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恒心文庫:老衰

提供:唐澤貴洋Wiki
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本文

朝の淡い光が事務所を染め、寝室に響く脱糞音と共に一日が始まる。
しかし、今日は目を覚ましても辺りは暗闇に包まれていた。
やれやれ、当職も年かとなんとなく憂愁を感じながら失禁する。
布団が黄色に染まり、仄かに香る甘い匂いが徐々に、徐々にと広がって行く。
やがて人の体温ほどの、まるで親のような温もりが当職を包みこみ、思わず身が震える。
実は幼少期何度も寝小便を重ねる内にその感触が病み付きになり、しばしば床に就いても寝ずに小便をしていたのだ。
さて、今もその感触に浸ろうとするが中々小便が出ず、それどころか尿意すら感じられない。
目を覚ましたにもかかわらず尿意を感じないとなると、また寝小便をしたのか、この年齢にもなって。
しかし、済んだことは仕方がない。
とりあえず着替えようとして布団を剥ぐと、甘気な香りが堰を切ったように広がる。
やはり寝小便をしていたのだなと一人納得しながら電気をつけるが、甘気な香りの中になにやら異臭を感じる。
まさかと思って布団を見ると、そこには黒色の物体が。
にわかに信じ難い事だが、しかしそのツンと鼻をつく臭いは紛れもなく当職のものであり、日々の疲労が蓄積した黒をしている。
そのゴツゴツとした塊は小便を浴びて燦爛と輝き、まるでトリュフのようであった。
こんなところで世界三大珍味を味わえるとは、当職はなんて幸せ者なのだろう。
さっそくトリュフを手に取りその香りを味わう。
トリュフの魅力はその独特な匂いにあると言うように、甘ったるい鼻にまとわりつくような、それでいてどこか上品でしっとりとしている曰く言い難い匂いが当職を魅了した。
気付けば口からは唾液が溢れ出し、息を吐くことを忘れていた。
すっかり香りを堪能した当職はいよいよトリュフを味わおうと口に運ぶ。
舌が触れるとまずは甘美なソースが出迎えて邸内に招き入れ、ほろ苦い大人の味がねんごろに持て成す。
その食材とは思えぬあまりに優雅な振る舞いに唖然とする。
これほど高貴な味があっただろうか。
暫く呆気に取られていると彼等は一斉に口内に広がり、舞踏会を始めた。
軽快なリズムを刻みゆっくりと混ざり合う甘味と苦味。
一旦静かに持て成したかと思うと、今度は盛大に自身の持つ魅力を披露し、食べる者を飽きさせない。
甘味と苦味が織り成す独特なハーモニーは一気に鼻を突き抜け、且つ外から漂うトリュフの香りと合流し、壮大な風味を奏でる。
内からも外からも誘惑する味物に落ちない者はそうそういないだろう。
たった一口齧っただけで当職はトリュフの虜になっていた。
そしてたった一口でトリュフを頬張る。
当職のトリュフに対する最大限の持て成しであった。
口一杯に広がるトリュフはその香りで空気をも調理し、呼吸するだけでも腹が満たされる。
窓ひとつ無い殺風景な部屋に豪華絢爛な料理が並べられた。
徐に目を閉じ口を動かすとサクッ、サクッと軽快な音を立てる。
どうやら最初の一口を噛み締めている間に乾燥してしまったようだ、甘い衣がパリパリと剥がれ落ち舌に甘みをもたらす。
中からは先ほどとはまた一風変わった深みのある味がまろび出た。
以前旨味は干すと倍増するという話を耳にしたことがあったが、まさかこれほどまでとは。
ひと噛み毎に豊かな風味が溢れ出し、口から漏れないようにそのまま一気に飲み込む。

ごくり。

……ああ、うまかった。

フルコースを完食し満腹感に浸る。
この時の当職はどんな顔をしていたのだろうか。
確かめる術はないが恐らく、ぼんやりと恍惚感に満ちた表情をしていただろう。
長年培ってきたものを全て忘れさせてくれるようなものが、そこにはあった。
一頻り余韻を味わい目を開くと、いつの間にか寝室は元通り殺風景な部屋に戻っており、微かに残った芳香が哀愁を漂わせていた。
既に過去となった晩餐を思い返しては溜め息をつき、かつて料理が並べられていた姿を想像して虚空を眺める。
どうしてこんなにも切ないのだろう。
考えるよりも先に眠気が襲ってきたので明かりを落とし床に就いた。

布団は温かく香りに満ちていった。

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