXは、削除は実施しつつその裏でサジェスト汚染の技術を解説する[4]などしてなんJ民を支援した。
10月には自動作曲システム「Orpheus」がブームとなり、これを利用してパカソンと呼ばれる唐澤貴洋や長谷川亮太を誹謗中傷する曲が大量に作成されるようになった。Orpheus開発チームの嵯峨山茂樹教授は楽曲を削除していたものの、一方で技術やセンスを認めた上で隔離しその中で作成を黙認する方針を取ったためパカソンは大量に作成され、誹謗中傷の域を越えたクオリティーに成長し芸術路線を支えた。
事実追求路線も発展し、9月26日には住所でポン!により唐澤貴洋の父唐澤洋の家であり唐澤貴洋の実家とされる田園調布サティアンが、10月19日にはその唐澤洋の顔写真が特定された。長谷川亮太サイドでは3月15日になんJ民朝倉恭介によって長谷川亮太の顔写真が開示され、実家も自分語りをもとに千葉県松戸市六高台2-7-83(ちばけんま)と推定された。ちばけんまは2013年4月7日に長谷川亮太の元同級生佐伯星香がtwitterで事実であることを証言したため確定した。
恒心教の成立
そしてこの文化にはコンテンツとしての新しい名前が与えられた。それが「恒心教」である。
恒心教の始まりは無差別開示と同時期に起きていたなんJでのオウムネタブームが関与している。当時、「NHKスペシャル 未解決事件 File.02 オウム真理教」(5月26日放送)をきっかけとしてなんJではオウム真理教・麻原彰晃ネタが流行しており、当時は唐澤貴洋に対するサジェスト汚染が活発であったことから汚染ワードとして多く用いられた。これが唐澤貴洋ネタと融合し「尊師」が唐澤貴洋の愛称として定着、そして「尊師」の愛称と共に「恒心教」という単語も誕生したとみられる。
ただし、単語自体は7月には確認されているものの定着はそれよりも後と見られ判然としない。カラケーにおいては2013年の早くから定着しているがなんJではそれより遅く、完全な定着は翌2013年の300万騒動を待つと思われる。
2013年
カラケーの発展
2012年10月には既に2ch風掲示板大手のしたらば掲示板を利用して初の唐澤貴洋掲示板(カラケー)である初代カラケーが開設されていたが、当時はなんJで十分であったため人口は少なかった。2代目カラケーは2013年3月10日の唐澤貴洋の中学の卒アルが投稿され話題になったが管理人の対応の不手際で閉鎖するなど、カラケーの存在感はまだ薄かった。しかし2013年4月頃から始まったちばけんまを書き込んだだけで規制されるほどの2ch規制地獄化がきっかけとなり、なんJからの難民が3代目カラケーに殺到し人口が大幅に増加した。
3代目管理人は芸術路線を中心とした当時の恒心教の振興に務め、カラケーが恒心教の一拠点として認識され始めた。また一方でこれはなんJ民と教徒の分離の始まりでもあった。6月には第一次・第二次飴戦争が勃発し、外部侵攻の技術が磨かれた。長谷川亮太の親戚の蕎麦屋・越後屋が見事に特定されたのもこの頃である。
しかし、3代目管理人はニコニコ動画のアカウント(佐々木小魔神)が特定されたことをきっかけに、氏名や大まかな住所が判明し7月2日に掲示板を閉鎖。この際に「唐澤貴洋から抗議された」と真偽不明の発言を行い、これを閉鎖の理由とした。
3代目管理人の「唐澤貴洋から抗議された」という発言のため、教徒は日本からの手が及びにくい海外サーバーに掲示板を開設することを計画し、7月6日にハンガリーサーバーを利用した「ハンガリー要塞」を開設した。だが、管理人が海外移住の意味を理解せず日本警察のIP開示に応じてしまい、批判される中7月13日に閉鎖し初の海外要塞路線は短命に終わった。
300万騒動
7月1日、事務所をアイオス五反田駅前からピュア虎ノ門に移転した(聖遷)。そして7月31日、事務所のfacebookアカウント上でdion君など殺害予告民を告訴し300万を請求していることを突如報告、翌日の8月1日に教徒がこの書き込みを発見し300万騒動が勃発する。
