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3章
>鬱民
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>化学に強い弁護士
(3章)
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仕方がなかったことだと思ってほしいのです。<br>
仕方がなかったことだと思ってほしいのです。<br>
[[世の中ナメ郎|私のような身勝手な人間]]を、責めもせず諦めもせず育ててくれただけでも、両親には感謝してもしきれない。本当にありがたいことです。
[[世の中ナメ郎|私のような身勝手な人間]]を、責めもせず諦めもせず育ててくれただけでも、両親には感謝してもしきれない。本当にありがたいことです。
== 第3章 落ちこぼれが弁護士になるまでの茨の道 ==
=== [[上級国民|恵まれた家庭]]に生まれ育って ===
私は1978年、東京の閑静な住宅街で生まれ育ちました。<br>
[[河野一英|祖父]]と[[唐澤洋|父]]は公認会計士。比較的、裕福で恵まれた家庭だったと思います。<br>
真っ当な倫理観を教えてくれる[[キリスト教]]系の私立小学校で幼少期を過ごしますが、私自身はひねくれた子どもでした。<br>
祖父と父は公認会計士ですし、親戚も学者が多く、私の周りの大人といえば、いわゆる社会では成功している人ばかりでした。<br>
そうすると、自分も大人びてしまうというか、純粋に無邪気になれませんでした。<br>
世の中を斜に構えて見てしまう。何かに熱中するわけでもなく、かわいげのない嫌味な子どもだったと思います。
ただ、そうした家庭の親にありがちな「いい中学、高校、大学に行って、成功した人生を歩め」といったわかりやすいプレッシャーはありませんでした。<br>
勉強に関して怒られたことも、「テストで何点以上とれ」などという強制も、まったくなかったのですが、「従兄弟はどこの学校に受かった」「テストで学年〇位をとったらしい」という話はよくされました。<br>
親戚の話で、知らずしらずのうちに競争心を煽られていたのかもしれません。
私は中学受験をして、ある私立大学の付属校に入りました。そこに入学すれば、そのままエスカレーター式で、ほぼ確実に系列の大学に入れます。<br>
それもあってか、中学時代は特段悩みもなく、ごく普通に過ごしていましたが、[[唐澤貴洋の卒アル開示事件|卒業文集には「中学3年間で、何も学ぶべきことはなかった」と書き残しました。]]<br>
自分が成長できていないという思いがあり、このままではいけないと焦りを持っていました。
世の中の動きに興味関心はあったのですが、何を学びたいかがわからず、学校では知りたいことが提示されませんでした。<br>
だから、中学生になった私は『中央公論』『論座』『世界』などの月刊誌を買って、読み漁っていました。<br>
付属校ですからそのまま高校に上がりますが、「このままではダメな人間になってしまう」と危機感を強く抱いていたのです。
=== ツマラナイ大人になりたくないと、高校1年で中退を決意した ===
高校生くらいだと、「万引きしてやったぜ」などとくだらないことを自慢する悪ぶった奴が必ずいます。<br>
私はそんな連中がいる中で、これからの高校生活を過ごしていくことに、漠然とした不安を感じました。<br>
彼らと一緒にいて、自分の人生はどうなるのか。<br>
このままエスカレーター式で大学に行ったところで、つまらないことに虚勢を張るような人間に囲まれて、どんな大人になれるというのか。<br>
何だか先がわかりきってしまった気がして、急につまらないと感じてしまったのです。
そして、「自分はこれまで何かを決めたことがあったかな」と、それまでの人生を振り返ってみました。<br>
すると、私は自分の意思で何も決めたことがなかったことに愕然としました。
結局、小学校も中学校も、親から「公立より私立のほうがいいんじゃないか」と、言われるままに受験しただけ。<br>
私学に入る同級生や親戚も多かったので、何の疑問も抱かずに受験して進学しました。
親に敷かれたレールに乗っているだけの自分に気がついてしまった私は、「これでいいのか?」と自問自答するようになりました。<br>
それが高校1年生のときでした。それからずっと自問自答を繰り返し、すべてが嫌になり、一度すべてをリセットしようと、高校を辞めることにしました。<br>
