弟殺し
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弟殺し(おとうとごろし)とは、自分の弟にあたる存在を殺す行為、その行為を行った人物のこと。恒心教においては唐澤貴洋を指す事が多い。
概要
恒心綜合法律事務所のホームページに、唐澤貴洋が青春時代に弟を失ったエピソードが書かれているのを発見したなんJ民が、唐澤貴洋が弟を殺したと決め付けネタにしたのが始まり。
唐澤貴洋本人はこの事を否定しており、Faithbookで怒りを露わにした。
「唐澤厚史#詳細判明の経緯」も参照。
弟殺しの歴史
旧約聖書によるとカインが弟アベルを殺害したことが人類最初の殺人とされている。
- 人類誕生直後 - カインが弟・アベルを殺害
- 前750年頃 - ロムルスが弟・レムスを殺害
- 前401年 - アルタクセルクセス2世が弟・小キュロスを殺害
- 前239年 - 嬴政(始皇帝)が弟・嬴成蟜を殺害
- 前47年 - クレオパトラ7世が弟・プトレマイオス13世を殺害
- 211年 - カラカラ帝が弟・ゲタを殺害
- 626年 - 太宗(唐)が弟・元吉を殺害
- 785年 - 桓武天皇が弟・早良親王を殺害
- 1066年 - ハロルド2世が弟・トスティ・ゴドウィンソンを殺害
- 1189年 - 源頼朝が弟・義経を殺害[1]
- 1352年 - 足利尊氏[2]が弟・直義を殺害
- 1389年 - バヤズィト1世が弟・ヤクブらを殺害[3]
- 1398年 - 太宗(李氏朝鮮)が弟・李芳碩を殺害
- 1451年 - メフメト2世が弟・アフメトを殺害
- 1491年 - 足利茶々丸が弟・潤童子を殺害[4]
- 1497年 - チェーザレ・ボルジアが弟・フアンを殺害
- 1524年 - 毛利元就が弟・相合元綱を殺害
- 1555年 - 斎藤義龍が弟・孫四郎と喜平次を殺害[5]
- 1557年 - 織田信長が弟・信行を殺害[6]
- 1590年 - 伊達政宗が弟・政道を殺害
- 1634年 - 徳川家光が弟・忠長を殺害
1995年8月25日 - 唐澤貴洋が弟・厚史を殺害- 2021年6月13日 - 松戸市在住67歳男性が弟の64歳男性を刃物のようなもので刺す。(未遂)[7]
弟殺しに関するもの
- カインとアベル
- 高瀬舟 - 弟殺しを題材とした森鷗外の小説
- 本郷兄弟決闘殺人事件 - 大学生の兄が弟を殺害した事件
出典・註釈
- ↑ 実際に義経を殺したのは藤原泰衡の配下だが、泰衡は頼朝により義経の引渡しを求められていた。
- ↑ ”尊氏”と検索すると”尊氏 なんj”とサジェスト汚染され唐澤貴洋の弟殺しネタととして使われいる。
- ↑ その後、オスマン帝国では兄弟殺しが後継者争いを防ぐため仕方ない行為として慣行化し、16世紀にはこれが法制化されるにまで至っている。
- ↑ 父、足利政知の跡目を巡って
- ↑ 義龍は自身が廃嫡されると考えて一計を案じ、弘治元年(1555年)11月12日、病を装って孫四郎らを自身のいる稲葉山城の奥の間に呼び出した。二人は義龍の寵臣・日根野備中守弘就によって殺害された。
- ↑ 手を下したのは配下の者とも、自害とも言われる。
- ↑ 「兄に刺された」と通報 同居の弟を刃物で刺した疑いで 松戸(魚拓)