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* 1919年9月 - アメリカへ渡航。ニューヨーク、ワシントンなどを視察する。 | * 1919年9月 - アメリカへ渡航。ニューヨーク、ワシントンなどを視察する。 | ||
* 1926年3月 - 友人{{wpl|葛原猪平}}の{{wpl|葛原冷蔵}}が倒産し、東洋冷蔵と改称した際に臨時株主総会の詮衡委員として名前を連ねる<ref>[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10031772&TYPE=HTML_FILE&POS=1 『葛原冷蔵の負債整理促進 東洋冷蔵と改称』中外商業新報 1926.3.29 (大正15)]</ref>。 | * 1926年3月 - 友人{{wpl|葛原猪平}}の{{wpl|葛原冷蔵}}が倒産し、東洋冷蔵と改称した際に臨時株主総会の詮衡委員として名前を連ねる<ref>[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10031772&TYPE=HTML_FILE&POS=1 『葛原冷蔵の負債整理促進 東洋冷蔵と改称』中外商業新報 1926.3.29 (大正15)]</ref>。 | ||
* 1930年5月 - {{wpl|阪谷芳郎}}宛に畑弥右衛門と合同で「日本観光株式会社設立趣 意書及目論見書」の書簡を送る<ref>http://aska-r.aasa.ac.jp/dspace/bitstream/10638/5693/1/0034-011-201503-073-104.pdf </ref>。 | |||
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広島県沼田郡(後に安佐郡)緑井村(現・広島市安佐南区緑井)に河野唯助の次男(兄・[[河野唯一|唯一]]?、弟・[[河野一三|一三]]?)として生まれる。<br> | 広島県沼田郡(後に安佐郡)緑井村(現・広島市安佐南区緑井)に河野唯助の次男(兄・[[河野唯一|唯一]]?、弟・[[河野一三|一三]]?)として生まれる。<br> | ||
近衛篤麿らの「アジア主義<ref group="注釈">「汎アジア主義」とも呼ばれた日本と他のアジア諸邦の関係や、アジアの在り方についての思想ないし運動の総称であり、頭山満・玄洋社によるアジア各地との平和協調・現地独立運動支援路線から後の「大東亜共栄圏」に発展した日本の優位を前提にアジアの革命勢力を支援して日本を盟主としたアジアの新秩序構築(アジア・モンロー主義あるいは大アジア主義)までの路線が存在した</ref>」に感銘しアジア各地を日本の勢力下に置きつつ現地の産業を開発・発展(殖産興業)させることで欧米列強の干渉を防ごうと決意したことからか上京(緑井村の河野家三兄弟のうち最初に上京した人物と思われる)し早稲田大学に入学、尾崎行雄の書生となる。<br> | 近衛篤麿らの「アジア主義<ref group="注釈">「汎アジア主義」とも呼ばれた日本と他のアジア諸邦の関係や、アジアの在り方についての思想ないし運動の総称であり、頭山満・玄洋社によるアジア各地との平和協調・現地独立運動支援路線から後の「大東亜共栄圏」に発展した日本の優位を前提にアジアの革命勢力を支援して日本を盟主としたアジアの新秩序構築(アジア・モンロー主義あるいは大アジア主義)までの路線が存在した</ref>」に感銘しアジア各地を日本の勢力下に置きつつ現地の産業を開発・発展(殖産興業)させることで欧米列強の干渉を防ごうと決意したことからか上京(緑井村の河野家三兄弟のうち最初に上京した人物と思われる)し早稲田大学に入学、尾崎行雄の書生となる。<br> | ||
その後、アジア主義の理想を実現するための第一段階として同じく尾崎の秘書である光次の同僚にして生涯を通じての同志であった畑弥右衛門と共に朝鮮・京城龍山地区(現・ソウル特別市龍山区)に渡り土地開発事業を始めるも失敗。このとき唐澤貴洋の曾祖父にあたる光次の弟・一三が平田百貨店京城店に就職したのも兄・光次に呼び寄せられたためであると思われ、一三は当時朝鮮龍山水産取締役であった[[村井啓助]]の妹・房を娶り、[[河野一英|一英]]が誕生した。<br> | |||