まず母に「俺、高校辞めるわ」と打ち明けました。<br>
すると、「それは正しい選択ではない。高校は卒業するまで行きなさい」と、当然のごとく止められました。<br>
しかし、父からは、特に高校を辞めることについて説教された記憶がありません。
何度か話し合いを重ねましたが、高校を辞めるという私の意思が固かったので、両親、特に母も「中退しないで、我慢して卒業だけはしてほしい」とまではうるさく言いませんでした。<br>
ただ、幼い頃から従兄弟と比べられていたので、高校をドロップアウトする私は、親族の恥さらし、[[頭唐澤貴洋|頭がおかしくなった者]]、と見なされるようになりました。<br>
親戚の集まりなどで面と向かって何かを言われたことはありませんが、腫れ物に触れるような扱いをされているのは感じました。<br>
当時の私は気がつきませんでしたが、もしかしたら、両親は私のことで親戚に責められていたのかもしれません。
高校1年生、15歳の秋に、私は正式に高校を中退しました。
=== ドロップアウトしたものの、何をしていいかわからない ===
思春期特有の「自分って何者なのだろう」という悩みが、私の場合はほかの人よりも強かっただけなのかもしれません。<br>
高校1年生になったときには、「自分が自分じゃないのが嫌だ!」と、社会や大人も含めたすべてに反発して敵対心を抱いていましたが、<br>
いざ高校を辞めてみると、特に自分に強烈な個性があったわけでもなく、曖昧で、いいかげんな自分しかいないわけです。
やりたいことも特にないうえに、どんな大人になりたいかもよくわかっていない。<br>
「ここではないどこか」に行きたくて、高校を辞めてしまっただけですから。<br>
だからといって、ものすごく不安だったわけでもありませんでした。<br>
要は、何も考えていなかったんです。ただ「人とは違う道を選んでしまったな」くらいしか辞めた当時は思っていませんでした。
親の言いなりではなく、自分でレールを敷いて生きていきたいと思った割には、すぐには明確な目的が見つかりませんでした。<br>
ただ、漠然と自分は世の中のこと、政治、経済、社会などのニュース的なことをまったく知らないという自覚はあったので、<br>
知識をきちんと身につけて、自分の頭で考えるようになりたいと思ってはいました。<br>
そこで、本や新聞を読んで気になった記事や面白いと興味を引いた記事を見つけて切り出して、ノートに貼って、スクラップブックをつくることを始めました。<br>
無意識に社会とつながっていたいと感じていたからかもしれません。
映画は昔から純粋に好きなので、この時期はたくさん観ていました。<br>
時間を持て余し部屋で何もしてないときは、ベッドに横たわり、天井の模様を見つめて、「自分はこれからどうなるんだろう……」とぼんやり考えていました。<br>
どこか不安な気持ちもあったのでしょう。
高校を辞めると、友だちはすべていなくなり、当然、膨大な時間ができました。<br>
たとえば、日中、家にいると、いつどのタイミングで外に出たらいいのかわからなくなります。<br>
子どもが昼日中、ウロウロしていたら怪しい。だから、どうしたら目立たずに行動できるかを考えるのですが、いよいよ社会から外れてしまった現実を目の前に突きつけられます。<br>
私がとった行動は、目深に帽子をかぶること。あまり人目につかないよう、常にこそこそと行動していました。
補導されることはありませんでしたが、一度未遂はありました。<br>
本来はいけないことだとわかっていますが、当時の私は競馬が好きで、年齢をごまかしてウインズ(場外勝馬投票券発売所)で馬券を買っていました。<br>
私は母の化粧品からアイラインを拝借して、鼻の下や顎にちょっと塗って、水で濡らして、髭っぼくして変装。その顔で帽子を目深にかぶれば、見た目をごまかせるとタカをくくっていたのです。<br>
しかし、あるとき窓口のおばちゃんに「あんた何歳? 干支は何?」と、突然聞かれたのです。<br>
合っていたかはわかりませんが、即座に堂々と「25歳です。申年です」と答えたところ、おばちゃんも「あー、そう」と言って、それ以上ツッ込んできませんでした。そのときは冷や汗ものでした。
高校を辞めて、自宅にいた期間は約2年。いつのタイミングだか忘れてしまいましたが、病院に連れて行かれたこともありました。<br>
そこは精神科でした。<br>