もはや行動を起こすこともないと思われた唐澤貴洋のこの動きに対し、なんJ民・教徒は大きく動揺した。これまでの誹謗中傷に対する告訴の可能性が真剣に議論され、唐澤貴洋は「虎ノ門の悪魔」として恐れられた。
さらに、なんJのライバル的存在である2ch嫌儲板の住民がこれに歓喜、唐澤貴洋に加勢してカラケーに侵入しメインカラケーが相次いで自主閉鎖するなど情勢は緊迫した。唐澤貴洋は嫌儲民を「心ある方々」と呼んで讃えた。
だがdion君以降告訴されたとの情報も無く、やがて口だけの脅しではないかとの見方が強まった。その後8月26日に2ちゃんねる個人情報流出事件が発生すると、自身のクレジットカード情報が流出したことにキレたのか唐澤貴洋の矛先は西村博之ら2ch運営に向かいはじめ、300万騒動の方は収束に向かった[5]。
恒心を引き出す
300万騒動も終わり、教徒に落ち着きが戻った。一方の唐澤貴洋は嫌儲民に持ち上げられたためか調子にのってしまい、おかしな文章を投稿するようになっていた(尊師語録、唐澤貴洋の発言一覧/Facebookを参照)。
教徒は連日の恒心(更新)に熱狂し、なんJや当時のメインカラケーであるカラザイル掲示板は大きく賑わった。唐澤貴洋のfacebookは「faithbook」と呼ばれ崇拝対象となった。やがて恒心を待ちきれない教徒たちの間で唐澤貴洋から恒心を引き出そうという動きが発生し、「唐澤貴洋が猥褻動画を見た」などというデマを流したところ本人が大激怒、10月16日のPlays Now騒動に結びついた。
また、2012年に教徒に誘導され唐澤貴洋に開示を依頼したうしじまいい肉の事例が応用され、重光由美が教徒に誘導されて唐澤貴洋に開示を依頼、唐澤貴洋の雑仕事の犠牲者となる形で恒心を引き出した。
12月1日には大分君の殉教により、騒動初となるテレビ報道が行われた。
他にも尊師ール路線が開拓され、名古屋教徒らによって各地にシールが貼られるなど地道な努力が行われた。
恒心不足と批判要望板
しかし、教徒の力で引き出すことにも限界があった。唐澤貴洋はエクシード大泉在住疑惑に対する恒心を行った11月23日をもってfaithbook恒心を停止しており、恒心中毒となっていた教徒は恒心不足にあえいでいた。また、これに乗じて2013年末から2014年初にかけ偽台帳事件や唐澤貴洋の祖父河野一英の死亡デマ、偽車内広告事件といったコラ画像による釣りが相次いだ。
追い打ちをかけるように10月特定コミュニティを原因[6]としてOrpheusが一時休止を発表し、パカソンの新規作成が不可能となっていたため芸術路線も衰退しつつあった。
恒心不足に喘ぐ教徒は外部に活路を求めた。12月19日にパカ弁富田寛之が話題となると、パカ弁の開示要請スレの拠点となっていた批判要望板に教徒が遠征、立川土人(ドコモユーザー)をはじめとする批判要望板住民と共闘してパカ弁煽りがブームとなった。また、当時JEXが公開していたサジェスト汚染超兵器102chの実験台としてパカ弁や依頼人のサジェストが汚染された。
パカ弁には唐澤貴洋には及ばずとも濃いキャラの人物が多く、恒心不足をある程度補った。
2014年
片平騒動
教徒では布教の一環として、ちばけんまの住所などハセカラネタを仕込んだ画像を流通させまとめブログなどに転載させようとする工作を行っていた(統一画像路線)。しかしまとめブログ側も気付いていたようでなかなか成功していなかった。そのため、改良型である偽装gif画像[7]が作成され、ついに2月7日、「ポケモンまとめ速報」がこの画像にひっかかり転載してしまい話題となった。
布教の成功に喜ぶ教徒あったが、Whoisからポケモンまとめ速報の運営者片平亘が特定されたことで事態は一変する。これをきっかけとしてWhoisからまとめブログの運営者を特定できる可能性があることが発覚、その話は直ちになんJや嫌儲に伝わり、まとめブログ・アフィブログ潰しを目的とした大騒動に発展したのである(片平騒動)。
当初は片平亘を唐澤貴洋に謝罪させようなどといって楽しんでいた教徒であったが、ブログ潰しという意図せぬ目的が加わったことや、この騒動経由でカラケーにやってきた「お客さん」が増えたことで混乱が生じた。結局、Jimによる2chクーデターが同時期に発生し話題が移ったため騒動は尻すぼみに終わった。
