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恒心文庫:背徳者/あいとはいったい

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本文

 もっと有能な人間であれば、僕のようなへまはやらかさなかっただろう。
 知人が同僚となり、やがて恋人へと発展していくプロセスというものを構築していくにあたって、僕があまりにも不器用であったのは確かだ。
 それは稚拙で純粋過ぎた、と言い換えても差し支えは無いし、経験不足と指摘されたならうなずくしかない。
 確かにその通りなのだ。学業に身をささげてきた僕にとって、学生時代から色恋沙汰というのはどこか遠い別世界の話であったし、ましてや僕の場合、相手がひどく限定されてしまう。
 厳しい親の目をかすめ、自室でこっそりと精を吐き出すのが関の山だった田舎の青年に、どうしてそういった様々な経験を積む余裕などあろうか?
 しかし、こんな言い訳をいくら並べたところで事態が好転しないことは確かだ。
 結論から述べよう。
 僕はその日失恋をした。
 それもかなり、遠回しなふうに、だ。

 ***

「ねえねえY君、ちょっと相談があるナリ」
 その日曜、喫茶店でオレンジ・ジュース片手にKはこう切り出してきた。
 そのころの僕らは、週末となれば2人でどこかへ遊びに行くのが当然になっていた。
 「どこかへ」とはいうものの、Kは映画好き――というか、それはもう《フリーク》の領域だった――から、僕らの行く先もそういったところが自然と多くなっていた。
 僕は彼と話題を合わせるために「映画 名作」などといった単語で2783回はグーグル検索をおこなったし、書店ではそれまで見向きもしなかった専門雑誌のコーナーに足を幾たびも向け、使うあてもなく溜まっていた給料はネット通販でのDVDに費やされていっていた。
 その日も、僕らは先週封切りされたばかりの洋画を見に行った帰りだった。
 別れが惜しくて若干口ごもりながら、「よければ、近くにいい喫茶があるんです。大学時代からの行きつけのお店でね」と誘った僕に、Kは軽くのってくれたのだ。
「相談? なんでしょう」と僕はコーヒーカップをスプーンでかき混ぜながら言った。
「うん、ちょっと、恥ずかしいナリけど……」
 Kは頬を赤らめると、氷の半分溶けかかったグラスを両手で包み込む。
 僕がそういった彼の反応に、少しばかり風邪な妄想を抱いてしまったのは、想像に難くないものと思う――特に意中の相手に、アプローチを何度も仕掛けては、のらりくらりとかわされているような男には、その薄紅がさした頬というものは劣情を駆り立てるには十分だった。
 ざわつく胸のうちを抑えようとコーヒーを一口流し込む。……少々甘味が足りないな、もう少しシロップを足そう。
 流体が胸のもやを体の奥の方へ流していってくれるような気がして、それで人心地ついたところで、「どうしたんです、話してみてくださいよ」と軽く促すと、彼は上目づかいにこういった。
「今度ね、先輩とデートの約束したんだけど……ちょっと、計画が練り切れない感じがして。Y君にもお手伝いしてほしいナリ」
 かき混ぜるスプーンの手を思わず止め、僕は眼前の男をまじまじと見つめてしまった。
 今しがたの言葉が頭の中でぐるぐると回転する。

 先輩? 先輩ってあの、Kが昔所属していた事務所の、あの風俗弁護士のことか?

 デート? デートってなんだ? デートっていうのは確か、一般的には恋人や、恋人へのステップを踏もうとしている2人のものだよな?

 ――待てよ、じゃあ今、僕とKがしているのはなんだ?
 何かしら恐ろしい《予感》とでもいうようなものが僕の脳裏をかすめる。
 いやだ、考えたくない、知りたくない。
 幼児のように駄々をこねたくなる僕に、レッツ客観視と言わんばかりに、《予感》は《事実》へと正体を変えていく。 
 
 これはデートじゃない? 
 ……少なくとも、Kはそう考えていない?