何か異常行動をしていたわけではありませんが、高校を辞めて、家でぶらぶらしている私を見かねて、<br>
母が「もしかしたらこの子は普通ではないのかもしれない。おかしくなったのかも」と思ったようです。<br>
精神科での検査結果は、正常。「あなたはここに来る患者じゃないですよ」と言われて、母が安心していたのを今でも覚えています。
高校を辞めてからの2年間は、ただ出口の見えないトンネルの中を歩いている心境でしたが、弁護士になった今では、<br>
インターネットの事件に関わって、加害者の方々と会う中で、もしかしたら、加害者も青年期にもがいていた自分と同じだったのではないかという思いに至っています。<br>
私と加害者は本当に紙一重だったのではないか、その違いはもしかしたら家庭環境にあったのではないか、と思うのです。
=== 何があっても見守ってくれた家族 ===
自分探し、やりたいこと探しをする一方で、文化的活動は積極的にしていました。<br>
幼い頃から読書が好きで、この頃はノンフィクションを中心に読んでいました。好きな作家は立花隆、猪瀬直樹、山際淳司などです。<br>
特に私がこの時期に読んで印象的だったのは、立花隆の『青春漂流』に書かれていたエピローグ「謎の空白時代」です。
平安時代の僧で、真言宗の開祖である空海は、18歳でせっかく入った大学をドロップアウトし、乞食同然の私度僧(自分で勝手に頭を丸めて坊主になること)になり、四国の山奥に入り、山岳修行者となりました。<br>
そこから31歳で遣唐使の船に乗り込むまで、空海がどこで何をしていたか明らかではなかったそうです。<br>
空海のように、人には誰しも「謎の空白時代」があり、それを現代では青春とも呼び、人生の「船出」に向けた、何ものかを「求めんとする意志」を培う時期であるのだという内容でした。<br>
もしかしたら、私も今、船出するための空白時代を過ごしているのかもしれないと、妙に勇気づけられました。<br>
今思えば、一人で過ごした2年間は、私の中では絶対に意味があった期間だったと思っています。
そんなモグラのような生活をしつつも、ただのひきこもりではなく、競馬場と映画館にはよく出かけたものでした。<br>
特に、自宅からアクセスが良かった渋谷には、よく行きました。<br>
今、渋谷ヒカリエがある場所に、昔は東急文化会館という映画館やプラネタリウムが入っている複合施設があって、その映画館はふだんそれほど人も来ないような廃れていた穴場だったのです。<br>
当時は、何度映画を観ても料金は同じだったので、同じ映画を一人で飽きずに繰り返し観ていました。<br>
当時流行っていたクエンティン・タランティーノの作品、『パルプ・フィクション』、『レザボア・ドッグス』は特に好きでした。<br>
脚本がダランティーノで、監督がトニー・スコットの『トゥルー・ロマンス』も印象に残っています。<br>
クリスチャン・スレーター主演のロードムービーでした。『エイリアン』『ブレードランナー』『テルマ&ルイーズ』など、リドリー・スコット作品も好きでした。<br>
怠惰な日々を送っていた私にとって、日常からかけ離れた緊張感みなぎる彼らの作品は、慰めと励ましを与えてくれるものでした。
息子が学校にも行かず、フラフラしている状況でも、私の両親は特にうるさく言ってくることはありませんでした。<br>
普通ならきっと、「何で学校を辞めたの」「これからどうするの」「何がしたいの?」「お父さん、お母さんがどれだけ心配しているのか、あなたわかっているの?」とガミガミ説教するなど、<br>
子どもに踏み込む親のほうが多いと思います。<br>
あまり細かいことは言わず、家からも放り出されず、見守ってくれました。両親には、感謝しかありません。<br>
我が家は特別に信仰している宗教はありませんが、「神様が見ているから、真っ当に生きなさい」とは言われていました。<br>
両親が冷静に見守ってくれていた環境があったので、たとえば自暴自棄になって、何か罪を犯すとか、<br>
親の過剰な言動や自分の置かれている立場にストレスを感じ、心がすさんで暴力を振るうなどという道に進まず、<br>
仮に何かはずみで道を逸れても、どこかで軌道修正できると心の底では思っていたのでしょう。
=== 定時制高校へ入学。社会とのつながりが再び持てた ===
高校を辞めた翌々年、将来どうするかもわからず、だからといって何かをするわけでもなく、相変わらず私はフラフラとしていました。<br>