さらに問題となったのが、この騒動で恒心教の知名度が変にあがったことで「恒心教=炎上屋」との認識が広まったことである。これによって教徒を利用して自分の嫌いな相手を潰させようとする「炎上依頼」が多発し、従来からの教徒はお客さんや新参(新芋)の排除を唱えるようになっていった。
閉鎖主義
そして4月10日にカラザイルが強制閉鎖されると、閉鎖主義を徹底したカラケーである唐澤ちゃんねるへの移住が行われた。唐澤ちゃんねるはトップページを偽装したうえにブラクラを設置して2chブラウザ専用とし、さらにURLを広めることも忌避された。だがトップページ偽装がいけなかったのか運営に目を付けられ、再建してもすぐ強制閉鎖されてしまうようになり断念、7月には教徒はなんJなどに離散してしまった。
しかし事件は起きるのだ。その頃時を同じくして、京セラドーム破壊未遂事件をきっかけとする音楽グループ「UVERworld」の炎上騒動が発生しており、2ch邦楽グループ板のUVERworldスレがなんJ民に荒らされ、避難所である「UVERworld BBS」がしたらばに開設されていた。ここに教徒の「副副管理人」が荒らし対策のエキスパートを名乗って管理チームに侵入し、7月10日、無知な主管理人を騙しパスワードを騙し取って乗っ取りカラケーにすることに成功してしまう(ウバケー乗っ取り事件)。
なんJにこのことが伝わると教徒は再び集結し、メインカラケー問題は一応解決することができた。それと同時に、この騒動と一緒に掲示板のURLがなんJで広まったことや、副副管理人が閉鎖主義をとらないことを宣言したことによって、閉鎖主義は退潮に向かった。
閉鎖主義下の恒心
閉鎖主義によって表立った活動が困難となっていたため、半分売名を目的としつつ教徒として活動していた人物である月永皓瑛が教徒に代わり「ラジコン」としてけんま配信などを行っていた。ピュア虎ノ門前で警察20人との大立ち回りを演じたことは有名だが、独断行動が多いため「壊れたラジコン」の異名も持った。
唐澤貴洋に殺害予告を行った福嶋誠也が逮捕され、第一次玉音放送が成されたのは閉鎖主義真っ盛りの5月8日のことであった。今日では殉教者として評価されている福嶋誠也も、閉鎖主義の当時においては恒心教を目立たせたとして悪いイメージで捉えられていた。
一方、口伝と新参排除が主流であった当時としては異例の試みとなる初代唐澤貴洋wikiが3月27日に設立された。
空は何色か
4月26日、2012年にアイドル大量フォローを指摘されてからずっと鍵がかけられていた恒心綜合法律事務所のtwitterアカウントの鍵が突如外され、「身が震える」との投稿が行われた。また5月24日には唐澤貴洋に対しても殺害予告を行ったPC遠隔操作事件の犯人片山祐輔に宛てた、唐澤貴洋渾身のポエム「空は何色か」が投稿され教徒の爆笑を誘った。
6月4日には「世界の終わりも大好きです!」という意味不明なツイートのために、前述のUVERworldスレに先駆けて2ch邦楽グループ板のSEKAI NO OWARIスレが教徒に荒らされた。
だがその後唐澤貴洋がツイートを行うことはなかった。何故唐突にtwitterを恒心しようと思ったのか、そして何故止めたのか、その理由は一切不明である。
チンフェのターン
唐澤貴洋は「世界の終わりも大好きです!」以降また活動が低下し、DIOジャパンなどの顧問弁護士に就任したことが発覚した程度で殆ど恒心が無くなる。
一方で長谷川亮太はキッズライク騒動でサークルが判明したり、自分語りマットがマツドマッドマットマンに盗難される、けんまくんが話題になる、長谷川亮太アンチの動画ニキによる長谷川亮太批判動画が多数再生される、そして極めつけは11月7日のウンフェ画像の投下など比較的恵まれた。12月1日には長谷川亮太の炎上1000日を記念して千日祭が開催された。
カラッキング路線の開始
2013年頃から、Torが使用できたT-唐澤掲示板などの無法地帯系カラケーに0chiakiに代表されるハッカーが屯すようになり、恒心教の犯罪性が強くなり始めていた。
