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恒心文庫:雨粒の共犯者

提供:唐澤貴洋Wiki
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本文

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 あいだーこいだーまけるなーがんばれー。

 ……ああ、うるせえ。

 ベッド脇に設置されたラジオから流れてくる、どっかの誰かが歌うくだらないバラードを耳に流し込みながら、外を眺めていた。
 ゆるゆりの主題歌でもかからねえかな、と思って朝からつけっぱなしにしているが、どうもこの局はお行儀のよい曲しか流さないポリシーがあるらしい。
 安っぽいビジネス・ホテルのツイン。カビくささと、昨晩の名残がある部屋のニオイ。ろくに掃除もされていない窓を、大粒の雨が叩いている。
 強い邪風のせいだろうか、ザアザアとしたその雨粒たちは斜めに天から降り注ぎ、丸い斑点を残しながらガラスを垂れていく。
「……運の悪い雨粒どもだ」
 なんともなしにその光景を見つめていると、そんな言葉が口からこぼれた。
 あの雨粒たちは、人々に毛嫌いされるためだけにやってきた存在にすぎない。やれ洗濯物が干せないだの、邪魔だの、気が滅入るだの、好き放題言われるためだけの存在。
 そうして彼らのうちいくらかは蒸発し、いくらかは土にしみこみ、それらは再び黒い雲を形成して、きっとまたいつの日かこの街へと降ってくるのだ。
 うまく川に降り注げたなら、そのしずくはいつか海まで旅することができたかもしれないのに。
 うまく海に降り注げたなら、大海の一滴として世界を漂うことができたかもしれないのに。
 うまく自分たちの世界に溶け込めたなら、その世界の中だけで生きていくことができたのに。
 こんな汚い街に、しかも11月みたいなハンパな月に、降りやがって。
 街中のやつらにそのせいで疎まれるんだ、連中は。
 いっそ次はクリスマス・イブにでも、うまいこと雪として降れたらいいな。そうすりゃみんな歓迎してくれるさ。
「まったく、運の悪い連中だよ」
 確認するように再度つぶやくと、寝そべったベッドの上、退屈交じりに猫のように体をくねらせる。いや、退屈しているヒマなど無いのだが。
 垂れた髪が、首筋に一筋の線を描く。それを指で絡め取りながら、声をかける。
「な、お前もそう思うだろ、Y?」
 すこし待ったが、返答はない。
 振り向いて、この部屋にいるもうひとりの存在を確認する。素晴らしくこちらを無視した男は、小さな備え付けのデスクに載せたノートPCとにらめっこ中だ。
 その横顔を少々観察してみる。唇を真一文字に結んだ険しい表情が、ため息交じりの呆れ顔へと変わり、ちょっと緩んだかと思うと、再び険しい顔へ。
 すぐ顔に出る奴だ。あんなんでよく、今まで勤まったもんだね。
 体を起こすとラジオのスイッチを落とした。狂ったようにポジティブ・ワードを垂れ流していた物体は、瞬間にただの無機物と化す。
 ころころ変わる表情の観察も中々に楽しいが、無視されたままはつまらない。
「おーい、Y。Yちゃん? Yくん!」
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 4回目でようやくのヒット。
「なんですか、騒々しい」
 ディスプレイに顔を向けたまま、男はこたえる。
「聞こえてんなら返事しろよな」、言うとベッドで身を起こし、ううん、と伸びをする。「またネット、覗いてるのか」
「ええ」とマウスを握った男は返答する。「開示請求をおこなう必要がありますからね」
「なに、お前まだあんなのやるの」
「僕らにはする権利があります」
「権利、ねえ……」、言いながら冷蔵庫を開き、中身に眉をひそめてしまう。
「おい、ここ水しかないぜ。ハルポッポ曹長としては、できればルーム・サービスのひとつでも頼む、と洒落込みたいところなんだが」
「我慢してください。余計な出費をしている余裕は僕たちにはありません」、Yは気難しい表情を崩さず言う。
 へいへい。
 軽くこたえながら軟水の500mlボトルを出すと、足で軽く蹴飛ばして冷蔵庫の扉を閉める。
 白い喉を上下させて勢いよく透明な液体を嚥下しながら、デスクのうしろに回り込むとY越しに画面を覗いた。
「ボギー1、あいかわらず豪勢にやってんなあ」、思わず出た声。「何人雇ってんだろう、これ」
「数は不明ですが、すべて謂れのないたわごとですよ」、Yはマウスを動かしながらこたえる。「僕らには正義があります。こんなものに負ける道理はない」
 ――ま、正義が、勝利に結びつくとも限らないけどな。
 その言葉を水と共に飲み干すと、空になったボトルをぽい、とゴミ箱へ放り投げた。ミス。
「……ちゃんと拾って入れてくださいよ」