 そのときの僕の激しい混乱をKが気取ったのかどうかまでは、わからない。おそらく僕はひどく強い力でコーヒーカップを握っていただろうし、顔からは血の気が引いていただろう。
 しかしそんな僕を素知らぬ風に、Kは手元に目をやって「うわ、コップびちょびちょナリ」と間抜けな声を出すと、短い腕を伸ばして紙ナプキンをとった。
 汗をびっしりとかいたコップをそれで丁寧にぬぐう動作を、僕はじっと見つめていた。見つめていることしかできなかった。
 一連の動作を手早く終えると、Kは再び僕に視線を合わせた。
「当職としてはね、やっぱ王道がいいかなーって思ってるナリ。ごはん食べた後、お酒飲んで、景色のいいところでも行って。それで、あわよくばー……なんて考えちゃってるナリ。だけど、初めてのデートでこうガツガツすると、引かれちゃうナリかねぇ?」
「すみません、ちょっといいでしょうか」
 僕は自分の声が堅く乾燥した色合いを帯びているのを自覚しながら言った。公園で野ざらしになった、乾いた木製のベンチのような声色。
「お二方は、お付き合いなさっているんですか?」
 こたえはそのときのKを見れば一目瞭然だった。
 彼はいよいよ頬を熟しきった果実のように染め上げ、ストローをくわえたまま、こくりとうなずいたのだ。
「……へえ、そうなんですか」
 自分の声がどこか別のものによって発せられているように感じた。僕の喉にガラガラとした球体が引っかかっていて、それが自分の代わりに話しているように思えた。
 その先の会話はあまり記憶にない。Kが夢見る乙女のように語る恋物語をうんうん、ともっともらしくうなずきながら聞いたことのみを覚えている。
 当然のことながら、Kは僕にアドバイスなんて求めていなかった。
 彼の立てたデートプランはきわめて周到に計画してあったし(それはどう考えても、友達と気楽に遊びに行くようなそれではなかった)、彼はそれを誰かに話したかっただけなのだ。
 ただの聞き役、ペットのネコに愚痴をこぼすのと同じ。
 僕が喫茶店でこなした役目といえば、その程度のものだった。

***

 Kと別れ、自宅へ戻る途中、僕の胸中は様々な思惑が渦巻いていた。
 はじめに「なぜ」という思いがこみあげれば、それは「どうすれば」に変わったし、「もしかして」や「うまくやれば」などという言葉にも形を変えた。
 用水路からすえたニオイの漂ってくる街路の途中、切れかかった街灯の下で僕は唾を吐いた。それから一気にこみ上げてくる嘔吐感にまかせ、胃の中身をげえげえと吐き出した。
 確かにKと僕のあいだで、いわゆる一線を画すような行為、つまりは性交だとかそういったものは、数えるほど、それも最初のうち幾度かだけだった。
 その一線を越えて以来、僕らは単なる同僚としてはあまりに親しい距離に互いの身を置いてはいたが、それ以上の部分ではけして交わっていなかった。
 そういった関係を《恋人》と称するには、あまりにも頼りなかったかもしれない。都合よくそばにいた、気まぐれに肉欲をぶつけ合う相手。Kはその程度にしか、僕を認識していなかったのかもしれない。
 だけど僕はKを、それをひどく陳腐な表現であると承知のうえで、確かに愛していた。
 単なる欲求解消の相手としてではなく、ひとつの人格としての、精神的な部分を含めた彼を愛していた。
 そして愚かしいことに、Kも同じような感情を僕に抱いてくれているものだと、純粋に思い込んでいたのだ。
 欲望の絡み合いなどなくとも、暗い映画館で手を重ね合う瞬間や、ふと目があうたびに笑みがこぼれてしまう、そういった些細な事柄に、初恋に溺れる中学生のように舞い上がってしまっていたのだ。
 Kはちがったのだろうか。
 Kは僕という存在に見切りをつけ、そしてまた今度はあの風俗弁護士と新たな一歩を踏み出そうとしているのだろうか。
「……あいって、なんだ」
 喫茶店で流れていた、くだらないポップ・ソングのワンフレーズが口からこぼれる。
 その日を境に、僕の胸中にはぐるぐるとひとつの疑問が回転し続けている。
 愛とは、一体。