畑弥右衛門は小林一三(阪急東宝グループ創業者)<ref group="注釈">後に田園都市株式会社の経営を依頼されている</ref> | 畑弥右衛門は小林一三(阪急東宝グループ創業者)<ref group="注釈">後に田園都市株式会社の経営を依頼されている</ref>の都市郊外田園都市構想実現に感化・影響されたことから1915年3月、荏原郡地主有志らと共に渋沢栄一へ郊外鉄道及び同鉄道路線沿線郊外住宅地の分譲開発事業による荏原郡(現・世田谷区、目黒区、大田区)荏原郡開発を提案・依頼し、後の[[東急グループ]]の母体企業となった「田園都市株式会社」起業のきっかけを作った人物であり、弟・一三の妻である房の兄・[[村井啓助]]の属していた三協商会の店主・萩原六三郎は荏原郡の大地主であったことからこの件に関わったと見られ、光次も弟・一三と共に[[東急グループ#年表|田園都市株式会社(東急グループ)に関った]]<ref>「[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1124913 東京横浜電鉄沿革史]」(1943年)</ref>。[[血となり肉となっている。|唐澤貴洋が好きな作家の一人として挙げている]]ノンフィクション作家、猪瀬直樹はこの経緯を『土地の神話』という本の題材としており、自身の一族の事を書いているからということで読んだのではないかとする考察がなされている<ref>[http://karasawalit.tumblr.com/post/54348047261 なぜ猪瀬直樹なのか?] - 唐澤貴洋文学館</ref>。 | ||
朝鮮での土地開発事業が失敗に終わった後も、田園都市株式会社と同じく朝鮮半島の農業改良・拓殖事業を目的に渋沢栄一ら実業家の提唱によって設立された「朝鮮興業会社」との関わりからか、アジア主義への熱意は失っていなかったようであり、アメリカ視察において現地の近代的な大規模機械化農業、とりわけ愛知県出身のアメリカ・カリフォルニア移民で現地で株式会社形式による日系移民合同稲作会社を設立し、日本の早稲種種籾を輸入栽培<ref group="注釈">従来のサクラメント下流地帯の稲は丈や葉のみが伸びて米が実り難かった</ref>して今日「カリフォルニア米」として知られる品種を開発・定着させたひとり<ref>[http://nodaiweb.university.jp/noukei/pdf/NSO99_18.pdf カリフォルニア商業的稲作の 日本人パイオニアをめぐって]</ref>であり、カリフォルニア米の大規模機械化商業的稲作農業で大成功を収めた[http://www.nodai.ac.jp/journal/research/tateiwa/0606.html 生田見壽]<ref>[http://nodaiweb.university.jp/noukei/pdf/NSO113_02.pdf カリフォルニア州コルサ郡における 移民日本人稲作の展開過程]、[https://www.jstage.jst.go.jp/article/nokei/79/4/79_190/_pdf 1910年代後半のカリフォルニアにおける日本人稲作経営の発展過程]</ref>に影響・感化されたことから朝鮮から満州、北支(華北)にかけての地域にアメリカ式の大規模機械化農業を導入し、現地の農業産業を近代化しつつ大規模農業地帯を開墾・開発する構想を抱いていた。 | |||
==資料・ギャラリー== | ==資料・ギャラリー== |
2017年12月4日 (月) 09:32時点における版
河野光次 | |
基本資料 | |
本名 | 河野光次 |
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住所 | 東京府荏原郡馬込村1341(wp) |
出生地 | 広島県沼田郡緑井村(wp) |
墓所 | 不明 |
身体情報 | 故人 |
才能 | 有能 |
特定経緯 | 『週刊新潮掲示板』、人事興信録により発覚 |
騒動との関連 | 尊師の曾祖伯父 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
関係者 | |
河野 光次(こうの みつじ、Kono Mitsuji、1882年-1973年頃)とは、唐澤貴洋の曽祖伯父で河野一英の伯父である。「憲政の神様」、東京市長として知られる尾崎行雄の義理の娘婿である。
経歴
- 1882年 - 広島県沼田郡緑井村にて河野唯助の次男として生まれる[1]。
