弟殺し
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弟殺し(おとうとごろし)とは、自分の弟にあたる存在を殺す行為、その行為を行った人物のこと。恒心教においては唐澤貴洋を指す事が多い。
概要
恒心綜合法律事務所のホームページに、唐澤貴洋が青春時代に弟を失ったエピソードが書かれているのを発見したなんJ民が、唐澤貴洋が弟を殺したと決め付けネタにしたのが始まり。
弟殺し神話
その後ネタが体系化され、
- 用水路に突き落として殺害
- 「兄さんやめて!」と叫びながら這い上がる厚史を更に蹴り上げて溺死させ
- その理由は生きるため 仕方なかった
というような一種の神話ができあがっていった。
本当の動機については諸説あり、
など様々な説がある。また殺害方法についても異説が多数存在する。ただし弟は人間でなくダチョウである点はダチョウの墓事件以降基本的に一致している。
なお唐澤貴洋本人はこの事を否定しており、Faithbookで「当職の弟を当職が殺したなどという当職のアイデンティティを否定する投稿」として怒りを露わにした。また弟は有能なダチョウではなく不良の仲間であるという。
一般的な事実追求路線の観点からは、自宅で首を吊って自殺したという唐澤の証言が概ね受け入れられており、上記の論争はいわゆる(本来の意味での)神学論争となっている。
「唐澤厚史#詳細判明の経緯」も参照。
弟殺しの歴史
旧約聖書によるとカインが弟アベルを殺害したことが人類最初の殺人とされている。
- 人類誕生直後 - カインが弟・アベルを殺害
- 前750年頃 - ロムルスが弟・レムスを殺害
- 前401年 - アルタクセルクセス2世が弟・小キュロスを殺害
- 前239年 - 嬴政(始皇帝)が弟・嬴成蟜を殺害
- 前221年 - プトレマイオス4世が弟・マガスを殺害
- 前47年 - クレオパトラ7世が弟・プトレマイオス13世を殺害
- 211年 - カラカラ帝が弟・ゲタを殺害
- 626年 - 太宗(唐)が弟・元吉を殺害
- 785年 - 桓武天皇が弟・早良親王を殺害
- 1066年 - ハロルド2世が弟・トスティ・ゴドウィンソンを殺害
- 1189年 - 源頼朝が弟・義経を殺害[1]
- 1193年 - 源頼朝が弟・範頼を殺害(4年ぶり2人目)
- 1352年 - 足利尊氏[2]が弟・直義を殺害
- 1389年 - バヤズィト1世が弟・ヤクブらを殺害[3]
- 1398年 - 太宗(李氏朝鮮)が弟・李芳碩を殺害
- 1451年 - メフメト2世が弟・アフメトを殺害
- 1491年 - 足利茶々丸が弟・潤童子を殺害[4]
- 1497年 - チェーザレ・ボルジアが弟・フアンを殺害
- 1524年 - 毛利元就が弟・相合元綱を殺害
- 1555年 - 斎藤義龍が弟・孫四郎と喜平次を殺害[5]
- 1557年 - 織田信長が弟・信行を殺害[6]
- 1590年 - 伊達政宗が弟・政道を殺害
- 1634年 -
旧尊師の過去世である徳川家光が弟・忠長を殺害 - 1661年 - アウラングゼーブが弟・ムラード・バフシュを殺害
- 1956年 - フアン・カルロス1世 が弟・アルフォンソを殺害[7]
- 1969年 - 大学生の兄が弟を殺害(本郷兄弟決闘殺人事件)
1995年8月25日 - 唐澤貴洋が弟・厚史を殺害- 2001年 - ディペンドラ王太子が弟・ニーラージャンを殺害[8]
- 2021年6月13日 - 松戸市在住67歳男性が弟の64歳男性を刃物のようなもので刺す(未遂)[9]
弟殺しに関するもの
出典・註釈
- ↑ 実際に義経を殺したのは藤原泰衡の配下だが、泰衡は頼朝により義経の引渡しを求められていた。
- ↑ ”尊氏”と検索すると”尊氏 なんj”とサジェスト汚染され唐澤貴洋の弟殺しネタととして使われいる。
- ↑ その後、オスマン帝国では兄弟殺しが後継者争いを防ぐため仕方ない行為として慣行化し、16世紀にはこれが法制化されるにまで至っている。
- ↑ 父、足利政知の跡目を巡って
- ↑ 義龍は自身が廃嫡されると考えて一計を案じ、弘治元年(1555年)11月12日、病を装って孫四郎らを自身のいる稲葉山城の奥の間に呼び出した。二人は義龍の寵臣・日根野備中守弘就によって殺害された。
- ↑ 手を下したのは配下の者とも、自害とも言われる。
- ↑ 部屋には2人しかいなかったため、公式には事故死として処理された
- ↑ 弟だけでなく妹・両親や叔父・叔母など親族9人を殺害後、自身も自殺を図り3日後死亡。ネパール王族殺害事件
- ↑ 「兄に刺された」と通報 同居の弟を刃物で刺した疑いで 松戸(魚拓)