 柔らかな肉体がしなっている。
 僕はそのつま先から頭頂にいたるまでくちづけ、だらしなく垂れた腹をまさぐって贅肉をつまみ、かみしめれば肉汁の滴りそうな頬に軽く歯をたてる。
 一般の男性よりも少し高い嬌声、少し短い舌のせいであまり上手いとはいえないキス、熟れすぎた果実のように甘い香り。
 五感のすべてを駆使して僕は彼を味わい、そして彼は僕を味わう。
 生温かい口中に含まれた僕の一部は、粘液質なその短い舌に操られてぴんと硬くなり、一段と自己主張をおこなう。
 しっとりとした入り口に注意深く焦点を合わせ、僕はひといきに彼の中へと侵入する。
 のしかかって腰を振る僕を、じっと双眸が見つめる。愛を確認するかのように、2人で観た洋画のラブ・シーンにあったように、視線が粘着質に絡まり合う。
 きっと今、僕はひどく間抜けな顔をしているにちがいない。むき出しになった欲望を、この顔面すべてに、くしゃくしゃになるまで浮かべてしまっているにちがいない。
 あまりそんな僕を見ないでくれ。
 でも、もっと僕にその視線を注いでくれ。
 やがて腰のあたりに、重たく熱い感触がこみあげる。
 充分すぎるほど膨らんでいたペニスは更に張り詰める。本能が体を急かし、腰の速度があがる。
 単調なその動きを繰り返すたび、熱っぽい吐息がいくたびも漏れ、僕はうめき声と共に相手に告げる。
「……もう、限界だ、K」
 眼下の男は軽蔑した目で僕を見た。
「もうナリか? まだいれて15秒しか経ってないナリよ」

 ***
 
「……最悪だ」
 飛び起きたベッドの上、頭に手を当ててつぶやく。
 ベッドに寝ているのは僕ひとり、横を見たって誰もいやしない。ぴっしりと寝汗にまみれた寝間着の中、ぬめりと湿った下着の感触。

 夢精なんて、まったく、いつ以来だろう?

 夢のKのまなざしが、僕をえぐる。軽蔑のまなざし。細められた両目。
 現実でもそうだったことを思い出して僕の気分は一層重くなる。
 15秒。
 一般の早漏の基準なんて知らないし、知りたくもないけれど、そういったタイプに自分が分類されるのは確かだ。 

 ひょっとすると、Kも僕のそういうところが気にくわなかったのだろうか? だからああして、僕とするのを避けるようになった?

 悪い予想を頭を払って振り払う。バカな、そんなわけないじゃないか、Kはそんなやつじゃない。
 僕が思わぬ失態に赤面した時、聖母のような笑みを浮かべてくれたじゃないか。あの夢のような顔を、するはずがない。
 ひどくみじめな気持ちで下着を洗い、ついでにシャワーを浴びる。 
 濡れた頭をふきながら寝室に戻る。テレビの脇に積み上げられた、映画のDVDの山を一瞬視界に入れてしまうが、意図的にそれをシャット・アウトする。
 カーテンの外はまだ闇がつづいている。あまり長く眠ったように思えないのは、悪夢のせいだけではないのかもしれない。
 時刻を確認しようと携帯電話に手を伸ばしたとき、不在着信が一件入っていることに気づいた。
 意外な人物を示すその液晶の文字を知らず知らずのうちに読み上げる。
「……M?」

