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{{wpl|近衛篤麿}}らの「アジア主義<ref group="注釈">「汎アジア主義」とも呼ばれた日本と他のアジア諸邦の関係や、アジアの在り方についての思想ないし運動の総称であり、{{wpl|頭山満}}・{{wpl|玄洋社}}によるアジア各地との平和協調・現地独立運動支援路線から後の「大東亜共栄圏」に発展した日本の優位を前提にアジアの革命勢力を支援して日本を盟主としたアジアの新秩序構築(アジア・モンロー主義あるいは大アジア主義)までの路線が存在した</ref>」に感銘しアジア各地を日本の勢力下に置きつつ現地の産業を開発・発展(殖産興業)させることで欧米列強の干渉を防ごうと決意したことからか上京(緑井村の河野家三兄弟のうち最初に上京した人物と思われる)し早稲田大学に入学、{{wpl|尾崎行雄}}の書生となる。<br> | |||
その後、アジア主義の理想を実現するための第一段階として同じく尾崎の秘書である光次の同僚にして生涯を通じての同志であった畑弥右衛門と共に1904年8月、朝鮮・京城龍山地区(現・ソウル特別市龍山区)に渡り土地開発事業を始めるも失敗して1909年に帰国。このとき唐澤貴洋の曾祖父にあたる光次の弟・一三が平田百貨店京城店に就職したのも兄・光次に呼び寄せられたためであると思われ、一三は当時朝鮮龍山水産取締役であった[[村井啓助]]の妹・房を娶り、[[河野一英|一英]]が誕生した。<br> | その後、アジア主義の理想を実現するための第一段階として同じく尾崎の秘書である光次の同僚にして生涯を通じての同志であった畑弥右衛門と共に1904年8月、朝鮮・京城龍山地区(現・ソウル特別市龍山区)に渡り土地開発事業を始めるも失敗して1909年に帰国。このとき唐澤貴洋の曾祖父にあたる光次の弟・一三が平田百貨店京城店に就職したのも兄・光次に呼び寄せられたためであると思われ、一三は当時朝鮮龍山水産取締役であった[[村井啓助]]の妹・房を娶り、[[河野一英|一英]]が誕生した。<br> | ||
畑弥右衛門は{{wpl|小林一三}} | 畑弥右衛門は{{wpl|小林一三}}({{wpl|阪急東宝グループ}}創業者)<ref group="注釈">後に田園都市株式会社の経営を依頼されている</ref>の都市郊外田園都市構想実現に感化・影響されたことから1915年3月、荏原郡(現・{{wpl|世田谷区}}、{{wpl|大田区}})地主有志らと共に渋沢栄一へ郊外鉄道及び同鉄道路線沿線郊外住宅地の分譲開発事業による荏原郡開発を提案・依頼し、後の[[東急グループ]]の母体企業となった「田園都市株式会社」起業のきっかけを作った人物であり、弟・一三の妻である房の兄・[[村井啓助]]の属していた三協商会の店主・{{wpl|萩原六三郎}}は荏原郡の大地主であったことからこの件に関わったと見られ、光次も弟・一三と共に[[東急グループ#年表|田園都市株式会社(東急グループ)に関った]]<ref>「[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1124913 東京横浜電鉄沿革史]」(1943年)</ref><ref>[https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/pdf/authors_request_20161111a.pdf 0263 河野光次 こうのこうじ 日本【53巻 p.395】田園都市株式会社関係]</ref>。一三が「大多摩川愛櫻会」を創立し多摩川河川敷に桜の木を植樹する運動を主導したのは兄・光次の師にしてワシントン・ポトマック河畔に桜の樹を贈呈・植樹したことで知られる尾崎行雄の影響であると思われ、また一三の曾孫にあたる[[血となり肉となっている。|唐澤貴洋が好きな作家の一人として挙げている]]ノンフィクション作家・{{wpl|猪瀬直樹}}はこの経緯を『土地の神話』という本の題材としており、自身の一族の事を書いているからということで読んだのではないかとする考察がなされている<ref>[http://karasawalit.tumblr.com/post/54348047261 なぜ猪瀬直樹なのか?] - 唐澤貴洋文学館</ref>。 | ||
