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* 1929年10月 - 弟の光次と共に三段峡(山県郡安芸太田町)を見物<ref>[http://imgur.com/olrpaNr.jpg 河野光次「九州横断廻遊記」『ツーリスト』111号 1929年12月]</ref>。 | * 1929年10月 - 弟の光次と共に三段峡(山県郡安芸太田町)を見物<ref>[http://imgur.com/olrpaNr.jpg 河野光次「九州横断廻遊記」『ツーリスト』111号 1929年12月]</ref>。 | ||
* 1929年12月 - 東明銀行、破産宣告。 | * 1929年12月 - 東明銀行、破産宣告。 | ||
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ファイル:RbIP1Yg.jpg|[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910378/264 玉木厳雄](光次の伯父) | |||
ファイル:JQgWdkz.jpg|[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1052194/97 中道卯之助]([http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1032993/250 緑井信販講利組合長]) | |||
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中道卯之助、今井一と並んで「緑井の三聖人」と呼ばれた人物であり、緑井村立尋常小学校に寄付を行い、数百冊の書籍を設置させている。 | |||
親戚の玉木家が神主を務める宇那木神社には玉木真佐雄幸直を顕彰した「玉木先生碑<ref>[http://yutaka901.fc2web.com/page5dsx25c.html 『(宇那木神社)玉木先生碑』]</ref>」が現存し、建立者の一人として「河野唯和」の名前が刻まれている。これにより名前の読みが「ただかず」とほぼ確定した。 | |||
==資料== | |||
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河田登『移民の経験記』 | |||
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昭和45年2月4日<br> | |||
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昭和48年10月30日<br> | |||
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昭和8年9月5日<br> | |||
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昭和25年5月<br> | |||
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明治43年4月1日<br> | |||
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大正2年12月4日<br> | |||
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大正5年1月28日<br> | |||
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[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00784544&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA 大阪朝日新聞 1922.12.15 (大正11) ] | |||
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1922年(大正11年)11月、高倉為三が実権を握っていた京都市の日本積善銀行の取り付け騒ぎと休業に始まる、銀行の連鎖的な休業の流れの中で、京和銀行、京和貯蓄銀行、報徳銀行、報徳貯蓄銀行、下谷銀行、高平銀行、四谷銀行、国民銀行、大分銀行が順次休業に追い込まれた。 | |||
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右整理担任者[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/829112 木村授弥太] 10 河野光次 10 このように東京秋葉銀行は報徳銀行に改称したが、経営状態は改善されることはなかった。 | |||
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== 参考文献 == | == 参考文献 == | ||
*河田登『移民の経験記』 - 河野唯一に関する記載多数。 | *河田登『移民の経験記』 - 河野唯一に関する記載多数。 | ||
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*[https://archive.fo/ggFWX (宇那木神社)玉木(幸直)先生碑] - 河野家は宇那木神社神職玉木家と姻戚関係にあったとされる。 | |||
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2017年12月4日 (月) 11:17時点における版
河野唯一 | |
基本資料 | |
本名 | 河野唯一 |
---|---|
別名・渾名 | 緑井の三聖人、大篤志家 |
住所 | 広島県安佐郡緑井村25 |
出生地 | 広島県沼田郡緑井村25(wp) |
墓所 | 広島市安佐南区緑井4-34−17 専蔵坊? |
身体情報 | 故人 |
特定経緯 | 人事興信録により発覚 |
騒動との関連 | 尊師の曾祖伯父 |
関係者 | |
河野 唯一(こうの ただかず、Kono Tadakazu、1880年頃-1973年頃)は、唐澤貴洋の曽祖伯父で河野一英の伯父である。安佐郡緑井村の青年会長を務めた。株式会社報徳銀行の取締役・監査役。
経歴
- 1880年頃 - 広島県沼田郡緑井村25番地にて河野唯助の長男として生まれる。
- 1909年以前 - 緑井村青年会長になる[1]。
- 1912年頃 - 木村授弥太・青木嘉平治らと株式会社報徳銀行取締役になる[2]。
- 1913年 - 同社監査役を兼任[3]。
- 1921年9月5日 - 報徳銀行取締役頭取木村授弥太死去。
- 1922年12月24日 - 報徳銀行休業[4]。
- 1924年8月 - 報徳銀行、東京報徳銀行と合併、東明銀行となる。
- 同時期頃 - 朝鮮で成功したと触れ込み、七軒茶屋に報徳銀行を開業したが、アメリカやハワイの送金を預かって破産し、夜逃げ同然で宮島駅(廿日市市)の東海岸近くへ移り住む[5]。
- 1929年10月 - 弟の光次と共に三段峡(山県郡安芸太田町)を見物[6]。
- 1929年12月 - 東明銀行、破産宣告。
備考
玉木厳雄(光次の伯父)
中道卯之助、今井一と並んで「緑井の三聖人」と呼ばれた人物であり、緑井村立尋常小学校に寄付を行い、数百冊の書籍を設置させている。 親戚の玉木家が神主を務める宇那木神社には玉木真佐雄幸直を顕彰した「玉木先生碑[7]」が現存し、建立者の一人として「河野唯和」の名前が刻まれている。これにより名前の読みが「ただかず」とほぼ確定した。
資料
大阪朝日新聞 1922.12.15 (大正11) 報徳銀行も遂に休業 積善銀行の飛沫を受けて帳簿整理の為め本日より二週間
四谷銀行 - muyopedia 1922年(大正11年)11月、高倉為三が実権を握っていた京都市の日本積善銀行の取り付け騒ぎと休業に始まる、銀行の連鎖的な休業の流れの中で、京和銀行、京和貯蓄銀行、報徳銀行、報徳貯蓄銀行、下谷銀行、高平銀行、四谷銀行、国民銀行、大分銀行が順次休業に追い込まれた。
日本産業革命期における地方の政治と経済 右整理担任者木村授弥太 10 河野光次 10 このように東京秋葉銀行は報徳銀行に改称したが、経営状態は改善されることはなかった。
立命館經濟學 >木忖授弥太〇河野唯一
関連項目
註釈
- ↑ 佐古豊次郎編『広島県下役員録』 1909年11月
- ↑ 帝国興信所編『帝国銀行会社要録 附・職員録. 大正元年(初版)』 1912年11月
- ↑ 帝国興信所編『帝国銀行会社要録 : 附・職員録. 大正2年(2版)』 1913年11月
- ↑ 「報徳銀行も遂に休業 積善銀行の飛沫を受けて 帳簿整理の為め本日より二週間」『大阪朝日新聞』 1922年12月15日
- ↑ 河田登『移民の経験記』
- ↑ 河野光次「九州横断廻遊記」『ツーリスト』111号 1929年12月
- ↑ 『(宇那木神社)玉木先生碑』
参考文献
- 河田登『移民の経験記』 - 河野唯一に関する記載多数。
外部リンク
- (宇那木神社)玉木(幸直)先生碑 - 河野家は宇那木神社神職玉木家と姻戚関係にあったとされる。