「こういう店は嫌いかね」
 薄暗い店内、けばけばしいライトに照らされた男は僕に言った。両脇には下品な露出をした、日本語をほとんど話せない女。
「ええ」、僕はきわめて素直に返事をする。「大嫌いです」
「同感だよ。私もこういうところは好きではない」と男はうなずいてみせる。「だが、こういった店というのは、秘密の話をするには都合がいい。そうは思わないかね?」
 返事をせずに視線を逸らした僕に、男の声が飛んでくる。
「そしてきみは、私のことも嫌い、と」
「その通りですね」
 S区の――いや、名前なんてどうだっていい。いわゆるクラブの一室に僕はいた。
 まともに音量調整もされていないBGM。安っぽい壁紙。下品で煽情的な間接照明。部屋中に染みついた煙草と香水と、ついでにメスのニオイ。運ばれてきたグラスを傾けて思わず顔をしかめる。おまけに酒までまずいときた。
「きみは私が嫌いで、こういった低俗な店が嫌いで、おまけに女にも興味がない」
 Mが傍らの女の腿を撫ぜながら言う。
「しかし、きみは来た。解せないね? それとも、自己の行為に矛盾のあることに気づいてすらいないのか?」
「はじめに連絡を寄越したのはそちらでしょう」、僕はグラスをできるだけ遠いところへ置きながら言う。
「あなたには借りがある。自分にとって借りのある人間が「来い」と言ったから、僕は来た。それだけだ」
「義理堅さというのは世渡りにおいて大きな武器となるよ」
 Mはもっともらしくうなずいてみせると、大袈裟に肩をすくめてみせる。
「もちろん、相応の具合を保つことができればの話だし、そのバランスを取ることができる人間はひどく少ないのだが。……私も時間がない。本題に入ろう」
「また僕に、スパイごっこでもしてほしいんですか?」
 テーブルに両肘をついて指先をからめ、僕は男をにらみつける。
「Hさんの周りを嗅ぎ回れとでも?」
 くく、と男は低い笑いを漏らすと小指で耳を掻く。
「いやいや、今回はそういうことではない。ちょっとした《噂話》を小耳にはさんでね、それできみに連絡を取った次第だ」
「噂話」、僕は男の言葉を繰り返す。
「私の聞いた限りでは、どうも、あのHのせがれとS事務所の弁護士が仲良くしているようじゃないか」
 ずいぶんと、仲良くね。男は薄い笑みをたたえて言うと、何かをはかるかのように僕を見る。
「それがどうしたっていうんです?」と僕は平静を装ってこたえる。 
 男はこたえず僕の顔をじっと見ていたが、視線を外すと女をしっしっと追いやった。
 小麦色の肌を限界まで露出させた彼女たちが、するりと軟体動物のようにボックス席から消えていく。
「なあY君、私はね、自分の気に入ったものに対しては、投資を惜しまない主義だ」
 男はゆったりとソファにもたれ足を組む。
「相手が企業であれ、人であれ、その主義が変わることは無い」
「何がおっしゃりたいのか、はかりかねますね」と僕は慎重にこたえる。
「きみに贈り物がある」
 男が指を鳴らすと、黒服の人間がどこからともなく現れて僕に何か差し出す。……USBメモリ?
「これは?」
 手は出さず男にたずねると、男は楽しそうに笑う。
「ご覧のとおり、ただのUSBメモリだよ。コンビニでも電気店でも売っているような、ごくごくふつうのものだ。私のお古だが、よかったらプレゼントしよう」
 僕は男の顔を観察する。黒いもみあげに包まれた薄い笑み。底の見えない湖のように真意の見えない笑み。
「しかし、私は昔から《うっかり》してしまうところがあってね」、男はわざとらしく肩をすくめてみせる。
「可能性の話をしようじゃないか。……うっかり者の私は、ひょっとすると、内部のデータを消し忘れたまま、きみにそれをあげてしまうかもしれない」
 音楽が切り替わり、洒落たドラムンベースから威勢のよい電子音のようなディスコ音楽へと変わった。音量さえ除けば、この店で唯一マシなところは音楽のチョイスだ。今頃フロアの連中はバカみたいに踊り狂っているのだろう。
「なるほどね」、僕は乾いた唇をなめて言う。「それであなたは、《うっかり》、何を消し忘れたんだろう」
「さぁて、忘れたな」と男は言う。「おぼろげな記憶をたどる限りでは、きみの昔の男に関する重要な情報が入っていたような気もするね」
「Kの情報?」
「私は名指ししたつもりはないが、きみが思うならその「K」とやらのことかもしれないね」
 男は笑みを深めると、ふいに席を立ちあがる。
「人生の先輩として言わせてもらえば、何事も自分の目で確かめることを勧めるよ。その中身をどう使おうと、きみの自由だ。……なにせ、私はうっかりしてデータを消し忘れたのだからね」
 Mの去った席で、テーブルに置かれていった白いUSBメモリを僕はじっと見つめ、やがてそれをポケットに滑り込ませると店を出た。