朝鮮での土地開発事業が失敗に終わった後も、朝鮮半島の農業改良・拓殖事業を目的に田園都市株式会社と同じく{{wpl|渋沢栄一}}ら実業家の提唱によって設立された「朝鮮興業会社」との関わりからか、アジア主義への熱意は失っていなかったようであり、アメリカ視察において現地の近代的な大規模機械化農業、とりわけ愛知県出身のアメリカ・カリフォルニア移民で現地で株式会社形式による日系移民合同稲作会社を設立し、日本の早稲種種籾を輸入栽培<ref group="注釈">従来のサクラメント下流地帯の稲は丈や葉のみが伸びて米が実り難かった</ref>して今日「カリフォルニア米」として知られる品種を開発・定着させたひとり<ref>[http://nodaiweb.university.jp/noukei/pdf/NSO99_18.pdf カリフォルニア商業的稲作の 日本人パイオニアをめぐって]</ref>であり、カリフォルニア米の大規模機械化商業的稲作農業で大成功を収めた[http://www.nodai.ac.jp/journal/research/tateiwa/0606.html 生田見壽]<ref>[http://nodaiweb.university.jp/noukei/pdf/NSO113_02.pdf カリフォルニア州コルサ郡における 移民日本人稲作の展開過程]、[https://www.jstage.jst.go.jp/article/nokei/79/4/79_190/_pdf 1910年代後半のカリフォルニアにおける日本人稲作経営の発展過程]</ref>に影響・感化されたことから朝鮮から満州、北支(華北)にかけての地域にアメリカ式の大規模機械化農業を導入し、現地の農業産業を近代化しつつ大規模農業地帯を開墾・開発する構想を抱いていたほか、旅客鉄道船舶・ホテル宿泊・団体パッケージツアー企画を統括した国内観光旅行代理店事業を展開させる構想を抱いて再び畑弥右衛門と共に「日本観光株式会社」を起業した。 | 朝鮮での土地開発事業が失敗に終わった後も、朝鮮半島の農業改良・拓殖事業を目的に田園都市株式会社と同じく{{wpl|渋沢栄一}}ら実業家の提唱によって設立された「朝鮮興業会社」との関わりからか、アジア主義への熱意は失っていなかったようであり、アメリカ視察において現地の近代的な大規模機械化農業、とりわけ愛知県出身のアメリカ・カリフォルニア移民で現地で株式会社形式による日系移民合同稲作会社を設立し、日本の早稲種種籾を輸入栽培<ref group="注釈">従来のサクラメント下流地帯の稲は丈や葉のみが伸びて米が実り難かった</ref>して今日「カリフォルニア米」として知られる品種を開発・定着させたひとり<ref>[http://nodaiweb.university.jp/noukei/pdf/NSO99_18.pdf カリフォルニア商業的稲作の 日本人パイオニアをめぐって]</ref>であり、カリフォルニア米の大規模機械化商業的稲作農業で大成功を収めた[http://www.nodai.ac.jp/journal/research/tateiwa/0606.html 生田見壽]<ref>[http://nodaiweb.university.jp/noukei/pdf/NSO113_02.pdf カリフォルニア州コルサ郡における 移民日本人稲作の展開過程]、[https://www.jstage.jst.go.jp/article/nokei/79/4/79_190/_pdf 1910年代後半のカリフォルニアにおける日本人稲作経営の発展過程]</ref>に影響・感化されたことから朝鮮から満州、北支(華北)にかけての地域にアメリカ式の大規模機械化農業を導入し、現地の農業産業を近代化しつつ大規模農業地帯を開墾・開発する構想を抱いていたほか、旅客鉄道船舶・ホテル宿泊・団体パッケージツアー企画を統括した国内観光旅行代理店事業を展開させる構想を抱いて再び畑弥右衛門と共に「日本観光株式会社」を起業した。 |
