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* 1880年頃 - 広島県沼田郡緑井村25番地にて河野唯助の長男として生まれる。 | * 1880年頃 - 広島県沼田郡緑井村25番地にて河野唯助の長男として生まれる。 | ||
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* 1912年 - 木村授弥太・青木嘉平治らと株式会社報徳銀行取締役になる<ref>[http://imgur.com/5BRAd7k.jpg | * 1912年 - 木村授弥太・青木嘉平治らと株式会社報徳銀行取締役になる<ref>[http://imgur.com/5BRAd7k.jpg 帝国興信所編『帝国銀行会社要録 附・職員録. 大正元年(初版)』 1912年11月]</ref>。 | ||
* 1913年 - 同社監査役を兼任<ref> | * 1913年 - 同社監査役を兼任<ref>帝国興信所編『帝国銀行会社要録 : 附・職員録. 大正2年(2版)』 1913年11月</ref>。 | ||
* 不明 - 朝鮮で成功したと触れ込み、七軒茶屋に報徳銀行を開業したが、アメリカやハワイの送金を預かって破産し、夜逃げ同然で宮島駅(廿日市市)の東海岸近くへ移り住む<ref>[https://imgur.com/hN3GyQI 河田登『移民の経験記』 ]</ref>。 | * 不明 - 朝鮮で成功したと触れ込み、七軒茶屋に報徳銀行を開業したが、アメリカやハワイの送金を預かって破産し、夜逃げ同然で宮島駅(廿日市市)の東海岸近くへ移り住む<ref>[https://imgur.com/hN3GyQI 河田登『移民の経験記』 ]</ref>。 | ||
* 1929年 - 弟の光次と共に三段峡(山県郡安芸太田町)を見物<ref>[http://imgur.com/olrpaNr.jpg 河野光次「九州横断廻遊記」『ツーリスト』111号 1929年12月]</ref>。 | * 1929年 - 弟の光次と共に三段峡(山県郡安芸太田町)を見物<ref>[http://imgur.com/olrpaNr.jpg 河野光次「九州横断廻遊記」『ツーリスト』111号 1929年12月]</ref>。 |
2017年8月9日 (水) 03:24時点における版
河野唯一 | |
基本資料 | |
本名 | 河野唯一 |
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別名・渾名 | 緑井の三聖人、大篤志家 |
住所 | 広島県安佐郡緑井村25 |
出生地 | 広島県沼田郡緑井村25(wp) |
墓所 | 広島市安佐南区緑井4-34−17 専蔵坊? |
身体情報 | 故人 |
才能 | 不明 |
特定経緯 | 人事興信録により発覚 |
騒動との関連 | 尊師の曾祖伯父 |
関係者 | |
河野 唯一(こうの ただかず?、Kono Tadakazu、1880年頃-1973年頃)は、唐澤貴洋の曽祖伯父で河野一英の伯父である。安佐郡緑井村の青年会長を務めた。株式会社報徳銀行の取締役・監査役。
経歴
- 1880年頃 - 広島県沼田郡緑井村25番地にて河野唯助の長男として生まれる。
- 1909年以前 - 緑井村青年会長になる[1]。
- 1912年 - 木村授弥太・青木嘉平治らと株式会社報徳銀行取締役になる[2]。
- 1913年 - 同社監査役を兼任[3]。
- 不明 - 朝鮮で成功したと触れ込み、七軒茶屋に報徳銀行を開業したが、アメリカやハワイの送金を預かって破産し、夜逃げ同然で宮島駅(廿日市市)の東海岸近くへ移り住む[4]。
- 1929年 - 弟の光次と共に三段峡(山県郡安芸太田町)を見物[5]。
関連項目
註釈
- ↑ 佐古豊次郎編『広島県下役員録』 1909年11月
- ↑ 帝国興信所編『帝国銀行会社要録 附・職員録. 大正元年(初版)』 1912年11月
- ↑ 帝国興信所編『帝国銀行会社要録 : 附・職員録. 大正2年(2版)』 1913年11月
- ↑ 河田登『移民の経験記』
- ↑ 河野光次「九州横断廻遊記」『ツーリスト』111号 1929年12月
参考文献
河田登『移民の経験記』 - 河野唯一に関する記載多数。