「河野光次」の版間の差分
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近衛篤麿らの「アジア主義」に感銘しアジア各地を日本領とし欧米列強の干渉を防ごうと決意したことからか上京(緑井村の河野家三兄弟のうち最初に上京した人物と思われる)し早稲田大学に入学、尾崎行雄の書生となる。<br> | 近衛篤麿らの「アジア主義」に感銘しアジア各地を日本領とし欧米列強の干渉を防ごうと決意したことからか上京(緑井村の河野家三兄弟のうち最初に上京した人物と思われる)し早稲田大学に入学、尾崎行雄の書生となる。<br> | ||
その後、アジア主義の理想を実現するためからか尾崎の秘書で同僚であった畑弥右衛門(生涯を通じて光次と繋がりが深い人物であった模様である)と共に朝鮮・京城龍山地区(現・ソウル特別市龍山区)に渡り事業を始めるも失敗。このとき唐澤貴洋の曾祖父にあたる光次の弟・一三が平田百貨店京城店に就職したのも兄・光次に呼び寄せられたためであると思われ、一三は当時朝鮮龍山水産取締役であった[[村井啓助]] | その後、アジア主義の理想を実現するためからか尾崎の秘書で同僚であった畑弥右衛門(生涯を通じて光次と繋がりが深い人物であった模様である)と共に朝鮮・京城龍山地区(現・ソウル特別市龍山区)に渡り事業を始めるも失敗。このとき唐澤貴洋の曾祖父にあたる光次の弟・一三が平田百貨店京城店に就職したのも兄・光次に呼び寄せられたためであると思われ、一三は当時朝鮮龍山水産取締役であった[[村井啓助]]の妹・房を娶り、[[河野一英|一英]]が誕生した。<br> | ||
朝鮮での事業が失敗に終わった後は日本に戻り、畑弥右衛門の提案がきっかけとなって渋沢栄一により設立された田園都市株式会社(東急不動産の前身)および同子会社東急電鉄と関わるようになったと見られる(畑弥右衛門は小林一三の田園都市構想実現に感化・影響されたことから東急田園都市線の計画及び同線沿線郊外住宅地の分譲開発事業による荏原郡開発を渋沢栄一に提案し、田園都市株式会社起業のきっかけを作った人物として知られ、一三はこの兄・光次の支援で朝鮮に渡りまた後に東急に関わったのではないかと思われる)。 | 朝鮮での事業が失敗に終わった後は日本に戻り、畑弥右衛門の提案がきっかけとなって渋沢栄一により設立された田園都市株式会社(東急不動産の前身)および同子会社東急電鉄と関わるようになったと見られる(畑弥右衛門は小林一三の田園都市構想実現に感化・影響されたことから東急田園都市線の計画及び同線沿線郊外住宅地の分譲開発事業による荏原郡開発を渋沢栄一に提案し、田園都市株式会社起業のきっかけを作った人物として知られ、一三はこの兄・光次の支援で朝鮮に渡りまた後に東急に関わったのではないかと思われる)。 | ||
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ファイル:Kono324.jpg|『東京横浜電鉄沿革史』より[https://i.imgur.com/vUIJDSv.jpg][https://i.imgur.com/b7n9pn5.jpg ] | ファイル:Kono324.jpg|『東京横浜電鉄沿革史』より[https://i.imgur.com/vUIJDSv.jpg][https://i.imgur.com/b7n9pn5.jpg ] | ||
ファイル:Tama.jpg| | ファイル:Tama.jpg|尾崎行雄養女である妻・[[河野多満|河野多滿]] | ||
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2017年10月19日 (木) 22:34時点における版
河野光次 | |
基本資料 | |
本名 | 河野光次 |
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住所 | 東京府荏原郡馬込村1341(wp) |
出生地 | 広島県沼田郡緑井村(wp) |
墓所 | 不明 |
身体情報 | 故人 |
才能 | 有能 |
特定経緯 | 『週刊新潮掲示板』、人事興信録により発覚 |
騒動との関連 | 尊師の曾祖伯父 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
関係者 | |
河野 光次(こうの みつじ、Kono Mitsuji、1882年-1973年頃)とは、唐澤貴洋の曽祖伯父で河野一英の伯父である。「憲政の神様」、東京市長として知られる尾崎行雄の義理の娘婿である。
経歴
- 1882年 - 広島県沼田郡緑井村にて河野唯助の次男として生まれる[1]。
- 1902年頃 - 早稲田大学入学。尾崎行雄の秘書になる。
- 1903年8月 - 畑弥右衛門と共に朝鮮へ渡航。土地開発に携わる。
- 1909年 - 日本へ帰国。
- 1910年 - 尾崎の養女多満と結婚。
- 1918年頃 - 田園都市株式会社に関与。
- 1919年9月 - アメリカへ渡航。ニューヨーク、ワシントンなどを視察する。
- 1926年3月 - 友人葛原猪平の葛原冷蔵が倒産し、東洋冷蔵と改称した際に臨時株主総会の詮衡委員として名前を連ねる[2]。
考察、唐澤貴洋への影響
広島県沼田郡(後に安佐郡)緑井村に河野唯助の次男(兄・唯一?、弟・一三?)として生まれる。
近衛篤麿らの「アジア主義」に感銘しアジア各地を日本領とし欧米列強の干渉を防ごうと決意したことからか上京(緑井村の河野家三兄弟のうち最初に上京した人物と思われる)し早稲田大学に入学、尾崎行雄の書生となる。
その後、アジア主義の理想を実現するためからか尾崎の秘書で同僚であった畑弥右衛門(生涯を通じて光次と繋がりが深い人物であった模様である)と共に朝鮮・京城龍山地区(現・ソウル特別市龍山区)に渡り事業を始めるも失敗。このとき唐澤貴洋の曾祖父にあたる光次の弟・一三が平田百貨店京城店に就職したのも兄・光次に呼び寄せられたためであると思われ、一三は当時朝鮮龍山水産取締役であった村井啓助の妹・房を娶り、一英が誕生した。
朝鮮での事業が失敗に終わった後は日本に戻り、畑弥右衛門の提案がきっかけとなって渋沢栄一により設立された田園都市株式会社(東急不動産の前身)および同子会社東急電鉄と関わるようになったと見られる(畑弥右衛門は小林一三の田園都市構想実現に感化・影響されたことから東急田園都市線の計画及び同線沿線郊外住宅地の分譲開発事業による荏原郡開発を渋沢栄一に提案し、田園都市株式会社起業のきっかけを作った人物として知られ、一三はこの兄・光次の支援で朝鮮に渡りまた後に東急に関わったのではないかと思われる)。
また、唐澤貴洋が好きな作家の一人として挙げているノンフィクション作家、猪瀬直樹はこの経緯を『土地の神話』という本の題材としており、自身の一族の事を書いているからということで読んだのではないかとする考察がなされている[3]。
資料・ギャラリー
尾崎行雄養女である妻・河野多滿
著書
- 『北米行脚便り』自費出版 1920年
- 『春秋四十年』自費出版 - 猪瀬直樹著『土地の神話』の参照著作
関連項目
外部リンク
註釈