恒心文庫:女の腐ったような奴
本文
山岡裕明がいつからそう呼ばれ始めたかは、彼自身にも定かではない。ただ記憶にあるのは、青春時代に陰でそう呼ばれているのを知り、金切り声を上げながら怒り狂ったこと、そしてその反応が皮肉にも不名誉な渾名の普及に一役買ってしまったこと、それだけだ。
あるいはそれは彼の生まれつきの性質なのかもしれないし、あるいは小学生の頃から肉便器扱いされたことが影響しているのかもしれない。いずれにせよ彼はヒステリーの持ち主で、常に乳首がビンビンであった。あとついでに胸毛が濃い。
そんな彼が、一般に無能と呼ばれるような同僚とともに仕事をして、その悪癖を晒さぬはずがないのであった。今日も東京都港区虎ノ門5丁目11-1オランダヒルズ森タワーRoP707法律事務所クロスには、顎髭を整えた面長弁護士の、聞くに耐えない罵詈雑言が響く。
「この、デブゥゥゥゥゥ!違うだろ!違うだろぉ!違うだろぉぉぉぉ!」
このの発端はこうだ。つい先日、同僚の唐澤貴洋(これは彼の本名でもあり、また彼の罹患している先天性障害を指す言葉でもある)がテレビに出演した。以上。これ以上解説することはない。理由は定かではないが、ともかく『女の腐ったような奴』にとっては、何かが気に食わなかったのだ。
ネットで受けている仕打ち同様、一方的に誹謗中傷を受け続けている唐澤は、涙目になりながらも「到底許されるべき行為ではない」とか「君は親を殺すことが出来るのか」などと言おうとしているようだが、圧倒的な山岡の迫力を前に、肥満体を震わせながら口をモゴモゴと動かすばかりである。これがもうすぐ40歳を迎えようとする男の取るべき反応なのだろうか。
しかしここで、肥満の無能弁護士にとって、救いとなるかもしれない出来事が訪れる。もう一人の同僚、山本祥平が事務所に戻ってきたのだ。
「おっ、やってるやってる」
まるで暖簾を潜りながら吐く台詞のように、彼はドアを開けながらおもむろに自分の席へと向かう。暴力に強い弁護士だけあって、このような場面にも決して動じない。いや、山岡がヒステリーを起こすのは日常的な出来事であるので、単に慣れただけかもしれないが。
「山岡さん、今日もはりきってますね〜」
山本の発した軽口に対し、山岡はギロリと睨みを飛ばす。しかし怒りの矛先が軽口の主に向かうことはない。山岡は『女の腐ったような奴』ではあるが、馬鹿ではない。自分より強い相手には決して歯向かわないだけの賢さは持ち合わせている。
以前、唐澤の父、すなわち洋が止めに入ったことがあった。その結果どうなったか。「お前の代わりに息子を躾けてやっているんだ」と一括された洋は、その壊死した左足を引きずりながら退散するしかなかった。
またあまりの騒々しさに、隣室の事務所から苦情が入ったこともあった。しかし山岡のあまりの剣幕に恐れをなした彼は、全裸になって前転しつつ「シンゴー!シンゴー!」と叫びながら戻っていったという。
覚えておいて欲しい。世の中には、自身の怒りをコントロールできない人たちがいる。彼らは一見、人当たりがいいかもしれないし、あるいはイケメンや美女かもしれない。しかしその実、彼らは弱いものたちに当たり散らし、傷つけ、時に死に追いやって悦に浸るのだ。そんな連中がのうのうと生きているのがこの現代社会である。
けれども、彼らもまた、そんな現代社会の犠牲者なのかもしれない。
挿絵
リンク
- 初出 - デリュケー 女の腐ったような奴(魚拓)
- 法律事務所クロスの隣人
- 恒心文庫:密かな楽しみ - 登場人物が同一
- 恒心文庫:パワハラ乳首 - 同趣向の作品