「このままじゃ自分の人生がダメになる」と高校を辞めたくせに、身勝手なものでした。そのあたりが子どもの発想で、詰めが甘かったんです。
将来を悲観するほどの想像力もなく、とにかく日常が流れていく。<br>
そんな漫然とした日々を過ごしていたら、突然親が「やっぱりどうしても高校だけは出てほしい」と言い出し、入試の申し込みをしてきました。<br>
私にはひと言の相談もなく、です。しかも、言われたのは受験日の当日。<br>
気は進みませんでしたが、母が「もう申し込んであるから、どうしても試験を受けてきて」とめずらしく懇願するので、その熱意に負けて、しぶしぶ受験しました。
私も「このままではいけない」という気持ちがどこかにあったので、結果としてはまた社会と接点を持てるよう、母に背中を押してもらえたことになります。<br>
両親は私を放置してくれていましたが、実は母も私の将来が不安で心配で、いろいろと調べていたのだと思います。<br>
高校に行きたくないなら行かずに済む学校がないのか、高校卒業程度の資格を得るにはどんな学校があるのか、<br>
こっそりと誰かから聞いたり相談したりしていたのではないでしょうか。今思うと、親には心配をかけました。
両親が探してくれた学校は、当時、東京都が新しい試みとして始めていた単位制・定時制の高校でした。私はその学校に再入学したのです。<br>
それが、17歳のときでした。
この学校は、昼、夕方、夜間など、比較的自由に自分のとりたい授業を選択できたので、自分で無理なく行ける授業を選んで通っていました。<br>
ちょっとした大学のような感じでした。<br>
通学して感じたのは、とても特殊な学校だったということです。<br>
1クラス20人くらいで、一度ドロップアウトした人間がほとんど。年齢もバラバラ、リーゼント頭の者もいれば、定年退職して授業を受けに来る年配の方もいました。<br>
今まで私が通っていた学校とは明らかに違う人たちばかりでした。<br>
私が通っていた学校は、統一された制服を着て、同じような環境で育ってきた者の集まりでしたが、この学校は、見た目や態度からして、それぞれが違いました。
学校で友だちをつくる気にもなれず、高校には漫然と通っていただけでした。
唯一刺激を受けたのは、同じクラスのKさんという40代後半くらいのおじさんです。<br>
Kさんは真面目で、必ず教室の一番前に座って、授業を受けていました。<br>
Kさんの後ろ姿を見ているうちに、毎日変わらず一生懸命、愚直にすることは決して悪いことではないなと思えたのです。<br>
思春期だったその頃、私は必死で何かに取り組むことをカッコ悪いと思いこんでいました。<br>
Kさんは、何かの事情で中学までしか卒業できず、高校には行けなかったようですが、授業を受ける身なりはいつもきちんとしている人でした。<br>
Kさんに話しかけるまでの勇気はなかったので、Kさんがどんな人生を歩んで、<br>
この高校に来たのかは結局わからずじまいでしたが、人生はいつからでもスタートできるのだと実感することができました。
授業で印象に残っているのは、現代社会の授業でした。<br>
その授業を受け持っていた渡辺先生は社会人経験者。<br>
心理学界の二大巨頭、フロイトとユングの話や政治経済の話など、自分でつくってきたプリントを配って、延々と話す授業スタイルです。<br>
渡辺先生の授業だけは話に偏りはあるけれど、唯一、今後自分がものを考えるために役立つし、聞いていて面白いなと思いました。<br>
ほかはただ教科書を読むだけのつまらない授業ばかりだったので熱心に取り組みませんでしたが、<br>
渡辺先生の授業だけは知的好奇心を掻き立てられて、「これって、こんな意味ですか?」「これは矛盾していませんか?」などと、授業後に夜の教室で積極的に質問しに行ったりもしました。<br>
すると、渡辺先生に「目のつけどころがいいな」などと褒めてもらえるようになり、少しずつ自信も持てるようになっていったのです。
=== 人より3年遅れて大学に入学する ===
結局、3年間、定時制の高校に通いましたが、卒業後にいきなり社会に出る自信はありませんでした。<br>
担任の先生からは「大学に行ったら?」と勧められましたが、進学校でもないので、大学受験をする環境でもなければ、情報もありませんでした。<br>
そこで、定時制の高校3年生のときに、代々木駅前にある代々木ゼミナールに通って、大学の情報収集と受験勉強をすることにしました。
