恒心文庫:力を。
本文
定時上がり、初夏の夕方はまだ全体沈まぬ西日が辺りを包んでいる。
男は複数件の訴訟案件に全力投球し疲労した恵体の肩を揺らし、マイサティアンを目指していた。
いつもの駅から暫く歩くと、真新しいマイサティアンが見えてくる。
玄関の扉を開け、ただいま。と、リビングまで響く声量で声をかける。
おかえり。という声はしない。声なき声もしない。
リビングルームの灯りも、点いていない。
地下への階段を下り、建て付けの悪いドアの微かな隙間から伺うと、親父は趣味の緊縛を楽しんでいた。
ランプの小さな灯りが照らす中で、天井のフックから垂れた麻縄で自縛している。
これはいつも有能で仕事人間の親父が、唯一自分に戻ることが出来る一瞬なのだ。
男は、そっとしておいた。
次に、勝手口から裏庭へ出ると、オカンは家庭菜園を手入れしていた。
雑草はきれいに間引かれていて、畝に幾つかの大根の葉。
そんなに立派な大根を育てて、どうするつもりなのだろう。
しかしこれが俺をここまで育ててくれたオカンの、老いらくの大切な趣味なのだ。
男は、オカンに気づかれないようそろりとその場を後にした。
最後は寝室に向かい、そのドアを開けると、妻と娘はベッドの上で寄り添い横たわっていた。
大方夕方遊んでいてそのまま眠ってしまったのだろう。
妻の右の手は娘の肩にかかり、細身のシルエットと小さな小さな娘の身体は仲睦まじく止まったまま。
不規則にチカチカ暗点を繰り返すテレビの光と、音声だけが、部屋に動的な気配を与えていた。
男が一通り家中を回り、誰もいない暗いリビングに戻ると、西日は半分近く沈み紫の空の向こう夜が迫ってきた。
冷凍庫から棒つきアイスを取り出し、広いリビングにぽつんとあるテーブルに腰掛け、口に含む。
ぷ~ん(笑)。どこから入って来たのか一羽のハエが集ってきた。追いかけ、手こずり、潰し損ね。
ヾ、ィヘゞ'""ハ从,ヾ〃スルメ ノ _ィ ~ヾ ≧ _,,,.... - - - - ...,,,,__ ≦ Σ ; | )( |ii < Z .i リ ´~"''‐ィ !ヽ,..、-''"| Σ \ヽ人_从人__从_人__从_从人__从_人__从_从人_人/ z、,' r'遵丶}liil{ r遵丶 ', _Z ≧ああああああああああああああああああああああ< { ',j リ. } -=ニああああああああああああああああ!!!!!! ≦ ヾ_| ノ( 、,,_,,, ト/ ≧ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ!!! ≦ | ^ ,r-----、. ,' /Y⌒YWW⌒W⌒Y⌒WW⌒W⌒Y⌒W⌒Y⌒WW⌒Y\ ', |!!il|!|!l||l| / /:丶 .!ェェェェェ.! ノ; `;、 _,-'7: : : ト`‐ 、_,,,,-=彳: : : :ト- ,_
あふれる限りの怒りをぶつけた後、醒めた冷静を取り戻す。
「…私の中にはいつも弟がいます。」
けれど、時々、こうして狂おしい悲哀に包まれる。
悲しいなあ。
だって独りなんだもん。
みんな死体なんだもん。
フローリングの上、西の空で絶命してゆく夕日の最期の一筋に照らされて、砕けたアイスが溶けてゆく。