1月に日本ダウン症協会広島支部ブログ改竄事件が起きたことを皮切りに次々と教徒によるクラッキングが行われ、これら教徒によるクラッキングは唐澤貴洋とかけて「カラッキング」と名付けられた。3月9日の@Wikiパスワード再発行ページ改竄事件や、12月の0chiakiによるカランサムウェア事件は恒心の外でも大きな話題となった。さらに0chiakiもカラケー(後の恒心教サイバー部掲示板)を開設しハッカーを呼び込んだ。
またカラッキングと言う程ではないが11月のモンストまとめ殺害予告事件は教徒にソーシャルゲーム(意味深)の楽しさを伝えた。
2015年
オウム事件20周年
2014年11月17日に副副管理人は氏名を特定され圧力かけられたとして突如ウバケーを閉鎖し、麻原彰晃掲示板(アサケー)への移住が行われた。そしてオウム真理教事件20周年となる2015年を迎え、1月の連続カラッキング、2月の法律事務所クロス設立と山岡裕明の登場など大きな出来事が相次いで発生するようになる。2015年の恒心教は、麻原彰晃とともに繁栄と混乱の中へ進みつつあった。
MMD路線と芸術路線の再建
1月、Altailが尊師の3DCGモデルを公開し尊師MMD路線が開拓され、Orpheusの閉鎖以来停滞気味であった芸術路線が活発化した。Altailはじめ教徒は工作の放置が問題となっていたニコニコ動画のMMD杯(第14回MMD杯)に参戦、工作員ダブルぬるぽを味方につけて大勝利を果たした。奇しくも尊師MMD勢の大勝利が確定した閉会式は3月7日に行われた。
これにより恒心教はニコニコ動画をはじめ広く知られるようになり、特に文化的に近い例のアレ民を取り込んで恒心教バブルが発生した。また、MMD杯の結果に不満をもち恒心教を攻撃したオメガこと小関直哉や涼子Pの名前でネカマをやっていた森園祐一などが特定され、彼らは外伝主人公という新しいジャンルを生み出した。小関直哉はyahooアカウントを乗っ取るという半分犯罪の大胆なやり方で、森園祐一は地道な検証で特定されいずれも教徒の特定技術を見せつけた。
だがこのような形での急激な知名度の上昇は再び「恒心教=炎上屋」という認識を広め、昨年の片平騒動の構図を蘇らせることにもなったのである。
twitter路線の急拡大
2012年には既に最初のtwitter路線ともいえる指原デマツイ騒動が発生し、長谷川亮太の高画質卒アル開示につながった。その後2013年にはニッセ路線が誕生している。だが恒心教は匿名性を重視していたためSNS布教はかなり控えられており、2014年の閉鎖主義時代にはSNSでの布教を認めない方向に向かった[8]。
しかし2015年に入ってから、動画ニキが「twitterで国士舘生に絡んで長谷川亮太を探す」というウンフェ軍団路線を提唱したことや、MMD杯で知名度があがったことで例のアレなど外部からの流入が増えたことにより、twitterの教徒は急増した。
twitter路線は法廷画風イラストデマ拡散など布教に大きな効果を見せた一方で、炎上依頼や自己顕示・承認欲求(→心のチンフェ)を目的とする臭芋と呼ばれるものたちが急増したことは路線自体に対する批判を招いた。また艦これワンドロ騒動・同人ゴロ連続炎上騒動は教徒側の勝利でおわったものの炎上依頼ではないかとの批判を呼び、「布教」という言葉が独り歩きしていることを浮き彫りにした。
googleマップ騒動
4月にgoogleマップの地名登録機能がほぼ無審査であることが発覚、これを利用して教徒はハセカラやオウム真理教関連の地名がちばけんまはじめ全世界各地に登録された。これが「皇居や警視庁にサティアンがある」などとして話題になり、これまた奇しくも長谷川亮太の誕生日である4月20日、些細ないたずらは大ニュースに発展し恒心教の名前と共にメディアで一斉報道された。恒心教に強いジャーナリストの三上洋は恒心教を解説して「いたずらのグループ」と呼んだ。
