恒心文庫:M4
本文
曇り空が却って蒸し暑さを感じさせる夏のあの日のこと。
粗末な駅で電車を降り、目的の場所で彼の目に入ったのは、見るに耐えない光景だった。
「あの場所」の斜向かいの掘っ立て小屋のような粗末なハウス。
その玄関で老人が煙草を吸っている。
弱小自治体特有のガタついた道に粘度の高い唾が独特の光を放ち広がっていた。
喉を忙しく鳴らしながら絡んだ痰を口にのぼらせて、ひたすら道路に吐き捨てている老人に嫌悪の念を沸々と沸かせながらも彼は目的の達成を優先した。
その場所の玄関にはかわいらしいポットに綺麗な花が栽培されており、割に隅々まで清掃が行き届いている。その花に寄り添うように兎と何かの生物を掛け合わせたような生き物の置物がある。
彼にはそんな物はどうでもよかった。
「欲しいのはこれだ」と二度呟いた。
ふと、彼が振り返ると件の掘っ立て小屋の住人は道端に居らず、ドアの閉まるような音。
不穏な空気を感じた彼はマットをポスターを運ぶ時の要領で筒状にし、この時のために用意した図面ケースに叩き入れた。
「うーうーうー!」
二色のカラーリングの車が迫りくる間違いなかった。
彼は片手で獰猛な羆のようなポーズを取りその時に備えた。
二人組が車を降りて迫った。
「ここで何してんの?何かやっただろ?ホントの事言えよ!?」
二人組のうち一人は口が悪く、もう一人は無口だ。
仕方がないので彼は無口な方の顔を羆の爪で切り裂き、立て続けに口の悪い方の腹に向けて護身用に携行していたM4ライフルの引き金を絞った。
次々と地に衝突する薬莢が奏でる不規則にも規則的にも聴こえる鈴のような音色が心地よく、彼の表情を歓喜に満ちたものに変えてゆく。
ライフル用の高速弾で切り裂かれた腹からは腸が露出しており、鼻が曲がるような大便の臭いがした。これに満足した彼は車で家路についた。
道行く車は彼に道を開けてくれて、渋滞知らずだった。これはいい。
彼は生まれ変わった。
8月13日は彼の誕生日となった。
彼はいつもの床に腰を下ろした。
万年床になった布団からは湿り気からくる独特な匂いが放たれているが、彼の鼻はその匂いを認識できない。いつものことだから。
常備してある赤いきつねにケトルから湯を注ぎ三分待つのだが、熱湯を吸い伸びゆく乾麺が彼には腹から漏れ出した糞まみれの腸に見えて仕方がない。彼の歓喜の表情は変わらずであった。
成し遂げた男の目にはすべてが違って見えている。
PCを立ち上げると迷わず彼はエンタープライズ号の艦長みたいな通称で呼ばれる掲示板を開いた。
「ウィリアム・シャトナーはなんでもゲット」
トレッカーを若干コケにしたルーカスの犬どもが作ったあの映画の台詞を静かに、しかし力強く呟いた。彼はなんでも手に入れるヒーローなのだから。
化学薬品まみれになったジャック・ニコルソンみたいな笑みを浮かべた彼は、羆が鋭利な爪を立てるように固定された手をかざし、マットと記念撮影をした。
「待たせたなァ」
彼は自分が何になりたかったのか解らなくなっていた。
ヒーローなのか、アンチヒーローか。あるいはヴィランなのか。
「うーうーうー!」
赤いきつねの麺が汁を吸いきった頃には彼は消え去り、床には巨大な腐ったジャガイモが遺されていた。
挿絵
リンク
- 初出 - デリュケー 恒心文庫:M4(魚拓)
- マツドマッドマットマン