2022年2月28日 (月) 11:22時点における版
河野光次 | |
基本資料 | |
本名 | 河野光次 |
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住所 | 東京府荏原郡馬込村1341→大田区南馬込4-35-16付近 |
出生地 | 広島県沼田郡緑井村(wp) |
墓所 | 多磨霊園? |
身体情報 | 故人 |
才能 | 有能 |
特定経緯 | 『週刊新潮掲示板』、人事興信録により発覚 |
騒動との関連 | 尊師の曾祖伯父 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
関係者 | |
河野 光次(こうの みつじ、Kono Mitsuji、1882年-1973年頃)とは、唐澤貴洋の曽祖伯父で河野一英の伯父である。「憲政の神様」、東京市長として知られる尾崎行雄の義理の娘婿である。
経歴
- 1882年 - 広島県沼田郡緑井村にて河野唯助の次男として生まれる[1]。
- 1902年頃 - 早稲田大学入学。尾崎行雄の秘書になる。
- 1904年8月 - 畑弥右衛門と共に朝鮮へ渡航。土地開発に携わる。
- 1909年 - 日本へ帰国。
- 1910年 - 尾崎の養女多満と結婚。
- 1912年 - 尾崎行雄が東京市長としてワシントン・ポトマック河畔に桜の樹を贈呈・植樹。
- 1918年頃 - 田園都市株式会社に関与。
- 1919年9月 - アメリカへ渡航。ニューヨーク、ワシントンなどを視察する。
- 1926年3月 - 友人葛原猪平の葛原冷蔵が倒産し、東洋冷蔵と改称した際に臨時株主総会の詮衡委員として名前を連ねる[2]。
- 1930年5月 - 阪谷芳郎宛に畑弥右衛門と合同で「日本観光株式会社設立趣 意書及目論見書」の書簡を送る[3]。
- 1953年4月 - 尾崎行雄、第26回衆議院議員総選挙での落選を契機に政界を引退。
- 1953年9月 - 堤康次郎宛に「尾崎咢堂うまれ地記念館(尾崎咢堂記念館、神奈川県相模原市)」、「尾崎哭堂生まれ地由来記」の設立趣意書を送る[4]。
- 1954年10月 - 尾崎行雄死去。
- 1956年 - 堤康次郎宛に軽井沢莫哀山荘(尾崎行雄の別荘)・近藤邸の売却に関する書簡を送る[5]。
考察、唐澤貴洋への影響
広島県沼田郡(後に安佐郡)緑井村(現・広島市安佐南区緑井)に河野唯助の次男(兄・唯一?、弟・一三?)として生まれる。
近衛篤麿らの「アジア主義[注釈 1]」に感銘しアジア各地を日本の勢力下に置きつつ現地の産業を開発・発展(殖産興業)させることで欧米列強の干渉を防ごうと決意したことからか上京(緑井村の河野家三兄弟のうち最初に上京した人物と思われる)し早稲田大学に入学、尾崎行雄の書生となる。
その後、アジア主義の理想を実現するための第一段階として同じく尾崎の秘書である光次の同僚にして生涯を通じての同志であった畑弥右衛門と共に1904年8月、朝鮮・京城龍山地区(現・ソウル特別市龍山区)に渡り土地開発事業を始めるも失敗して1909年に帰国。このとき唐澤貴洋の曾祖父にあたる光次の弟・一三が平田百貨店京城店に就職したのも兄・光次に呼び寄せられたためであると思われ、一三は当時朝鮮龍山水産取締役であった村井啓助の妹・房を娶り、一英が誕生した。