このいたずらに対し12月1日に3人(爆弾三勇士)が書類送検され、第三次玉音放送に繋がった。また、弁護士会の岡正晶から「弁護士制度に対する重大な挑戦」との声明が出された。
なんJとの対立
これまで恒心教は淫夢などと並びなんJ公認コンテンツといえるようなポジションにすらあったが、一方でそれを疎ましく思うものたちも存在していた。そしてその対立は前述のMMD杯以降の恒心教の急拡大やtwitter路線の問題によって顕在化し始めていた。
6月30日、対立は急速にエスカレートする。きっかけとなったのは、けんま民の陸自ニキが主催した「よるけんま実況」である。これはいわば「ちばけんまオフ」で、教徒が馴れ合いつつ長谷川家に尊師ールを貼るなどのいたずらをしていたことに対し批判意見が噴出、包皮民(恒心教アンチ)も「シール、ペタッ!w」などと便乗しスパム煽りを行い状況は混沌とした。
さらに、時を同じくして0chiakiが逮捕されたことが追い打ちをかけた。0chiakiはTwitterスパム乗っ取りによって大量の殺害予告を投稿させ3月17日に第二次玉音放送を引き出すなど積極的に活動していた。しかし6月に急に消息が途絶え、よるけんま実況の翌日となる7月1日に逮捕が報道された。0chiakiを殉教者として讃える教徒に対してなんJでは0chiaki叩きの動きが起き、対立は決定的なものとなった。以後、恒心はなんJからの独立を志向していくこととなる。
顔開示とけんまブーム
これまでネット上のものが大半であったいたずらは、恒心教の勢いにのって現実世界にも向かい始めていた。
第14回MMD杯の閉会式が行われたのと同じ日の3月7日、唐澤貴洋のご尊顔開示事件が発生した。これにより長年の謎であった唐澤貴洋の顔が判明すると唐澤貴洋の撮影を目指す動きが発生、6月に唐澤貴洋と山岡裕明が虎ノ門路上で撮影される、7月には前述の陸自ニキが眼鏡尊師の撮影に成功するなど大いに盛り上がった。
そして2783の日=平成27年8月3日、恒心系アフィブログナリ速の管理人茂みがピュアけんま配信中に警察に捕まる事件が起きる。これがチキンレーサーの心に火をつけ、けんま配信をして職務質問されようとするものたち、スリルを味わいたいものたちが次々とけんまを行いはじめけんまブームが発生した。
2月のピュア虎ノ門にトラップが設置されたカッターナイフ表彰状事件や、7月の長谷川家の表札がいたずらされた表札、ペタッ!w事件をきっかけとして実害路線が定着しつつあったため、ピュア虎ノ門やちばけんま、長谷川家の親戚が所有するフェイヴァリットハウス1や、長谷川家の車(マンチ、青シュヴィッツ)に対する過激ないたずらが日常茶飯事となった。
警備体制が厳しくなったことで、「ラジコン路線[9]」という一般人をラジコンのように誘導してけんまさせる路線も発展した。ラジコンとされたのは嘘に騙されやすい統合失調症患者(甘芋)や、性欲を満たす為ならばなんでもやる出会い厨などであった。初の甘芋ラジコンとなった安達真はその「ゴリホーモ」などの言動の面白さから外伝主人公としてひとつのコンテンツを築いた。
けんま配信と安藤良太の登場
特にこのブームで人気となったのはツイキャスやニコニコ生放送を利用した「けんま配信」で、唐澤洋の撮影に成功したparanoidなど多くの配信民が登場した。
その中でも、配信者ださいたまの登場は大きな衝撃を与えた。ドローンとプリウスを操り神出鬼没、職務質問に食ってかかる、長谷川家の車にGPSロガーを仕掛ける(愛寿物流事件)などその行動力は当初から驚かれた。
実はこの人物は、5月に自身の行った殺害予告を唐澤貴洋に開示請求されたことで既に話題になっていた安藤良太その人であった。彼は交通事故で両親失い、賠償金と資産運用で大量の資金を保有していたのである。そして翌年、彼は恒心教と社会にさらに大きな衝撃を与えることになる。
内紛の激化とアサケーの閉鎖
恒心教界隈は2015年後半も賑わいを見せ続けていたものの、それもやがて終わりを迎えようとしていた。
