「河野一三」の版間の差分
ナビゲーションに移動
検索に移動
>Ostrich (正規表現を使用した大量編集 <strong>→''') |
>Ostrich (正規表現を使用した大量編集 <strong>→''') |
||
29行目: | 29行目: | ||
</div>}} | </div>}} | ||
'''河野 一三 | '''河野 一三'''(こうの かずそう<ref>[http://kosenrufu.ldblog.jp/archives/1565479.html 広宣流布は俺がやる!桜樹燦爛]</ref>、Kono Kazuso、1886年?-1968年11月23日)は、[[唐澤貴洋]]の曽祖父で[[河野一英]]の父である。田園調布多摩川沿の地元活動での有力者として名を残す。 | ||
== 経歴 == | == 経歴 == |
2019年12月12日 (木) 18:30時点における版
河野一三 | |
基本資料 | |
本名 | 河野一三 |
---|---|
命日 | 1968年11月23日 |
住所 | 東京府下荏原郡東調布町字下沼部(現・東京都世田谷区田園調布) |
出生地 | 広島県沼田郡緑井村(wp) |
墓所 | 大田区田園調布本町35-8 東光院 |
才能 | 有能 |
特定経緯 | 河野一英の紳士録により発覚 |
騒動との関連 | 尊師の曾祖父 |
所属 | 創価学会、田園調布風致協会、大多摩川愛櫻会常任幹事 |
関係者 | |
河野 一三(こうの かずそう[1]、Kono Kazuso、1886年?-1968年11月23日)は、唐澤貴洋の曽祖父で河野一英の父である。田園調布多摩川沿の地元活動での有力者として名を残す。
経歴
- 1886年頃 - 広島県沼田郡緑井村(現・広島市安佐南区緑井)にて河野唯助の三男?として生まれる。
- 1912年 - 兄・光次の師である尾崎行雄が東京市長としてワシントン・ポトマック河畔に桜の樹を贈呈・植樹。一三が後に多摩川河川敷に桜の木を植樹する運動を主導したのはこの影響であったと思われる。
- 1915年 - 遅くともこの年までには兄・光次に呼び寄せられて朝鮮に渡る。朝鮮では京城(ソウル)五大百貨店のひとつであった平田百貨店(現・高麗大然閣センター)の前身である平田屋の関係者であったと言われる。
- 1918年 - 兄・光次の同僚であった畑弥右衛門と荏原郡地主有志の提案で渋沢栄一により田園都市株式会社(後の東急グループ)が設立される。妻である房の兄・村井啓助の属していた三協商会の店主・萩原六三郎は荏原郡の大地主であったことからこの件に関わったと思われる(東急グループ#資料)。
- 1920年 - 生後1ヶ月の河野一英を連れて帰国(の可能性あり)し、東京府下荏原郡東調布町字下沼部(現・田園調布)に移住[2]
- 1923年 - 田園都市株式会社の子会社、目黒蒲田電鉄が目黒~蒲田間に目蒲線(現・東急目黒線~多摩川線)を開通させたのに合わせて、荏原郡玉川調布(現・田園調布)の田園都市・大規模分譲開発が開始。このこともあって当時、目黒蒲田電鉄専務取締役であった五島慶太(後の東急グループ会長)と親しくなり、その縁で一三の四男・典男は東急電鉄へ入社し、同グループ系列企業である東急建設・世紀東急工業の重役・社長を歴任した。また一三の妻、房の兄・村井啓助の属していた三協商会店主、萩原六三郎は荏原郡の大地主であったとされる。
- 1933年 - 東京実業学校の移転に関与、典男によると一三の弟分が同校の校長を務めていたとされる。
- 1929年 - 当時の横浜・川崎市長らと共に「大多摩川愛櫻会」を創立。一三は同会の幹事として多摩川河川敷に桜の木を植樹する運動を主導した[3][4](五男に「櫻樹」と命名したことや墓碑に桜の紋章を入れたことから桜に思い入れがあったと思われる)。