 自室でPCの電源を落とすと、思わず大きなため息が出た。
 そこではじめて、自分がそれまで息をのんで「うっかり消し忘れたデータ」を閲覧していたことに気づく。
 ひどく喉が渇いている。冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出して一気に半分ほど空けてから、僕は頭の中で考えをまとめる。
 ……Mの真意が、つかめない。
 これがKを……というよりも、Hを潰すには十分なものであるのは確かだ。
 しかしそれなら、なぜ僕にこの情報を手渡した? 自分でばらまけばすむことだし、だいたい僕が自分の職場を潰すとでも思うのか?

 ――昔の男に関する、重要な情報。

 あの真意の見えない表情が語った言葉を思い出す。
 あいつは僕とKの関係を知っていた。Hも気づいていなかったはずの、僕らの情事を。
 そしてその関係が破綻したのを見計らって、これを僕に渡した。
 メモを持ってくると、僕はボールペンを握って文章を書いてみる。

 【Mは、僕へ事務所を離れろと警告するためにこれを与えた】

 すぐに上から二重線を引いて消す。ちがう、こうではないのだ。

 【Mは、僕へ、HとKを個人的に潰させるためにこれを与えた?】

 書いているうちに自信がなくなり、思わずクエスチョンマークをつけてしまう。こんなことをする理由はなんだ? 理由。あるいは目的。
 頭をかきむしったそのとき、携帯電話の低い唸り声がきこえた。ディスプレイに表示された着信相手を3秒ほど見つめて、通話ボタンを押す。
「……もしもし?」
「見たかい」
 Mの声に僕は意識的に眉をひそめて返答する。
「狙いはなんです?」
 電話越しに忍び笑いがきこえる。
「ふふ、いや失敬。……きみのことだ、私の真意を測りかねて、真面目にああでもない、こうでもない、と悩んでいたんだろう。紙とペンで考えを整理しようとでもしていたかな?」
 思わず黙った僕に、「図星か」と軽い笑いが飛んでくる。
「いいかいYくん、教えてあげよう。この世界でもっとも恐怖すべきはね、悪意のない悪事なのだよ。私のちょっとしたミスできみに渡った情報は、それ自体に深い意味などないんだ。私がしたかったのはね、単なるいたずらだよ」
「いたずら?」
「そうだ。私はね、単に事態がどう動くのかを見てみたいだけなんだ。きみたちのちっぽけな事務所なんて、はなから興味なんてない。私が一番知りたいのは、《きみがどうするか》だ。ある人間が可能性を突きつけられたときに、どういった行動をとるのか、そこなんだよ」
「僕がどうするか、だって?」
 僕は椅子から立ち上がると部屋を歩き回りながら言った。
「どうもしないに決まってる――僕にメリットなんてない。こんなもの、明日には駅の燃えないゴミ箱にでも放り込んで、おしまいだ」
「征服」
 低い声が耳に流れ込んできた。
「きみは征服してみたくはないのかい? 自分が惚れた男を。そいつの人生を潰せる武器をきみは手に入れたんだ。手にしたカードは使ってみたいのが、人の性だろう?」
「……僕にそんな悪趣味は無い」
「いいや、あるね。きみは今一瞬、ちらりと考えてしまったはずだ。Hのせがれが泣き叫ぶ姿を。彼はきっときみに懇願するだろう。ひざまずき、両の目から涙を流しながら、きみに乞うだろう。何でもする、この身を捧げても構わない、だから黙っていてくれと――」
 僕は通話を叩き切って、携帯電話をソファの上へ投げつけた。
 そのままベッドにもぐりこみ、無理やりに目をつぶる。
 ――あんなもの、明日にでも捨ててやる。