前章で説明したように、私は定時制の高校1年生のときに、弟を亡くしました。<br>
「いざ何かがあったときに戦えるだけの力をつけたい」ということは、より強く思うようになっていたので、とにかく現実できちんと役に立つ勉強ができる大学を探していました。<br>
いろいろ調べていくと、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)の環境情報学部なら、実益のあることが学べて面自そうだし、<br>
問題解決のための手法を教えてもらえそうだとわかりました。何よりこの学部は英語と小論文だけで受験ができました。<br>
受験への取組みにハンディのある私にとって受験科目が少ないので、手が届きそうな気がしたのです。
しかし、当然といえば当然ですが、現役では受かりませんでした。<br>
浪人生になった私は、高校卒業後、1年間予備校に通いながら、紀伊國屋書店で英語の単行本や『TIME』など英語の雑誌を買って読み漁り、英語の読解力をつけました。<br>
そして翌年、受験先を慶應SFC1校のみに絞り、一点突破で何とか合格することができました。<br>
合格発表の日は、私は見に行く勇気がなく、父親が代わりに行ってくれました。電話をしてきた父親が、「貴洋、受かっているぞ」と喜んでいたのを今でも覚えています。
1999年、21歳のときに、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)環境情報学部に入学しました。
しかし、私は一度高校を中退しているうえに定時制高校を卒業し、さらに1年間浪人をして、大学に入学した身です。<br>
ストレートに入学した18歳とは3年間の差があります。
何より環境情報学部の同級生たちは、基本的に挫折経験のない、意識高い系の幸せそうな人たちばかりでした。<br>
そのことが悪いのではなく、自分があまりに違う道を生きてきたうえに、性格がひねくれすぎていて、<br>
まっすぐ幸せに生きてきた彼ら・彼女らと仲良くできる自信がまったくありませんでした。
そんな中でも、大学で唯一できた友だちが、医学部受験を何度か失敗したSクンです。<br>
Sクンは、東京の進学校である開成中学・高校出身で、紆余曲折して慶應に入学してきたのです。<br>
私たちは年も近く、読書家のSクンとはいろいろな話ができました。<br>
2人とも哲学書などをこよなく愛する文学青年だったので、よく神保町の古書店街に繰り出し、喫茶店で語り合いました。<br>
Sクンとは、今現在も友人関係が続いており、さまざまな局面で助けてもらっています。
慶應SFCは、ほかの大学に先んじて、インターネット環境を整え、インターネットに関する授業や、情報処理に関する授業を行っていました。<br>
今、インターネット関連の紛争に携わっているのも、そこで学んだことが基礎にあります。<br>
政治学に興味を持ち始めていたことから、環境情報学部から総合政策学部に転部したのは、大学2年の頃でした。
大学2~3年のときには、日本の経済・外交政策や国際交渉における政策決定過程などを鋭く検証することで名を馳せた政治学者である草野厚先生のゼミに入りました。
以前から「サンデープロジェクト」(テレビ朝日系列)が好きでよく観ていたのですが、<br>
同番組でコメンテーターをされていた草野先生の授業を受けてみたら、非常に面白かったのです。<br>
それは政治システムという授業で、戦後の日本外交史を中心に学ぶものでした。<br>
草野ゼミはアメリカを中心とした国際関係論、政策過程論を学ぶゼミで、研究課題は非常に厳しく、グループワークで定期的に発表をしなければなりません。
たとえば、アメリカの中東政策についてレポートするときには、いろいろな文献を読んで、何人かで話し合い、分析を加えて、A4数十ページほどにまとめる、という流れになります。<br>
課題をクリアするのは大変でしたが、そのグループワークで鍛えられ、勉強の仕方やレポート作成のコツもわかってきました。<br>
アメリカと中東の政治状況は、2~3年生時の草野ゼミで学べたので、4年生のときには、違ったものを学びたくなり、ロシアのコーカサス地方を研究する先生のゼミに入りました。<br>
ナショナリズムの研究が主たるテーマのゼミでした。<br>
アーネスト・ゲルナーの『民族とナショナリズム』という難解な文献が輪読の文献として指定されており、<br>
