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恒心文庫:自由闊達讃歌

提供:唐澤貴洋Wiki
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本文

「匿名という隠れ蓑を青年に与えるな」と社会に警告したのは、ショーペンハウエルであっただろうか。
Kは身に着けたスーツを脱ぎ捨てながら思わずそう考えずにはいられなかった。
父が呆然とした表情で自分を見ている。
同僚が口をパクパクとさせている。
ははあ、さては君、金魚の物まねをしているのだね?
Kの言葉に同僚は反応し、何か言いかけるがそれは彼の耳には届かない。

さあ、当職はもう自由の身だ。

スーツからむしりとったバッヂを口中に含む。鈍い金属の味。どこか懐かしい味。
それを飲み下すと彼は事務所の男たちに笑いかける。

――これこそが自由なのだよ、諸君!

勢いよく窓ガラスを突き破り、アスファルトへと垂直落下だ。
犬のように体を震わせ割れた破片をまき散らすと、彼は駆けだす。
玉袋がゆらゆらと揺れ、腹部の脂肪が彼の存在を祝福するかのように振動する。

――おお、自由闊達なるわが陰嚢よ!
――おお、自由闊達たるわが贅肉よ!

ぶるんぶるんと股間のいちもつを回転させ、Kは己を縛る牢獄すなわちT門から逃走してゆく。
空の色は青色だ。
当職の亀頭は薄桃色だ。
ああ、世界はなんと優しい色に溢れかえっているのだろうか!
これほどまでに美しい世界を、なぜ当職は見ようとしなかったのだ?
デスクに向かって小難しい文書を並べてたてるよりも、人が人に優しくなる方法はいくらでもあったのだ!
思わず喉から漏れた歓喜の声は、きっとファの#にちがいない。
なぜって、それこそが喜びの音程であり、また当職自身の歓喜なのだから!

勢いそのままKは小走りに駅のホームへと駆け込もうとし、はたと立ち止まる。
今や当職は、社会を捨て家族を捨て恋人を捨て自由の身となった。
その我が身、どうしてあのような金属の物体に押し込める理由があろうか?
そこでKは近くの雑居ビル、その雨どいを利用し、どんどんと上へと昇ってゆくこととする。
陰嚢が雨どいにいい塩梅にこすれ、Kの喉から再び歓喜の声、すなわちファの#がこぼれでる!

――おお、自由闊達なるわが陰嚢よ!
――おお、自由闊達たる雨どいの存在よ!

「ペナント募集中」の貼り紙がなされている雑居ビルの7階、ついに雨どいによってKは絶頂へと導かれる。
未使用の亀頭、その先端からまろびでる白いシャワーが、眼下の街へ降り注いでゆく。

――おお、見よ、あの恋人たちの笑みを!
――おお、見よ、白き世界に映し出されし真理を!

ついに登り切ったKは屋上で、ふと横を見る。
なんとしたことか! 電車が走り出しているではないか。
追うのだ、追って、彼らに自由の到来を知らせるのだ!
ビルからビルへと飛び移りつつ、おおい、おおい、とKは乗客たちへと手を振る!
そしてビルとビルのすき間、その重力と空気によって構成された空間を移動するたび、Kの陰嚢は七拍子で、七拍子で揺れ動くのだ!

――おお、自由闊達なるわが陰嚢よ!
――おお、自由闊達たるわが肉体よ!

ふとKの全身は粟立つような感触に覆われてゆく。すなわち大便がしたいのだ。
電車との並列回路を解除し、彼はとあるビルの屋上において勢いよく排便をしてゆく、そう、ナイアガラのように!
Kはしげしげと観察したのちに大便を両手でそっとすくう。
そして屋上から跳躍したかと思うと、通行人に手あたり次第それを塗りたくってゆくのだ!

――おお、見よ、わが金色の両手を!
――おお、見よ、自由へと跳躍しつつある君たちの姿を!

ギリシア神話に出てくるミノス王は触れるものすべてを金に変えたことで知られているが、ああ、どうだろう、今のKはまさにそのようではないか!
そう、大便を両手に持ち塗りたくることこそが真なる自由への道であることを、彼はその身をもって証明したというのだ!
どよめきたつ群衆に、Kは呼びかける。

声なき声に力を! 新しい時代を!