「……Y君。Y君!」
 呼ばれた声でふっと我に返った。Kがこちらをのぞき込んでいる。
「どうしたナリか? お腹でも痛いナリか?」
「いえ、ちょっと考え事をしていただけですよ」
 曖昧な笑みを返すと、Kは、ふぅんと小首をかしげ、「それよりも、聞いてほしいナリ」と言う。
「また例のノロケですか? 間に合ってますよ」
「んもぅ、それが最近向こうったら冷たいナリィ」
 表情筋を操作して笑みを浮かべつつも、疲れるな、と内心思う自分が存在している。
 当たり前だ。自分はこの目の前の小男のように切り替えがうまくもない。大体どうして、この男は幾度も肌を合わせた相手にべらべらと今の恋人の話なんてできるんだ?
 Kが嬉しそうに口を開くたび、風俗弁護士の名を呼ぶたび、僕の中で黒い感情が渦巻くのを感じる。
 小さな胎児がすくすくと母親の腹で成長していくように、黒い感情が僕の心の面積をどんどんと埋めていく感触をおぼえる。
 もし、だ。
 僕はKの話に相槌をうちながら考える。
 もし今、あの例のデータについて話すと、Kはどういう反応をするんだろう?
 もしかしたら、僕が妄想の世界でよくしていたように、僕に口でしてくれるのだろうか?
 もしかしたら、その唇を、指を、白いズボンに隠れた部分を、昔のように僕に好きにさせてくれるのだろうか?
 あのデータで脅せば、もしかしたら……

 ――俺は何を考えているんだ?

 自分が恐ろしいことを考えていることに気づき、僕はうつむいた。
「でね……ん? Y君? 急にどうしたナリ? そんなにお腹、痛いナリか?」
「いや、なんでもないですよ」
 ぽんぽんと頭を叩かれる。
「Y君は抱え込むタイプだからいけないナリ。当職のようにすっきりさっぱり生きないと、これからの時代生きていけないナリよ?」
「世界で2番目に予告された人が言うと、重みが違いますね」
「あーもう、ネタでもそれに触れるのはダメナリ!」
 軽口をたたき合いながらも僕の頭の片隅には、シミのように消えない思考がへばりつく。

 もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら……。

「……おほん! 同僚同士仲良くするのも結構じゃが、今は就業時間ということを忘れないように!」
 Hの小言でKが口をとがらせつつも業務に戻っていく。
 その背中を横目で見ながらも、僕の中では数えきれないほどの「もしかしたら」が増殖していく。
 風船に徐々に空気を入れていくように、欲望が膨れ上がっていく。
 いつかこの風船が、ぱちん、と破裂したら、どうなるのだろう。
 スーツのポケットに忍ばせたUSBメモリにそっと触れる。
 とうとう捨てることができなかった、無機質なその物体を僕はこうして持ち歩き、何度もその存在を確かめてしまっている。
 大切なおもちゃを手放そうとしない子どものように。宝物を隠し持った人間のように。

 月日は漠然とした流体として僕の周囲を流れていくようだった。中州に取り残された人間のように、僕は時間の本流の中央に置き去りにされ、そして世界は身勝手にその歩みをつづけていた。
 僕の中で時間に関する概念というものは崩壊してしまったようだった。あるいはそれは止まったままなのかもしれない。Kに振られたあの日から。
 僕はざわつく胸の内と格闘しながら業務をこなし、Kと話し、そして夜には時折その肉体を思い出して自らを慰めた。
 記憶の中の肉体が徐々に薄れてゆくにつれて、僕はKの体温やニオイやそういったものをうまく思い出せなくなりはじめた。僕はその事実に恐怖した。
 もう、こんなまねはやめにしたほうがいいのだ。新しい相手でも、探したほうがよほど良い。
 脳内の葛藤は幾度も僕にそう語りかけてきた。しかし、それができないことはわかり切っていた。
 僕はいまだに捨てられない《データ入りの情報》を横目で見ながら、精を吐き出すだけの人間となり果てていた。

