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恒心文庫:盆踊りと地名にまつわる記録の抜粋

提供:唐澤貴洋Wiki
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本文

時は寛永、日本全土で旱魃、凶作が続き後に寛永の大飢饉と呼ばれる飢饉が発生した。
それは当地でも例外ではなかった。
西部には沖積平野が広がり、ある程度作物も取れたが、東部には下総台地と呼ばれる洪積台地が広がり、
耕作には適さず特に飢饉が激しかったそうである。
洪積台地は、地下の水脈から遠く耕作にも居住にも適していない。
住宅地として開発が進んだのは水道技術の発達した近代になってからである。
洪積台地かどうかは地名に「台」や「丘」という漢字が入っているかどうかでわかる。そのような地名で今は住宅地として発展しているがルーツを見ると被差別部落であったという所は驚くほどに多い。
さて、そのような居住に適さない箇所に仕方なしに住んでいたのは、いわゆる穢多非人と呼ばれる人々であった。
彼らは川のそばに住まわされていたともいわれるが、居住にまったく適さない洪積台地にも住んでいたことが様々な研究により明らかになっている。
被差別部落であるため地下が安く、台地は戦後にデベロッパーにより好んで買い付けられ、事情を知らない人々に新興住宅地として売られたのであった。
さて、飢饉に苦しんだ当地の人々は儀式を行い、天に慈雨を望もうとした。
やぐらをたて、三日三晩歌と踊りとを続けた。
しかし効果がない。歌と踊りだけでは満足しないと分かると生け贄をたてることとなった。
やぐらの中央に人をはりつけにできるようにし、その生け贄を探し始めたのである。
ところがこの生け贄は、当然のことではあるが、皆拒否してなかなか決まらない。
そんな折である。祭りの雰囲気に誘われてか、一人の旅人が迷い込んできた。
住人は嬉々としてこれを迎え入れ、少ない食糧からやりくりしてもてなした。
旅人は、なぜ自分がこんなに歓迎されるのだろうかという疑問をもったものの、客人扱いに満足し、享楽した。
旅人が眠ったすきにやぐらの中央にはりつけにした。旅人は目を覚ますが時はすでに遅い。
叫び声をあげ抵抗するが、これに迷惑した住人達は旅人の首を切り落としてしまう。また、その体はバラバラに刻み耕作のための肥料とすることにした。
首は台に載せられ天に捧げられた。しかし、これでも雨は降らない。
そんなときである。五人組の行商人の一行が当地を訪れた。彼らは鋤や鍬など、旱魃の今は無用なものを売り込みに来た。
住人達は彼らを縛りあげ殺すと、また首を切り落とし、以前殺した旅人の首の隣にその五人の首を並べておいた。
体も例によって切り刻んだ。
こうすると、たちまち雨が降り始める。数ヶ月ぶりの雨である。住人達は大喜びし、行商人の鍬と鋤とで田畑を耕した。
集落全体がなんとか生き延びるだけの食糧を得ることに成功したのである。
六人の身を刻んだことからこの地は六身と呼ばれるようになったが、後世になり陰惨な歴史を隠蔽するために漢字を変えた違う名前に改称された。
特に、六つの頭(こうべ)を並べた台が置かれた、ひときわ差別の酷かった土地は、そこが台地であることとも合わせて六頭台(ろっこうべだい)と呼称されたが、ここもやはり同様に今の地名に改称された。
また、雨乞いの儀式を取り仕切った被差別部落の長は、神の機嫌を取ったことからそれに因んだ名前をつけられ、今でも部落全体の監視を行っているという。
今でも、この雨乞いの儀式は伝統として続いている。
お盆をすっかり過ぎた季節外れに盆踊りが開かれるのは、雨乞いの儀式を踏襲しているためである。
もし、部外者が紛れ込むとどうなるかは、紙幅の都合上割愛させて頂くが、想像に難くないと思われる。

(終了)

この作品について

毎年8月末には、ちばけんま周辺の六実連合町内会主催の納涼盆踊り大会[1]が行われることが知られており[2]、アサケーでは六高台2丁目でも練習が行われることが開示された[3]。本作品はそこから題材を得ている。

リンク・註釈

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