恒心文庫:厚子「ワキガ」

本文

厚子はワキガである。すえた様な、しかしどこか酸っぱい様な、同時に苦い様な。ともかく顔をしかめずにはいられない匂いを、腋の下から耐えず垂れ流している。当然近所には爆臭ババアと噂され、だというのに、彼女はこりもせずタンクトップ一丁で駆け回っているのだ。
そうして今日も、厚子は外に出ていた。ひしめく人の群れ、しかしその中に不自然な空白があり、その中心に当たり前の様に厚子は立っていた。それほど臭いのである。それほど耐えられないのである。
ただ彼女はどこ吹く風、今日は腹巻き一丁で外に居るのだ。
しばらくして、アナウンスが響く。同時に規則だって動き出す人の群れ。そのひしめく人々の目的は電車であった。 電車の入り口が開くであろう場所を予測しながら、人々は駆け引きの如く渦巻いて居るのだ。その様子を、厚子は露出した大陰唇をかきながら目の表面に映している。さながら超越した存在のように。やがて電車が止まり、人々の動きが止まり、そうして厚子は動き出す。途端、群れが割れる。まるでモーセの如く、悶絶し倒れ伏した人々の上を厚子は悠々と歩いていく。まるで臭いが歩いているようだ。人々には厚子の周囲が歪んで見えていた。臭すぎるのだ。そうして動けない人々の視界、その中心から突如として厚子がかき消えた。
というのも、電車とホームの隙間に落ち、はまったのだ。しばらくして、身動きできない厚子が苦しそうにうめき声をあげ始めた。
実は、この時厚子は妊娠していた。妊娠40298日である。あまりに出てこないので、病院に行こうと電車に足をかけようとしたのだ。腹を冷やさないように、腹巻もした。しかしその仕打ちがこれである。
重苦しい沈黙の中、厚子は唐突に右腕を高々と振り上げた。途端、すえた匂いが辺りに広がっていく。ワキガだ。上手く処理できなかったのか、ポツポツと突き立った毛で赤くかぶれた腋の下が、白日のもとに晒されている。駅員がアナウンスで吐く。厚子は左手で右の腋をかきむしる。すると、なんたることか、腋の下、薄い皮膚の下で何かが蠢いているのだ。それどころか、今にも外に出ようとせり上がり、ふと飛び出した。
あああああああああああああああああああああああああああああああ!!! !!!!!!!!
炎天下、こうして唐澤貴洋が生まれたのである。

リンク

ここでは厚子が化け物のような姿となっている作品のみリンクを掲載する。この他にもメインとして登場している作品、叙述トリック物がある。