堂々たるその雄姿に、思わず涙を浮かべなかった群衆が誰一人としていたであろうか!
彼らは各々糞を手に持ち、走りはじめる。もちろん先頭はKだ。

――おお、自由闊達たるわが大便よ!
――おお、自由闊達たる群衆の美しさよ!

しかし、なんという悲劇がそこに待っていたのだろう!
角を曲がったKが見たのは、かつての恋人、そして事務所の同僚であったYが、猟銃を構えている姿であったのだ!

当職を撃つのか。 Kは問う。

撃たねばならぬ。 Yはこたえる。 撃たねば、この群衆の反逆をおさめることなど、できはしないではないか。

ならば撃てばよい。Kは言う。 きみの震える指先が、当職を正確に撃ち抜くことができるのならば、さあ、撃て! そして新たなる秩序、混沌、絶望の海へと民を投げ込むがよい!

猟銃が火を吹いたが、弾はKの脇腹をかすめ、わずかに贅肉を傷つけただけであった。
膝をつくYに、怒りに燃えた群衆が襲い掛かろうとする。Kはその金色の手によって彼らを止めると、堂々たる声でこう言った――

人は人を愛さねばならない! 今、きみたちがこの男を石打ちにしたところとて、憎しみの連鎖は断ち切れぬのだ!
Yは私にとって、親よりも大切な存在だ! さあ、きみたちは人の親を躊躇なく打てるのか! 優しい世界はそれで実現されるのか!

ああ、なんと深く、しみいる、言葉であっただろうか!
人々はみな涙し、そしてそこに湖ができた! 
Kはその湖にそっと自身の大便を投げ入れる!
タンパク質により生命が生まれ、そして急速に進化をなしてゆこうというのだ!
生命の誕生、果てなき進化、幾億年ものプロセスが、今まさにそこで展開されてゆくさまを見よ!
嗚呼しかしどうしたことか、アデニン、チミン、シトシン、グアニン、ウラシル、世界の螺旋は急に止まってしまいそうになる。
そう、足りないのだ。栄養が、栄養が足りないというのだ!

――おお、見よ、わが群衆よ! わが自由闊達なる肉体は、この水中へと身を捧げることに何も臆してはおらぬ!

Kは叫ぶと、頭から湖に飛び込む。透明度の高きその水中において、彼はミトコンドリアと戯れ、そして、新たなる生命の輪廻の誕生を、その身によって祝福しようというのだ!
湖のほとり、陰茎のような顔をしたひとりの男がサッと青ざめ、そして叫ぶ。

――いけません、早く上がってください! 紫のクラゲが近づいてきております! 私の父も母も弟も、みなあのクラゲにちくりとやられてしまったのです!

Kはぷかぷかと水上に浮かび、徐々に接近してくる紫のクラゲを見つつも、微笑を浮かべてこういった。

――而してそれが運命ならば、きみはどうするというのかね?

陰茎男は何も言えずうなだれる。
Kは空をあおぐ。空の色は茜色だ。

――嗚呼、最後に見るにはちょうどよい塩梅の空色ではないか。突然当職には様々なことがわかるのだ。そう、それこそが死の一形態なのだ。

Kは紫のクラゲに食されつつも、クラゲに向かい叫ぶ。

――クラゲよ! 私を食らう邪悪なクラゲよ! お前たちは馥郁たるわが体臭を楽しみ、そして今まさに肉汁をすすろうというのだな!
   よいだろう! それこそが聖者の最後にふさわしい!

クラゲたちはKが言い終えるのを待っていたかのように、その顔にかぶりつく。
しかし群衆が耳にしたのは食われる者の悲鳴ではない。ファの#であったのだ!
Yが涙を流し、群衆に伝える。

――あれすなわちKの歓喜の声、世界を祝福し新たな生命を祝福する声であったのだ! 彼は食われる恐怖よりも、新たなる世界への希望を胸に死んだのだ!
   Kは自由であった! 最後まで、自由闊達であったのだ!

ああ、そのようなことを知って、どうして泣かずにはおられようか? 群衆はまたも涙し、そして広がった湖は今でも陽光の元きらめいている。
後に、湖の底できらりと光るバッヂが見つかったということだ。

‐了‐

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