- 1930年 - 彼の大多摩川愛櫻会が旧中原街道切通し坂「沼部の大坂」の両側に桜の木を植樹し「桜坂(さくら坂)」と命名・創設。この「さくら坂」は2000年、福山雅治の楽曲「桜坂」が200万枚以上を売り上げる大ヒットとなったことで一躍有名となり、また2008年放送のアニメ『CLANNAD』にも登場し同作品の聖地巡礼場所となった。唐澤貴洋が「好きなミュージシャン」として福山雅治を挙げていたのはこの為であると思われる。
- 1935年 - 彼が建設を計画した丸子橋が完成する。
- 晩年 - 長女・喜久の勧めにより創価学会に入信。田園調布における有力者として田園調布風致協会常務理事・方面委員を務める。
- 1968年11月23日 - 死去。享年82。東光院に「大多摩川愛櫻会さくら坂創設者 河野一三家」墓が建立されたと見られる。
「桜の多摩川」
大多摩川愛櫻会は、人々が設立したと言うよりも、時が生んだものと見るほうが適当かも知れない。 その議の初めて起ったのは、昭和四年の春である。当時内務省が大正七年以来着々進捗せしめつつあった多摩川下流治水工事は、将に竣成せんとし、河口より遡ること五厘あまりに及ぶ両岸の大堤防地域六百万坪は、徒らに雑草の繁るがままに放任してあったので、毎日これを眺める両岸の市町村民のみならず、国家的見地よりその利用方法について心を碎く人々が多かった。 天に声無くし人をして言わしむ。遂にその第一声は河野一三氏によって発せられた。 滅私奉公を地で行く河野氏――田園調布の高台の自邸の庭先から毎朝多摩川を俯瞰して考え込んでいたが、昭和四年二月の肌寒いひと朝。ブラリと当時町長の天明啓三郎氏を訪ねて 町長さん、あの大堤防を利用することにしようじゃありませんか。と例の熱のこもった一言に、町長が ただ放って置くのは全く勿体ない、皆が屋根替に困ってるから、茅でも植えさせて貰おうかと考えてるところなんだが…というと 茅の恩恵を受ける人は少数だ。長堤に植えるのは櫻ですな。百年後の櫻の名所をつくるんです。春は花、夏は鬱蒼たる緑樹帯です。京浜幾百万の健康道場になるじゃありませんか。 と河野氏一流の大乗論を始めたので、町長も「よいところに気がついてくれた」と早速大賛成。 議は次第に熟して、同三月七日には多摩川畔丸子園に雑談会が開かれた。発起人は河野氏、天明氏の他に当時の中原町長安藤安氏等、集まるもの東京府の砧村、玉川村、東調布町、矢口町、六郷町、羽田町並に神奈川県下の川崎市、中原町、高津町等、両岸の一市八ヶ町村の代表者で、協議の結果、両岸の長堤に櫻樹移植の請願運動を起こすことに一決し、 超えて十日、川崎市長春藤嘉平氏連盟市町村長一行は、内務省に望月圭介大臣を訪問して第一回の陳情をなし、河川関係当局にも諒解を求めたのであったが、春藤市長はかつて山形県知事に転任に先立ち、山梨県内務部長として甲府城跡に櫻樹移植を唱道して、今日の櫻の名所を作り上げた経歴を有するだけあって、櫻花と武士道を説き、櫻の多摩川と京浜幾百万の(中略) 身に寸暇さえあらせぬ有吉会長、愛櫻会のことと何を措いても河野幹事を引見される、病床の枕邊にさえ呼ばれて厭われない。「河野君の熱心に動かされるのだ」と会長は仰っしゃる。 何れの熱誠が何れを動かすかは兎も角して、霜山顧問の溌刺たる計画の才、と共に三者は本会の至賓と言うべきであろう。(中略) 有吉会長の徳、霜山顧問の智、そして河野幹事の熱、この智、徳、熱の三社が愛櫻会を永続せしめ発展せしめる要素であろう。ある人は河野氏をして、佐倉宗吾と指称した。まことに氏は櫻宗吾とも言うべく、多摩川開発を生命として寝食を忘れてた闘う義人である! 多摩川へ櫻植初めの東郷元帥引出し、濱口首相の祝辞請賜、独伊防共盟邦への櫻の寄贈、伊国訪日親善使節の多摩川招致等々、多くは霜山氏の智に出て、河野氏の熱と押しで賓行んい現れたと言うものが多いであろう。 