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恒心文庫:形而上学的論理観とハセ学

提供:唐澤貴洋Wiki
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本文

人が極僅かの論理回路を誇張化させて論理を語るのなら、それは人間本来の精神である。人間という巨大なメカニズムは、自らに拠るところの精神を持ち合わせ、それに従い、遵奉し、この世界に投げ出されている。
その精神は形而上学的論理観を肯定させる価値観を顕示化させたもので、不思議なことに其の「観方」は見掛けだけ肥大化した論理さえ丸々ふとった客観的法則における論理に見えるのだ。それゆえ、人は『客観的精神論理における拡大化作用』に何ら違和感を感じることは無く、挙句の果てに『矛盾』と言う精神の壁にぶつかり、結局は破滅に陥れられるのだ。

今現在、インターネット上では「ハセ学」と言う一種の学問体系が存在し、『精神としての』現代の哲学を新たに問いかけている。
物事の発端は、長谷川亮太と言う人物が唱えた「自己中心的な論理思考」における「形而上学的論理観」の、陥る〈破滅〉と言う一筋のマスター・ナラティブ的な倫理である。
彼は、俗に言う「自分語り」(自分の私情を話すこと)を過度に行い、多くの人の怒りの情を買ったことが〈破滅〉に至らしめた。
この「自分語り」は、インターネット上では厄介視されている傾向が存在するが、あらゆる意味における(道徳的命法に拠る自己主義、主観的霊性など)自分語りは、誰彼が行っている事なのだ。

しかし、誰彼が行う自分語りで、何故に長谷川亮太だけが〈破滅〉に至ったのであろうか。そこには「オーウェリアン的道徳」が秘密に関わっていることを我々は知らなければならない。
オーウェリアン、而してオーウェルが描いた監視社会がインターネットに「現実で」存在しているのだ。
多くのSNS、掲示板、それらは匿名と言う仮面を被った人間(もしかしたら人間以外の生物も当然有り得る)たちが会話を楽しんだり、意見を交わしたりする場である。この「仮面」は非常に複雑且つ単調なもので、自分で脱ぐことも出来れば更に重ねて付けることも出来る。
仮面は我々に遍く与えられる。その仮面を外す事こそ『自分語り』なのである。
仮面を脱げば、そこにあるのは素の、現実の利用者である。仮面を脱いだ利用者は最早ネットでも現実でも変わらない。だが、現実は皆が「顔」と言う仮面を公平に持っているのに対し、ネット上では「仮面」と言う仮面が相手を匿名性に仕立てあげ、圧倒的なアドバンテージが生まれるのである。しかもこの仮面は新たに付けることは出来ないのだ。代わりに「新たに作る」事ができる。

無論、仮面を外す行為はこれだけではない。同時に仮面を重ねる行為も今挙げただけでは枚挙に暇がない。しかし〈オーウェリアン的世界観〉であるインターネットで、(オーウェリアン的道徳)が作用している事を忘れている、この忘却こそが自分語りの〈破滅〉ではないのだろうか。

今日、あの街にシールを貼った。
昨日、あの建物に炭酸飲料を置いた。
それらの事象、自分が起こした事々を誰かに反応してもらいたい、自分が思ったことを伝え
、それを叶えるのがSNS、掲示板の本質であり、前述した通り『誰彼が行っている』のは列記とした事実なのである。寧ろこの事実を否定されてはSNSや掲示板の存在意義は漂白されてしまうだろう。
だがしかし、形而上学的論理観は皆が皆それを持ち合わせていて、しかも客観的精神論理の拡大化作用に何ら疑念を抱かないゆえに、ふとして「オーウェリアン的道徳観」を忘れてしまう事がある。そしてそれを拡大化作用によって拡大化され、それが精神という鏡によって観せられている。

試しに此処で長谷川亮太の残した発言を分析してみる事にしよう。

『俺は嫌な思いしてないから』
『それにお前らが嫌な思いをしようが俺の知った事ではないわ』
『だって全員どうでもいい人間だし』
『大袈裟に言おうがお前らが死んでもなんとも思わん』
『それはリアルでの繋がりがないから』
『つまりお前らに対しての情などない』

この発言(一部は名言として扱う)の内容論理を見てみると、「俺は嫌な思いしてないから」や「お前らが死んでもなんとも思わん」などの〈オーウェリアン的道徳を無視した言葉〉の数々が並んでいることに気づけるのではないのだろうか。
この「俺は嫌な思いしてないから」理論は自己主義の大頭とも言える論理の名言であり、自己本質を肯定する代わりに自己対面的本質も肯定させるため、諸刃の剣に近い。それゆえにオーウェリアン的道徳を蔑ろにした結果、〈破滅〉が微笑を浮かべながら待っている。
破滅には様々な形があり、それは死に至る病でもあるし、またまた死そのものでもあるし、他には永劫回帰的絶望の具現でもある。
これらに共通することは、オーウェリアン的道徳観の天罰に近いもの、匿名主義に扇動された世界からの『不可視の攻撃』によるものである。

そう分析してみると、『ハセ学』と言う哲学は形而上学的論理感と客観的精神論理が混合し、それが監視社会と言うオーウェン的な道徳によって反射されられ、そして破滅に至る道筋の過程に過ぎないのだ。
だからハセ学を用いて功利主義者と論争をすると、トロッコ問題でも「自分にはどうでもいい」、つまり「俺は嫌な思いしてないから何も思わない」と言う他質的利己主義の嫌味たっぷりな論駁で放棄してしまうため、功利主義者から見たら単なる試合放棄にしか見えないのだ。

結果的に破滅に陥れられても、ハセ学を用いたら何も反論できない。
そう考えると、切れ味は抜群だが耐久力のない武器に相当する。
我々の持つ形而上学的論理観を毅然として扱う事がそれらの慣れに値するので、ハセ学にしろ、功利主義にしろ、何物もストイックな観方をする事こそが本質を語る上での必要なことでは無いのだろうか。

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