 ***

「Y君、ちょっといいかな」
 仕事が珍しく早く終わった日、Hが声をかけてきた。
「なんでしょう」、とたずねると、老人は心配した風に僕を見つめる。
「最近、どうも仕事に身が入っていないような気がするんじゃが……何かあったかのう?」
「……すみません」
 つぶやくようにこたえると、Hはもみあげを撫ぜながら言う。
「Y君、ワシは謝罪の言葉を求めとるわけじゃないんじゃ。きみの仕事ぶりについて、原因を知りたいのじゃよ」
 こたえず、僕は眼前の男をじっと観察していた。
 ――よくよく見ればこの男、息子にそっくりだな。
 ぽってりと出た腹、丸みを帯びた柔らかそうな尻のライン。
 無言のままの僕をどう解釈したのか、老会計士は慌てたように付け加える。
「いやいや、別に話したくなければいいんじゃよ。誰にでも話したくないことはあるじゃろうし」
 僕は思わずHの嬌声がどんなものか想像してしまった。
 煙草のせいで少ししゃがれた、でもKにそっくりな嬌声。ちょっと高めの男の声。
「でも、最近のきみの仕事ぶりは、はっきり言って異常じゃ。このままではちょっとのう――」
 僕がへそを舐めると、どんな声を出すんだろう。きっとKにそっくりにちがいない。
「事務所全体の士気にも関わってくるじゃろうし――」
 僕が耳たぶを噛むと、どんな声を出すんだろう。きっとKにそっくりにちがいない。
「ワシときみは組んで仕事をすることが多いから、やはり信頼関係を――」
 下の具合はどうなんだろう。きっとKにそっくりにちがいない。
「こういった事務所内の問題はやはり――」
 その体温はきっと平均よりも少し高いのだろうし、熟れすぎた果実のような香りはどこかに残っているのだ。まるでKのように。
「……Y君? 聞いとるか?」 
 積乱雲のように膨らむ妄想が理性の風船を押し破ろうとしていく。蜘蛛の糸のように思考の糸が張り巡らされ、それは僕を搦め取ろうとする。
 ダメだ、考えるな、想像するな。今はHとの話に集中しろ。いつものように笑みを浮かべて、適当に言い繕え。
 ――Kは、俺のかわりを見つけたのさ。
 誰かが頭の中でささやいた。
 瞬間、最後のパズルのピースを押し込むように、ひとつの図式が僕の中に成立した。
 ――じゃあ、どうして俺がKのかわりを見つけたらいけないんだ?

 ぱちん。

「Hさん」
「なんじゃ? ワシでよければ相談に――」
「かわりになってくれませんか」

「? なにを――」
 言いかけた口を強引にふさぐ。至近距離で大きく見開かれる眼。
 唇をこじ開け、歯茎をねぶる。奥に引っ込められていた舌を無理やりにとらえ、逃げようとするそれを僕のものと絡み合わせる。
 ああ、やっぱり親子なんだな。その短い舌をねぶりながら僕は思う。あるいは恍惚とした感触のなかで、その感情だけが浮かび上がって来る。
 舌の長さも、味も、少しざらついたその感触も、Kと同じじゃないか。僕の、僕だけの、Kと一緒だ。 
 夢中になって舌を動かしていると、どん、と激しく体を突き飛ばされた。
 デスクに背中をしたたかに打ち付け、僕は床にひっくり返る。衝撃で書類の山が吹き飛び、事務所の床に白く散らばっていく。
「い、いったい、きみは……きみは、なにを……」
 口を激しくぬぐい、荒い呼吸のままにHが言う。
 その顔に浮かぶ表情に名をつけることは難しい。
 困惑、羞恥、憤怒。人が併せ持つ様々な感情が入り混じった顔。
「……ふ、ふふ」
 僕は思わず笑い声を漏らしてしまう。奇妙な深海生物を見るような瞳でHが僕を見ている。さらに笑いがこみあげてくる。