当初は戸惑いがありましたが、違うアプローチから世界を捉えられて、非常に勉強になりました。
=== 自分が欲しいと思っていた力が法曹の世界にはある ===
小さい頃から、読書・映画好きである私は、高校を中退したこともあり、さらにその熱を帯びるようになりました。<br>
中でも、アメリカの弁護士かつ小説家であるジョン・グリシャム原作の映画がとても好きでした。<br>
リーガル・サスペンス、いわゆる法廷もので、『評決のとき』『ザ・ファーム 法律事務所』『ペリカン文書』『依頼人』などを観て、<br>
私は困難な状況であっても、法律を武器に巨悪に打ち勝つ弁護士に憧れを抱いていました。
そうした映画や小説に感化されたこともあり、もうすぐ大学を卒業する自分がずっと欲しいと思っていた力は、法律の知識なのかもしれないと思い始め、<br>
法曹(弁護士・検察官・裁判官)を目指すことにしたのです。<br>
私は、2003年に慶應SFCを卒業し、そのまま慶應大学法学部に学士入学することにしました。
2003年に学士入学で法学部に入った翌年の2004年に法科大学院(ロースクール)が創設されました。<br>
私は自分の年齢も考えて、法曹への近道になると思われるロースクールに入学するための勉強を開始し、2005年、27歳にして早稲田大学のロースクールに入学しました。
早稲田大学のロースクールの学生たちは、当然、母校の法学部で真面目に法律を勉強してきたエリートばかり。<br>
そもそも慶應から早稲田に来たという時点で変わっているのに、総合政策学部出身で法律の知識もまだ浅薄な私は、ロースクールでも完全に浮いた存在でした。<br>
実際に授業を受けても、非常に難しく、ついていくだけで精一杯でした。ただ、負けたくないという気持ちは人一倍強くありました。
ロースクールでは議論の面白さを学びました。<br>
ロジカルな考え方をきちんとしている教授は、教科書に載っていない方向からのアブローチでも論理的に答えてくれます。<br>
これは非常に勉強になったうえに、法律の世界が改めて面白い世界であることを実感できました。<br>
大変だけど、楽しい。<br>
ようやく自分の目標が定まり、将来の進むべき道が開けそうだ、と期待に胸を躍らせました。
ロースクールの標準修業年限は3年です。<br>
私の時代には、修了後5年以内に3回までしか新司法試験を受験できませんでした(現在は、修了後5年で5回)。<br>
私は司法試験に一発合格しましたが、ロースクールを卒業した最初の1年は、勇気が出なくて受験を見送りました。まだ受かる自信がなかったのです。<br>
しかも回数制限があるので、受かるなら1回日で受からないと、「あと2回」「あと1回」と受けられる回数が減るプレッシャーに耐えられそうになかったからです。
=== 誰もやっていないことをやろうと決意が固まったインターンシップ経験 ===
3年間のロースクール時代、夏休みにはインターンシップを経験しました。<br>
多くの学生は大手事務所や企業法務のインターンをやりたがるのですが、私はどうせやるなら今後の自分に役立つところがいい、<br>
誰かのためになることをやりたいと、ロースクール1年生のときには、神田の「クレジット・サラ金被害者連絡協議会(太陽の会)」で、インターンシップをしました。<br>
そこは、その名の通り、クレジットカードやサラ金(消費者金融)の多重債務で苦しんでいる人たちを助ける活動をしている団体でしたが、<br>
2005年当時は金利も高く、ヤミ金融業者が横行した時代で、太陽の会は、多重債務者の駆け込み寺のような場所で、いろいろなところから借金を重ねてしまった人に対して、<br>
正しい債務と金利だけを支払うように交渉するだけでなく、借金を借金で返そうとしてしまう人の生活を再建してあげることもしていました。
私は多重債務者の代わりにヤミ金融業者と電話で話をするというのがインターンシップの内容でした。<br>
さまざまな方がその事務所の仕事を手伝っていたのですが、その中には元多重債務者で今は立ち直ったおじさんもいました。<br>
あるとき、そのおじさんに夕飯を一緒に食べに行こうと誘われて、その食事の席で、「君はもうちょっと肩の力を抜いたほうがいいよ」と言われたのです。<br>
おじさんからすると、当時の私は非常に堅苦しく杓子定規な人間に映っていたんだと思います。<br>
修羅場を何度もくぐり抜けてきたおじさんから、<br>