而して三氏に共通するものは正義観念の強烈なことである。義のために劣化の中に躍り入る意気があると共に、その反面不義を嫌うこと蛇蝎の如く、正と不正に処する限界が明らかに区別される。(中略) 我が愛櫻会長有吉忠一氏並に幹事河野一三氏は、三月二十三日夜、訪日使節団長から公式晩餐会に招待されて出席した。(有吉会長のご招待は横浜商工会議所会頭の資格が主であったかも知れない) 当夜は、梨本宮殿下も御台臨あらせられ、近衛首相他各大臣、枢密院議長、その他と共に席に列するを得たのは櫻外交があった故に我が会に敬意を表されたものと思うが、すこぶる光栄の至りであった。
資料
一三の四男、典男による建設人より 父が、当時の横浜市長と多摩川の両岸10里に桜を植えさせたり、丸子橋の架橋を計画し、 東急電鉄に土地を寄付させて東京側から着工するなどの地元活動をした土地の有力者だったので、小学校を終えると、 その父の弟分が校長をしていた東京実業学校に進む。本科を卒業するに当たって、 父が当時の東急会長五島慶太氏(故人)と親しかったので東急電鉄を受けて合格、28年7月入社した。
広宣流布は俺がやる!桜樹燦爛より 私のふるさと太田の多摩川のほとりにも、有名な桜並木がある。 流れに沿い、堤に沿って、にぎやかに万朶(ばんだ)の春を展(ひろ)げる、平和の園となっている。そこにも、ひとつのドラマがあった。 その昔、多摩川は決壊を繰り返す「暴れ川」であった。 大正七年から、政府は多摩川の下流の治水工事を推進した。 昭和四年春、十余年におよぶ工事が竣工しつつあったが、河口から二〇キロにおよぶ地域は、雑草が茂るままであった。 今の太田文化会館のあたりの両岸がそうである。 さて、この土地をどうするか――町長は「屋根替」のために「茅」でも植えようかという。 すると、ある人いわく「茅の恩恵を受ける人は少数だ。長堤に植えるのは桜です。百年後の桜の名所をつくるんです」。 春は花、夏は緑。「京浜地域の幾百万の健康道場」にすべきだというのである。 彼、河野一三(かずそう)氏の無私の情熱が、多くの人を動かして、障害を乗り越え、雑草の堤は、桜の公園に生まれ変わった。 そして戦火にも負けず、生き抜いて、今、二十一世紀を迎えんとしている。「百年後の桜の名所を」との尊き思いの通りに。 河野さんは、学会の文芸部員として活躍された娘さんの勧めで、晩年に学会員となられた。
恒心スポーツより 「桜の多摩川」より、河野一三氏の記述抜粋 簡約:多摩川治水工事は成功と相成ったが、その周辺地域の運用法が見つからず、 多くの住民の頭を悩ますところであった。そこで河野一三氏は、両岸の更地に桜を植えることを提案し、 そのことが愛櫻會(あいおうかい)発足のきっかけとなった。(簡約ここまで)
戦前期における日本百貨店の植民地進出 : 京城 >平田百貨店創業者、平田智惠人
http://db.history.go.kr/item/level.do;jsessionid=7F2E856784B4ADDEA334F053A41CB096?levelId=im_215_23741 >平田智惠人 1863~ >籍:東京市牛込區市ケ谷山伏町、東京市牛込區南榎木町 出生地:廣島縣
http://gb.nl.go.kr/day_result.aspx?ho_id=GB_19380412_CA3369&date=1938-04 >株式會社平田百貨店 平田一平,平田米夫,平田輝男,藤田良作
墓所開示
詳細は「東光院」を参照。
2016年6月11日、サイモントン療法協会被害者の会掲示板にて墓所が開示された。墓所は田園調布サティアンからもほど近い真言宗智山派寺院の東光院という寺院内にあり、実際に赴いた教徒によれば入口から通路のかなり奥の方へ進み、右の突き当りにあったという。すぐ横に設けられた墓誌により、河野一英や唐澤厚史も共に埋葬されている事が分かった。
註釈
関連項目
外部リンク