畑弥右衛門は小林一三(阪急東宝グループ創業者)[注釈 2]の都市郊外田園都市構想実現に感化・影響されたことから1915年3月、荏原郡(現・世田谷区、大田区)地主有志らと共に渋沢栄一へ郊外鉄道及び同鉄道路線沿線郊外住宅地の分譲開発事業による荏原郡開発を提案・依頼し、後の東急グループの母体企業となった「田園都市株式会社」起業のきっかけを作った人物であり、弟・一三の妻である房の兄・村井啓助の属していた三協商会の店主・萩原六三郎は荏原郡の大地主であったことからこの件に関わったと見られ、光次も弟・一三と共に田園都市株式会社(東急グループ)に関った[6][7]。一三が「大多摩川愛櫻会」を創立し多摩川河川敷に桜の木を植樹する運動を主導したのは兄・光次の師にしてワシントン・ポトマック河畔に桜の樹を贈呈・植樹したことで知られる尾崎行雄の影響であると思われ、また一三の曾孫にあたる唐澤貴洋が好きな作家の一人として挙げているノンフィクション作家・猪瀬直樹はこの経緯を『土地の神話』という本の題材としており、自身の一族の事を書いているからということで読んだのではないかとする考察がなされている[8]。
朝鮮での土地開発事業が失敗に終わった後も、朝鮮半島の農業改良・拓殖事業を目的に田園都市株式会社と同じく渋沢栄一ら実業家の提唱によって設立された「朝鮮興業会社」との関わりからか、アジア主義への熱意は失っていなかったようであり、アメリカ視察において現地の近代的な大規模機械化農業、とりわけ愛知県出身のアメリカ・カリフォルニア移民で現地で株式会社形式による日系移民合同稲作会社を設立し、日本の早稲種種籾を輸入栽培[注釈 3]して今日「カリフォルニア米」として知られる品種を開発・定着させたひとり[9]であり、カリフォルニア米の大規模機械化商業的稲作農業で大成功を収めた生田見壽[10]に影響・感化されたことから朝鮮から満州、北支(華北)にかけての地域にアメリカ式の大規模機械化農業を導入し、現地の農業産業を近代化しつつ大規模農業地帯を開墾・開発する構想を抱いていたほか、旅客鉄道船舶・ホテル宿泊・団体パッケージツアー企画を統括した国内観光旅行代理店事業を展開させる構想を抱いて再び畑弥右衛門と共に「日本観光株式会社」を起業した。
戦後、民主主義の復活と世界平和の確立のために尽力していた尾崎行雄が第26回衆議院議員総選挙(所謂「バカヤロー解散総選挙」)での落選を機に政界を引退すると、「尾崎咢堂うまれ地記念事業委員会」の一員として尾崎行雄生誕地(神奈川県相模原市緑区又野)に彼の顕彰記念館(尾崎咢堂記念館)を設立する運動に関わったと見られ、尾崎の死後にはこの運動に参加していたと見られる西武グループ総帥・堤康次郎への尾崎行雄軽井沢別荘・莫哀山荘売却の仲介を行っていたのが確認されている。
資料・ギャラリー
尾崎行雄養女である妻・河野多滿
尾崎哭堂生まれ地由来記 尾崎咢堂生まれ地由来と記念館建設の経過
週刊新潮, 第46~49 号 週刊新潮掲示板 私の伯父河野光次は、二十年ほど前に没しておりますが、大正の終り頃、尾崎行雄先生の秘書をしておりました。 記憶によりますと、先生のお供でヨーロッパやアメリカを回っていたその頃です。 私を含め、家族の者も伯父に関しての資料を集めておりますので、参考になるものがあると思います。(平塚市河野三郎)
近代名士家系大観 尾崎行雄 養子・たま 明治22、東京、浅見萬吉三女 広島、河野唯助二男、光次に嫁す
「東急グループ#資料」も参照。
尾崎行雄の「莫哀山荘」 尾崎行雄(咢堂)は民主主義確立のために奔走し、軍国主義が一世を支配したときも、平和を唱え、「憲政の父」と言われた人物。 明治2年、日本初の総選挙で衆議院議員になり、明治31年の大隈内閣では39歳の若さで文部大臣を務めている。 夫人のテオドラは日英の混血で、明治20年に来日。明治23年、英国公使夫妻と共に軽井沢へ訪れた。 尾崎夫妻はA.C.ショーとも親交があり、大正3年、英国公使別荘近くに別荘を建て「莫哀山荘」と名づけた。 莫哀とは「哀しみのない」という意味。 軽井沢では、いつも馬に乗って楽しむ家族の姿が見られたという。
軽井沢と皇室 20年8月20日 貞明皇太后疎開のため大宮御所(二手橋上近藤別荘)に行啓(12月5日御還啓)
片山広子 エッセイ集 二 皇太后様がこの夏終戦ちょっと前から、峠道の近藤邸に御滞在になっていらした。 戦争中は知事さんなぞがお見舞いに出るだけで、まことに静かにしていらしたが、秋になってからは宮内大臣とか東京の貴婦人なぞが御機嫌伺いに見えて、...