アサケー期に発展したこれら様々な路線は、やがて負の側面が大きくなりつつあった。twitter路線での臭芋の狼藉をはじめ、MMD路線をきっかけとした芸術路線の諸問題[10]、けんま路線における過激ないたずらや、加藤力などの自己顕示欲の強い教徒の出現が論争を生み、教徒間での内紛を招いていたのである。これら荒れやすい話題はウツケーへの隔離が推奨されていたものの、炎上の拡大によって隔離政策も限界を迎えていた。
2015年8月には、教徒間の馴れ合い集団と化していたコミケ路線の運営グループ事務所一派への批判をきっかけとした内紛事務所騒動が発生し、2016年まで続いた最大のものになった。安藤良太も事務所一派に協力したとの批判で炎上、一時評価が失墜した。
アサケーはこれら内部対立や荒らしの影響を受け荒廃し、それは住民の良心に期待して不介入主義をとっていた管理者サンラクシャカにとって手に余るものとなっていた。11月17日のメインカラケー就任1年という節目にサンラクシャカは閉鎖[11]を決定し、麻原彰晃の名の下に歩んだ激動の2015年は終わりを迎えた。
2016年
爆破予告路線
昨年の炎上以降行動が少なくなっていた安藤良太であったが、2月に一世一代の勝負にうって出る。安藤良太は全国47以上の自治体に爆破予告メールを送りつけ、47万人に影響が及ぶ大事件を引き起こしたのである(同時爆破予告事件)。
安藤良太は別件で逮捕されたが、Torを使えば足がつかない手軽さと影響力の大きさによって教徒以外にも模倣犯が大量に発生、全国的な社会問題となった。そして彼らのこの行動が10月にさらなる大恒心を引き寄せることを、この時はまだ誰も知らなかった。
事務所騒動終結
昨年来続いていた事務所騒動は、最終的に2015年12月のC89強行出展への批判と金銭問題、安藤良太による事務所一派首魁藤原太一の住所氏名リークが決定打となり、2016年1月~2月にかけて事務所一派が次々とネットから姿を消したことで概ねこの騒動は決着した。
事務所一派の壊滅に喜ぶ教徒であったが、一方で芸術路線期待の星であったけんまPが事務所一派の一員として糾弾されたこと、コミケ路線が全否定されたこと、ウツケーを中心とした一部の芸術路線民に対するアンチ活動が勢い付いたこと[12]は芸術路線民に動揺を与え、これ以降先細りを見せていく。
なお、事務所騒動と同時期に男性アイドルグループ「アルスマグナ」が前述のけんまP作曲のパカソンを無断使用したアルスマグナ騒動が起きていたが、けんまPがネットから消えたため有耶無耶に終わっている。
第2次聖遷
法律事務所クロスは2月1日にオランダヒルズ森タワーRoP(オラヒ、オラ森)に聖遷。3月7日には山本祥平が入所した。
オラヒは警備体制が厳重で侵入不可能の要塞かと思われたが、2月6日に教徒が侵入に成功、その後も続々と侵入成功報告があり、実はかなりガバガバでむしろピュア虎ノ門よりも唐澤貴洋に近づけるという有様であることが判明した。
原理主義
事務所騒動の終結、したらば運営によるメインカラケーの連続ポアで[13]、アサケーからの惰性で続いてきた恒心教バブルは終焉を迎えた。
外部への布教を拡大した結果混乱を招いた2015年の反省からか、2016年には長谷川亮太・唐澤貴洋が中心であることを強調する原理主義[14]の傾向を強めた。
特に5月31日のサヒケーへの移住は原理主義の流れを決定付けた。サヒケーはハンガリー要塞以来念願の海外要塞メインカラケーであり、危うい書き込みをしても開示されないためアングラ傾向の強い原理主義にはもってこいの場所だったのである。
原理主義においては事実追求路線が重視され多くの成果があり、唐澤貴洋・山岡裕明の誕生日開示、河野家の墓地開示による唐澤厚史の実在確認、唐澤貴洋の元同僚小西一郎失踪の追求などが成し遂げられた。また事実追求路線と合わせて実害も重視され、墓が汚損されたり、オラヒの事務所のドアに落書きするなど過激ないたずらが行われた。
一方、DDoS攻撃を受けたり、12月3日にサヒケーと唐澤貴洋wikiの両方を管理していた管理人であるメガ雷龍が特定され掲示板とwikiを閉鎖するなど、自前サーバーならではの問題も起きた。
長谷川亮太の失踪と対策