 もう、戻れない。
 カードを切るなら、今だ。

「……ねえ、Hさん。取引をしませんか」
 話にまったくついてこれず、呆然とした表情でこちらを見る老会計士に、僕は薄い笑みを浮かべてみせる。
「なに、ちょっとした取引ですよ。あなたは時折僕の対象になっていただくだけで結構なんです。性的な欲求を発散するための、対象にね」
「な、何をバカなことを――」
「僕には、ちょっとした情報がありましてね。とある方面の権威の方から、いただいたものです」
 言葉を切って僕はスーツのポケットに手を入れる。秘密の武器を取り出すと、男の顔を真正面から見すえる。
「……あなたも、身に覚えがあるんじゃないですか? とある試験に関する、問題流出に関してですが」
 赤く染まっていたHの顔が今度は白く染まっていく。その色彩の変化を楽しみながら僕は話す。
「親は子を思う生き物、ええ、まったくそのとおりでしょうね。
 僕はあいにくと子どもなんていないし作る予定もないけれど、なるほど、動物間であれ、親子の愛情にまさる美しい愛情なんてものはないんじゃないかな」
 突き飛ばされた拍子にスーツの肩についたほこりをはたいて落しながら僕はつづける。白いほこりが宙に舞い、陽光にきらめく。
「幼い頃、テレビでサバンナの動物の特集をやっていましてね。襲われた子どものシマウマを、母親が身を呈して救ったんです。だけど哀れ、その母親はライオンの餌食となった。
 ……悲劇はえてして美しいものですし、愛情もしかり。だけどね、僕はこう考えます。醜い愛情が存在する以上は、醜い親子愛というものも存在すると思う」

 ――たとえば、出来の悪い息子を心配するあまり、とある資格試験の不合格を合格にしてしまうような、ね。

 言葉を放つと、僕はHの顔を観察することに集中する。人間の感情というのは本当に豊かだ。いったいいくつの表情を浮かべることができるのだろう。
「……カネが欲しいのか」
 久々に口を開いたかと思えば、ずいぶんバカなことを言うもんだ。
 僕は軽く肩をすくめる。
「Hさん、僕はね、そんなものを望んでいるわけじゃあないですよ。初めにも言ったでしょう。これは脅しじゃない。
 取引なんです。物を交換する、ってことですよ。僕はこのメモリを差し出す。そしてあなたは、自身を僕に差し出す」

 どうです?

 こたえはきくまでもなかった。
 老人は蒼白な顔で、ぷるぷると身を震わせている。どんなことを考えているかまでは僕には見当はつかない。だけど、彼に拒否権がないということは確実だ。
 僕はHに歩み寄ると、そっと顎を手で支える。
「先ほどは乱暴にしてしまって、申し訳ない。仕切り直しといきましょう」
「ワシが」、眼前の老人が震える声で言う。
「ワシがお前の成すがままにされれば、その情報は、消えるんじゃろうな」
「僕が誠実で真面目なことは、仕事柄知っているでしょう?」
 ささやくように老人に語りかける。
「安心してください、多くは望まない。僕がKとしたであろう、たくさんのことを、僕はこれからあなたとするんです。あなたはそれをただ、受け入れてくれさえくれれば、いいんです」
 老人は唇をわななかせつつ僕を凝視し、やがて観念したように瞳を閉じる。
 その表情に僕はかつてテレビで見た、食われる瞬間の草食動物の顔を重ね合わせる。

 そうだ、あなたは僕の腕に抱かれて、彼のかわりになればそれでいい。

 僕は裏切られた。そして裏切られた男を潰す武器を持っていながら、最後まで彼に対してはそれをふるうことはできなかった。
 弱虫かもしれない。やろうと思えばできたことから逃れるだなんて、しようと思えば思うがままに操れたであろう男を逃すなんて。 
 でも、理論や算段で割り切れない感情というのは確かに存在していて、僕はその絶対性に抗うことはできない。
 そう、未練がましくいまだ僕は己の愛情を貫こうとしている。彼の背徳を目の当たりにしつつも、それを受け入れることもできないまま、こうして代替品を求めている。
 僕は性的に敗北し、一度死んだ人間だ。
 そして同時に、誰よりも深い愛情を併せ持った人間なのだ。
 
「……ねえHさん、愛とは痛いものですね」

 老人の答えを待たずに、僕はその唇をふさいだ。

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