- 1902年頃 - 早稲田大学入学。尾崎行雄の秘書になる。
- 1903年8月 - 畑弥右衛門と共に朝鮮へ渡航。土地開発に携わる。
- 1909年 - 日本へ帰国。
- 1910年 - 尾崎の養女多満と結婚。
- 1918年頃 - 田園都市株式会社に関与。
- 1919年9月 - アメリカへ渡航。ニューヨーク、ワシントンなどを視察する。
- 1926年3月 - 友人葛原猪平の葛原冷蔵が倒産し、東洋冷蔵と改称した際に臨時株主総会の詮衡委員として名前を連ねる[2]。
- 1930年5月 - 阪谷芳郎宛に畑弥右衛門と合同で「日本観光株式会社設立趣 意書及目論見書」の書簡を送る[3]。
考察、唐澤貴洋への影響
広島県沼田郡(後に安佐郡)緑井村(現・広島市安佐南区緑井)に河野唯助の次男(兄・唯一?、弟・一三?)として生まれる。
近衛篤麿らの「アジア主義[注釈 1]」に感銘しアジア各地を日本の勢力下に置きつつ現地の産業を開発・発展(殖産興業)させることで欧米列強の干渉を防ごうと決意したことからか上京(緑井村の河野家三兄弟のうち最初に上京した人物と思われる)し早稲田大学に入学、尾崎行雄の書生となる。
その後、アジア主義の理想を実現するための第一段階として同じく尾崎の秘書である光次の同僚にして生涯を通じての同志であった畑弥右衛門と共に朝鮮・京城龍山地区(現・ソウル特別市龍山区)に渡り土地開発事業を始めるも失敗。このとき唐澤貴洋の曾祖父にあたる光次の弟・一三が平田百貨店京城店に就職したのも兄・光次に呼び寄せられたためであると思われ、一三は当時朝鮮龍山水産取締役であった村井啓助の妹・房を娶り、一英が誕生した。
畑弥右衛門は小林一三(阪急東宝グループ創業者)[注釈 2]の都市郊外田園都市構想実現に感化・影響されたことから1915年3月、荏原郡地主有志らと共に渋沢栄一へ郊外鉄道及び同鉄道路線沿線郊外住宅地の分譲開発事業による荏原郡(現・世田谷区、目黒区、大田区)荏原郡開発を提案・依頼し、後の東急グループの母体企業となった「田園都市株式会社」起業のきっかけを作った人物であり、弟・一三の妻である房の兄・村井啓助の属していた三協商会の店主・萩原六三郎は荏原郡の大地主であったことからこの件に関わったと見られ、光次も弟・一三と共に田園都市株式会社(東急グループ)に関った[4]。唐澤貴洋が好きな作家の一人として挙げているノンフィクション作家、猪瀬直樹はこの経緯を『土地の神話』という本の題材としており、自身の一族の事を書いているからということで読んだのではないかとする考察がなされている[5]。
朝鮮での土地開発事業が失敗に終わった後も、田園都市株式会社と同じく朝鮮半島の農業改良・拓殖事業を目的に渋沢栄一ら実業家の提唱によって設立された「朝鮮興業会社」との関わりからか、アジア主義への熱意は失っていなかったようであり、アメリカ視察において現地の近代的な大規模機械化農業、とりわけ愛知県出身のアメリカ・カリフォルニア移民で現地で株式会社形式による日系移民合同稲作会社を設立し、日本の早稲種種籾を輸入栽培[注釈 3]して今日「カリフォルニア米」として知られる品種を開発・定着させたひとり[6]であり、カリフォルニア米の大規模機械化商業的稲作農業で大成功を収めた生田見壽[7]に影響・感化されたことから朝鮮から満州、北支(華北)にかけての地域にアメリカ式の大規模機械化農業を導入し、現地の農業産業を近代化しつつ大規模農業地帯を開墾・開発する構想を抱いていた。
資料・ギャラリー
尾崎行雄養女である妻・河野多滿
著書
- 『北米行脚便り』自費出版 1920年
- 『春秋四十年』自費出版 - 猪瀬直樹著『土地の神話』の参照著作
関連項目
注釈
外部リンク
出典
- ↑ 『尾崎行雄 ー常に政界の革正に先んじ雄弁を以て鳴るー』
- ↑ 『葛原冷蔵の負債整理促進 東洋冷蔵と改称』中外商業新報 1926.3.29 (大正15)
- ↑ http://aska-r.aasa.ac.jp/dspace/bitstream/10638/5693/1/0034-011-201503-073-104.pdf
- ↑ 「東京横浜電鉄沿革史」(1943年)
- ↑ なぜ猪瀬直樹なのか? - 唐澤貴洋文学館
- ↑ カリフォルニア商業的稲作の 日本人パイオニアをめぐって
- ↑ カリフォルニア州コルサ郡における 移民日本人稲作の展開過程、1910年代後半のカリフォルニアにおける日本人稲作経営の発展過程