369 :無名弁護士:2017/08/29(火) 05:24:58.42 ID:iZBE5A0O0 遅くなりましたを まず当職は土地台帳を見るのは初めてなので、わかりづらかったら申し訳ありません。 閉鎖されていたり閲覧しかできなかったもの、 区画整理のため閲覧できなかったものもありますのでソースは茶髪ということで許してください。 http://imgur.com/HGDeaOO.jpg ①河野光次の旧居 東京府荏原郡馬込村一、三四一番地 まず河野光次の旧居ですが、大正4年時点では臼田粂五郎なる人の所有であり、その前は畑だったようです。 大正7年2月に北村金蔵なる人がそこの土地を買い家を建てたようです。 その後昭和5年8月北村庄太郎(息子と思われる)に相続され、昭和39年からは別の人の所有になっておりました。 ブルーマップも見せていただきましたが、今は誰も住んでいないようでした。 隙自になりますがその近くのページに平岡公威(三島由紀夫の本名)もあり、大変興味深かったです。 ②河野一三の旧居 東京府荏原郡田園調布一ノ一 こちらはどこを指すのかわかりませんでした。一応田園調布1の地名が載っている土地台帳を見せていただきましたが、ファミリーの苗字は無し。 ただ宝蔵院の所有というのが何ページかにわたってありましたので沼部近辺なことは(間)明白。もっと地名を調べてくればよかったと後悔しています。 370 :無名弁護士:2017/08/29(火) 05:26:13.80 ID:iZBE5A0O0 ③河野一三の旧居 東京府荏原郡入新井新井宿一〇一九 二八八 ここは閉鎖されていてもう見ることはできないとのことでした。 今の大森北1丁目でアーケードの中のモスバーガーがあるあたりなんですよね… ④田園調布サティアン 東京都大田区田園調布本町36-13 imgurを見ていただきたいのですが、違う個所を取り寄せてしまったような…本当に申し訳ない。もっと詳細な情報を得てからの方がよかったでふね。 ⑤1Aが英代に譲った 東京都大田区南千束1-76-6 ここが一番パズルのピースが埋まる感じで楽しかったです(小並感) スチルチヨコなる人は何者ですかね…妹か何かでしょうか 印刷したものはないのですが、南千束の土地は木造スレート葺2階建てで床面積は1階65.10㎡ 2階43.58㎡ 昭和58年9月28日新築で昭和58年11月4日登記 抵当権設定は昭和58年12月2日受付 565万円 住宅金融公庫から貸し付けていますが 昭和60年3月20日弁済済みです。 藤田波子がこの土地を買ったのは58歳くらいだと思いますが、 それまではどこにいたんですかね…海外という可能性もありそうです。
著書
- 『北米行脚便り』自費出版 1920年
- 『春秋四十年』自費出版 - 猪瀬直樹著『土地の神話』の参照著作
関連項目
注釈
外部リンク
出典
- ↑ 『尾崎行雄 ー常に政界の革正に先んじ雄弁を以て鳴るー』
- ↑ 『葛原冷蔵の負債整理促進 東洋冷蔵と改称』中外商業新報 1926.3.29 (大正15)
- ↑ http://aska-r.aasa.ac.jp/dspace/bitstream/10638/5693/1/0034-011-201503-073-104.pdf
- ↑ 堤康次郎受信書簡
- ↑ 堤康次郎受信書簡
- ↑ 「東京横浜電鉄沿革史」(1943年)
- ↑ 0263 河野光次 こうのこうじ 日本【53巻 p.395】田園都市株式会社関係
- ↑ なぜ猪瀬直樹なのか? - 唐澤貴洋文学館
- ↑ カリフォルニア商業的稲作の 日本人パイオニアをめぐって
- ↑ カリフォルニア州コルサ郡における 移民日本人稲作の展開過程、1910年代後半のカリフォルニアにおける日本人稲作経営の発展過程