「君が弁護士を目指しているなら、スキをつくったほうがいい。弁護士だって客商売だろう。釣りの話をしたら、すごい笑顔になるとか、そのほうが人間味あるから好かれるぞ」<br>
と力説されると、妙に説得力がありました。
私は、多重債務者を助ける仕事に非常にやりがいを感じ、熱心に取り組みもしましたが、周りのスタッフたちとのコミュニケーションがきちんとできていなかったんだと思います。<br>
ただヤミ金からの電話を受けて、ものすごい勢いで怒鳴りながら言い合いをするようなことを、嬉々としてやっていました。<br>
今思えば、若気の至りといえますが、「私が助けるんだ」という、ちょっと上から目線の正義感を振りかざしていたにすぎなかったのでしょう。<br>
そうした様子をおじさんは見ていて、気になったのでしょう。<br>
人に認めてもらって、付き合いをしていかないと、弁護士としては仕事の依頼をしてもらえないのだと教えられた気がしました。<br>
インターンシップの最中に、当時、多重債務問題、消費者金融問題の第一人者であった[[宇都宮健児]]先生にお会いする機会がありました。<br>
先生は、偉ぶるところが一切なく、分け隔てなく、人と接していられるのを見て、これがあるべき弁護士の姿だと感銘を受けました。
ロースクール2年生のときには、ミャンマーの難民問題に関してリーガルクリニックで取り組ませていただきました。<br>
リーガルクリニックは、ロースクールに併設された法律事務所で、実際の法律問題に、ロースクールの学生が実務家のサポートのもと、取り組むという制度でした。<br>
私は大学での卒論で日本政府の難民問題に対する政策について取り扱いました。<br>
それもあって、国際的な人道支援や国連の活動に興味がある人は多いにもかかわらず、日本の中で立場が弱い人が実際には多い現状をずっと危惧していたのです。
難民に対する日本政府の扱いや、政策的にはどうなっているのかを調べてまとめたこともありますが、<br>
結局、日本の難民問題に対する政策がひどいものばかりであることを見知っていたので、<br>
リーガルクリニックで、難民の方がどんな問題に直面しているのかを肌で感じて、実際に学んでみたいと思ったのです。<br>
このリーガルクリニックでは、難民問題について熱心に取り組んでいる弁護士の活動も真近で見ることができました。<br>
現在仕事をしていて、人権問題に真っ向から向き合っている弁護士はごく少数である現実は否定できませんが、<br>
そこで知ることができた弁護士の方々は、本当の弁護士であるとそのときも恩いましたし、今でも強く思っています。
私は、多重債務問題と難民問題という2つの実務経験を通して、自分が将来弁護士としてどのような仕事をしていきたいのか、少しずつ固まってきました。<br>
もともと、誰もやらないようなこと、誰も引き受けたがらないことをやっていこうと心には決めていたのです。<br>
大金を稼いで、いい暮らしをしたいから弁護士になりたいわけではない。<br>
人がやりたがらない事件や困り果てている依頼人の役に立てるような案件であるなら、絶対に引き受けるような弁護士でありたいと、すでにこの頃には思っていました。<br>
そうした思いを持つに至ったのは、やはり弟の死と無関係ではありません。
私が許せないのは、「悪と理不尽」です。<br>
私の中で許せるか許せないかの境界線は、単純に弱い者いじめをしているかどうか。<br>
弱者から金を奪ったり、正当な権利をないがしろにしたり、利用したり、だましたり、いろいろな格差を利用してやり込めるのは絶対に許せない。<br>
ですから、多重債務者から不法に金をむしり取ろうとし、時には人を自殺に追い込むヤミ金融業者は明らかに悪ですし、私はその悪と戦うことに、ある種の充実感がありました。<br>
正義感が強いだけでは弁護士は務まりません。あくまで目の前の悪とどう対峙するか、その戦略を持つことが大切です。
世の中にはきれいごとでは済まないような悪と理不尽がたくさんはびこっています。<br>
弟が自殺したときに何もできなかった私は、自分の無力さをずっと感じ続けていました。<br>
しかし、法律を自分の盾にすれば、もっとたくさんの悪に対峙できる。そう確信して、やっと将来の目標に向かって邁進し始めたのです。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

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