「へいへい」、言いながらゴミ箱のふちに当たってあらぬ方向へ飛んだボトルを拾いに行く。かがんで拾おうとしたとき、ふと思ってたずねる。
「なあ、それって向こうにバレたりしないの」
「バレるとは」、今度はキーボードを忙し気に叩きながらYが言う。「僕らのきょばしょが、でしょうか」
 そーいうこと。ゴミ箱にボトルを落としながらこたえると、「ありえませんね」と返事が来る。
「匿名化の手段なんて、いくらでもあるんですよ。向こうがネットに自信を持っていようと、これを見破るのは不可能だ。自分語りやメールアドレスの使いまわしみたいなヘマをしない限りはね」
「……お前、そういう悪知恵どこで仕込んだのよ」
 窓辺に寄って外を見るともなしに眺めながら言う。すき間からひんやりとした外の風が流れ込んでくるのを吸い込み、新鮮な空気を味わう。
「専門分野と大して関連があるとも思えないけど?」
 よっ、と軽い掛け声を出すと、窓辺のせり出た枠に腰かける。
「昔の共同経営者と一緒にいるとき、覚えざるをえませんでした」
 硬い声がかえってくる。しばらくの沈黙。
「……ほーん」
 生返事をすると、薄く曇ったガラス窓の向こうを見る。
 ――いつまでガンコに、《昔の共同経営者》なんて呼び方する気なんだ?
 口に出せない言葉をもう一度、今度は水の助けなしに飲み込んだ。
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 物事が複雑になるのはあとから様々な要素が絡むからであり、根本的なものはいたってシンプルであることが多い。
 今回もそうだ。
 垂れ落ちる雨粒を、ガラス越しに白い指を這わせて追いかけながら考える。ひんやりと染み込んでくる指先の感触。いつの間にこんなに寒くなったのだろう。
 そもそも「考える」とまでの表現を使う必要もないのかもしれない。「思う」。あるいは、何度もとおった思考の道筋を「辿る」だけ。もう何度もクリアした迷路に再び挑戦するように。 
 こっちは嵌められた、向こうはこっちを嵌めた。それだけのことだ。
 指を止めると、ガラスに映ったYのぼやけた輪郭を見つめる。うっすらと反射したその胸元に、かつて鈍い輝きを放っていたバッヂは、もうない。
 無意味だとわかっているはずだ、開示だなんて。王子さまのお相手でその程度のこと、もう知っているはずだ。正義も権利も、数の優勢の前ではもろく崩れ去ってしまうものなのだ。
 あの王子、B5、ボギー1だって、そう。
 手を思わず握りしめる。
 普段はたいそうな口を叩いておきながら、いざ自分がピンチとなると父親の泥をまとめて共同経営者にふっかけて、犬っころみたいに気楽に捨てた。
 今じゃどこぞの業者様の手を借りて、あらゆる掲示板やSMSで俺たちの悪評を広めるのにご執心だ。トクメイのヒボーチューショーをやめろとは、どの口が言ったものだか。
 やり場のない感情をこめて、軽く拳をガラスにぶつける。コツン、とした硬い感触。
 力のあるやつが、声なき声を潰す。
 常識だ。その程度のことなんざ、世界中で一日に何件も起こっていることだろう。でも、《その程度のこと》はひとりの若造の人生を潰すには、あまりにも十分すぎる。
 ……いいや、うまくだんまりを決め込んでいれば、今頃はどうにかなってたかもな。
 ガラスに反射した人間が、薄く自嘲の笑みをうかべる。
 そいつをネットでかばったアホがいる。黙っときゃあ巻き込まれずに済んだものを、一時の感情に身を任せた大馬鹿者。
 そのアホが火に油を注いだせいで、若造は大炎上だ。そしてついでにアホも共犯者に仕立て上げられ、もうこの業界じゃ食ってけない。
 あまりにも強大だったのだ、あいつの人脈は。気づくのが遅かった、などと言ったところで、それは言い訳にしかならない。
 垂れた雨粒が窓枠の隅で小さな水たまりを作っている。
 眼下を見れば、早くもついた街灯のした、色とりどりの傘が街を行き交っている。遠くにかすかに見える彩りは、どこかの大学が学祭でもやっているのだろうか。
 複雑な回路のように、それぞれの生活の平行線が街を成り立たせている。そして時たまいくつかは切り捨てられ、いくつかは交わる。
 あいつは切り捨てた。俺たちを。
 俺たちは切り捨てられた。あいつの手によって。
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「あーやめ、やめだ! オラ!」
 両手足をいっぱいに伸ばし、わざと大きな声を出して思考を振り払う。思考の渦に巻き込まれるほど無駄なことはない。
「すみませんが」、鋭い視線がこちらを捉える。
「今少々危ない橋を渡っている最中なので、静かにしていてもらえませんか」
 今日はじめて、向こうからこちらに視線を投げてくれた。
 にやけそうになるのを隠そうと、唇のはしをシニカルに持ちあげて見せる。
「なあ、Y」
「なんです?」
