恒心文庫:ハンモック
本文
街はしばしば人体に例えられる。
張り巡らされたインフラに、水が、ガスが、電気が通る。そして車が金を運び、人はどこまでも流れていく。しかしそこに血は通っていない。
眠らない街セッタガヤー。泡の様に無数に浮かび上がるネオンを背に、一人の男は人ごみを進んでいた。覚束ない足取りで、額に汗を浮かべながら。今にも倒れそうなその男に、周囲の人々はちらと視線をやるものの、それだけである。物珍しげに向けられた視線を掻き分ける様に男は進んでいる。
しばらくして、男は裏路地についた。幾つもの交差点を越え角を越え、入り組んだ路地を抜けた男の遥か後方にネオンの光が瞬いている。
その静かな通りに男は注意深く視線を走らせ、やがてその場に座り込んだ。じっとりと濡れた白いもみあげが揺れる。男はそのまま夜空を仰ぎ見た。
ここ数年急速に進歩した情報社会。無秩序に膨らむだけだった街はまるで脳を得たかの様に、方向性を模索し始めた。高速でやりとりされる情報。暴かれていく真実。今まで虐げられていたものたちは声高らかにネットを利用した。本当の平和。真の平等。ホモ、レズ、両性具有といったセクシャルマイノリティ少数派にとってネットは一つの救い主に見えた。こういう人たちが居ると世界に発信することで、人々に認識され、居場所が出来た様に感じるからだ。
しかし、現実は残酷だった。こういう人たちが居る。ああいう人たちが居る。繰り返されるマイノリティの言葉は、繰り返される度に普通との違いを強調していく。こういう人たちがいる、ここが普通とは違う。ああいう人たちが居る、こういう所がおかしい。やがて否定する情報に嘘や真も入り混じって、実情から離れた化け物が情報社会に立ち上がる。
マイノリティという秩序を乱す化け物。必要以上に強調された化け物の輪郭を、普通の人々は恐れた。そしてある日、誰かが言ったのだ。化け物を倒そう、と。
空を掴もうとするかの様に突き立つビル群。その姿を笑うかの様に、星は空高く瞬いている。男はしばらく空を眺めた後、投げたされた自分の両足、その間に目を向けた。
そこには第三の足と見まごう巨大な陰茎が横たわっていた。白い毛が渦巻く根元から、足先へと伸びる肉茎。その薄く張り詰めた皮の内側で先程から何かが蠢いている。ぼんやりと眺める男。その視線の先で、まるで脈打つ様に皮を波打たせ、やがて何かがそのすぼまった筆先を掻き分けて顔を出す。
それは唐澤貴洋であった。薄く濡れた瞼は今だ固く閉じられている。唐澤貴洋は男の包皮にくるまって眠っているのだ。
自分のチン皮の中で幸せそうに眠る唐澤貴洋を見て男、唐澤洋は柔らかくほほえんだ。
実は、唐澤洋は有袋類だった。伸びきった包皮に息子を包んで育てている。突発的に飛び出す精子だって夏場だと特に溜まるちんカスだって、息子唐澤貴洋の大事なご飯だ。
父親だって祖父だってそのまた祖父だって代々そうやってやってきたのに、なぜ。
怒りに身が震える唐澤洋の耳に、複数の足音が聞こえてきた。
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- 初出 - デリュケー ハンモック(魚拓)