2016年、長谷川亮太路線は危機を迎えた。長谷川亮太は小学校時代の長谷川亮太まとめが開示されたりピンフェやデンフェなどいくつか目撃例が報告されたりしたものの、ちばけんまやフェイバリットハウスなどおなじみの場所では確認されず行方不明となっていた。4月8日に長谷川亮太の卒業論文が発掘され国士舘大学卒業が判明しいよいよ捜索は困難となった。
このため、長谷川のターンと唐澤のターンの交代によって炎上を維持してきたターン制は危機を迎えた。長谷川のターンの代用として外伝主人公が投入され、昨年から引き続き登場の安達真、そして新たに発掘された出会い厨×知的障害という奇跡のラジコン鈴木康史や、統合失調症患者の岩間好一が期待された。だが安達真、鈴木康史は期待に沿う活躍をみせたもののしばらくして活動を停止、岩間好一は例のアレ界隈に輸出して8月に大人気とはなったものの恒心教のコンテンツにはならなかった[15]。
唐澤貴洋の活発化とお気持ち表明
対して、唐澤貴洋サイドは聖遷をはじめ活発な動きをみせ始めていた。5月のjpnumber編集合戦とサイモントン療法協会訴訟記録開示で唐澤貴洋のカラケー・wiki監視疑惑が発覚、6月10日には唐澤貴洋との法廷オフが開催された[16]。
そして10月、出所した0chiakiが玉音放送があることをリークする。いつものように音声だけだろうと思っていた教徒の予想は良い意味で裏切られ、10月21日、唐澤貴洋はNHK「ニュースウォッチ9」において初となる顔出し出演を行ったのであった。映像では、爆破予告路線と安藤良太をメインテーマとし7月の墓汚損にも触れられ、教徒の行動が結びついた瞬間となった。この映像は「お気持ち表明」と呼ばれ、勢い低下に悩んでいた教徒を奮起させた[17]。
さらに11月24日には唐澤貴洋は山梨学院大学で講演し、幸運なことに教徒の学生がいたため写真が撮影された。
関連項目
註釈
- ↑ 唐澤貴洋がなんJのスレでtwitterでのアイドル大量フォローを指摘された直後にtwitterアカウントに鍵をかけたため、なんJを監視していることが判明した事件
- ↑ もともとなんJは野球選手はじめ実在の人物をネタにすることを躊躇しない風潮が強く、たとえ弁護士であろうと同様であった
- ↑ 唐澤貴洋がIPを開示しただけで後のこと(IPからの発信者の特定、その後の訴訟)を何もしなかったため。ちなみに自分のことに関してはしっかり特定→訴訟をしている(300万騒動など)
- ↑ JEXが普及したことは事実であるが、なんJに伝えたわけではない。サジェスト汚染技術はすでになんJでも一部で知られており、そのたぐいの投稿は既に行われていた。
- ↑ 2015年アサケーに現れた自称dion君によると実害は無かった模様
- ↑ 特定コミュニティには恒心以外にふたば二次裏などがあり、一時休止の原因が恒心だったかには議論がある
- ↑ 一見普通の画像だが、gifアニメーションを利用して時間が経つと殺害予告などが表示される
- ↑ 当時のSNSに対する反応としてはかぁ坊騒動が参考になる
- ↑ 「ラジコン」の名称は前述の月永皓瑛に由来する。ただし月永の場合自分からラジコンになっていた点が甘芋・出会い厨とは異なる
- ↑ twitterでの芸術芋(特に絵芋)の自己顕示欲問題や萌えネタ許容の是非など
- ↑ 正確には休止
- ↑ このあたりの流れはハセカラファミリー一覧/小物#芸術路線を見ると分かりやすい
- ↑ ドリケー、イスケー、ソムケー、マオケー、サモケーがポア、ケーケーケーケーが1日で自爆
- ↑ 原理主義の定義は曖昧であるが長谷川亮太・唐澤貴洋に関係ないことはあまり扱わない、萌えネタなどなんJっぽくない(?)文化は避けるなどの特徴がある。2013年頃への回帰運動としての側面もある
- ↑ 淫夢民が主体となっていたがけんまの方法論は恒心教のものをある程度受け継いでいる
- ↑ 2015年にも法廷オフが開かれるのではとの噂が流れた。平成27年(ワ)8441号を参照
- ↑ ただしこれ程の大恒心も一時的には勢いが伸びた程度に留まった。またこのような大恒心を得たことで、もはや目標を失ったとの悲観的な見方もある