「しようぜ」
 軽い口調で放つ誘い言葉。枕元に落ちている白い箱をカラコロと振って中身を確認すると、口元をほころばせる。
「ラッキー、1コ残ってる。全部使ったかと思ってた」
「……あのね、今はそんなことしてる場合じゃないでしょう」
 あれあれ?
 わざとらしく声を出してデスクに歩み寄ると、マウスを握る手にそっと己の手を重ねささやく。
「昨日の夜、女みたいに気色悪い声出してよがってたのは、どこの誰でしたっけ? Y君」
「……今は昼です」
「苦しい言い訳だな。ハルポッポ曹長は、きみの射精に要する《きわめて》短い時間もこの数週間の逃避行でしっかり把握したんだぞ」
「Kさん」
 真剣な表情に気圧されて「なんだよ」とこたえると、Yは重ねていた手をそっと払う。
「もう、やめにしませんか」
 無言で見返した視界に入る無表情。その瞳には、さらに人の姿が映っている。そいつも無表情。いや、もっとひどい。うつろだな。
「……むなしすぎますよ、こんなの」
 部屋に雨の降り注ぐ音だけが響く。数秒か、数十秒か、あるいはもっと。
「あっそ」、一歩下がると腕を頭のうしろで組む。「知らねえぞ、あとで後悔しても相手してやんねえからな」
「間に合ってます」
「……あっそ」
 ぽい、と箱をゴミ箱へ投げる。ミス2。
 舌打ちをして拾い上げ、ゴミ箱に投げ込むと、方向性をうしなった性欲はペットボトルとぶつかって間抜けな音を立てた。
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「……ほんっとに、クソみたいな募集しかねえのな。不景気なわけだ」
 再び横たわったベッドのうえ、コンビニで取って来た無料の就職雑誌を眺めながら、思わずうめき声が漏れる。
「こりゃもう、俺の風俗堕ちしかねーか?」
 昔の専門分野に当の自分が叩き落とされるなんて、ずいぶんとした皮肉だ。口の端を意図的にゆがめてみる。
「アルバイトの募集欄はどうですか?」
「バイト、ねえ」、言いながら雑誌を脇に置き、爪の先を見つめる。
「ぶっちゃけ嫌だ。《元》弁護士君のプライドは許すの、そーいうの」
 残酷なことを言ってしまったことに気づいたのは返事までの間が空いたせいだった。
「……許せないに、きまっているでしょう」
 ベッドの向こうから飛んでくる、怒りを押し殺した声。
「悪かったよ」、天井にへばりついた汚れを見ながら言う。
「気にしてません」
「そうかい」、こたえると立ち上がる。髪をぶん、と一振りして後ろにやると、「よっしゃあ、働くぞお!」と間抜けなことを叫んでガッツポーズを決めてみる。
 何言ってるんです、と苦笑する男の顔は自然にこぼれたものなのか、はたまたこちらの意図を汲み取ってくれたからなのか。
「俺はもう決めたからな。工場のバイトでも蕎麦屋の接客でもなんだってやる。知らん男のちんこしゃぶれと言われればしゃぶってやる」
「下品なことを言わないでください」
「やれやれ、優等生はこれだから困るね」
「もう、そんなものは卒業しましたよ」
 いたずらっぽく笑みを返された。
「今の僕の世間からの評価は、昔の共同事業者に追われる悪いものだ」
「……へえ、言うようになったじゃないか」
 互いに不安を隠し持っているのは同じだ。それをつたない軽口や気まぐれの性交でごまかしながら、こうして過ごしている。
 いつまでごまかせばよいのだろう、という思いが胸中をかすめていく。いつまでつづくんだ、という恐怖もある。
 ごちゃまぜになった感情たちが、カラカラと音を立てるようにして心を擦り減らせてゆく。
 しかし生きねばならん。
 どっかの事務所で椅子にでっかいケツを下ろして、のうのうと生きている奴が勝者ならば、敗者はまた敗者の生活をせねばならない。それだけだ。
 雨はまだ降っている。
 運のよい雨粒どもは、大海へとその身を捧げ、その大きな存在に守られながら、いつかどこか遠い、誰も手の届かない領域にまで到達するのかもしれない。
 運の悪い雨粒どもは、疎まれるためだけにこの街に降り注ぎ、そして誰も知らぬままひっそりと蒸発して消えてゆく。
 YはいまだにPCと睨み合っている。無駄とわかっていながら、最後のプライドを、自身の潔白を守るために戦っている。
 でも、あれは戦いですらない。羽根をむしられた小鳥のように、もがいているだけだ。
 滑稽だな。
 素直にそう思う。
 まったく、滑稽な姿だよ。
 そして一方では、その姿をうらやむ自分も存在している。
 するりと衣の音をわずかに立ててYに近づく。背後から両腕を回すと、ガラス窓の向こうに広がる曇天を見つめた。
「まったく、俺たちは運の悪い雨粒だよな、Y」
 一瞬黒い雲のどこかから、蜘蛛の糸のように垂れ下がる一筋の陽光が見えたように思えたが、それは気のせいだった。

挿絵

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