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恒心文庫:ハナクソのかたまり

提供:唐澤貴洋Wiki
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本文

「地獄におちろ」
唐澤貴洋はニガニガしげに口を歪ませながら、右手を勢い良く振り下ろした。
途端、夜を硬い破裂音がつんざく。
唐澤貴洋は余韻に身をブルブルと震わせると、しばらくしてまたユルユルと腕を上げていく。きつく握り締められた握り拳、その血の気の失せた指がムチムチと軋みをあげながら月明かりに浮かび上がっていく。
月明かりの下、唐澤貴洋の右手にはトンカチが握られていた。貴洋の拳、その硬く握られた内側から伸びる木の柄の先で、黒々とした金属のカタマリが鈍く輝いている。その暗い光が、ふと弧を描き、落ちていく。
誰もいない事務所で繰り返し響き渡る音に、貴洋の身が震える。貴洋だけではない。月明かりの差し込む窓ガラスが震える。葉擦れの音と共に観葉植物が震える。重なりあった調度品が軽い音を立てて震える。積み重なった重要書類が震えて崩れていく。
幾重にも積み重なる音の群れの中で、貴洋の指が震える。腕が震える。顔面が震えて汗が飛び散る。貴洋は酔いしれた様に身を震わせて、また右手を持ち上げて行く。
そうして貴洋は、何度も洋の机を打つ。
黒檀から切り出された一枚板、その重厚に広がる美しい木目目掛けて、貴洋はトンカチを振り下ろしているのだ。きめ細やかな年輪の重なりは幾筋ものヒビに貫かれ、その先を追いかけ回す様にした貴洋は右手を振り下ろして回っているのだ。
しかし貴洋はヒビを追いかけ回して等いなかった。木目を狙って等いなかった。机を覆う様にして貼り付けられた写真。数え切れないほどに並べられた貴洋の成長記録目掛けてトンカチを振り下ろしていたのだ。
貴洋は知っていた。父洋がこの写真をじっと眺めながら顔をほころばせている事を。時には手にとってもの思いに耽っている事を。そしてその後には決まって、貴洋を祈る様にして見つめる事を。
強くなりたい。それは貴洋少年の切なる願いであった。貴洋青年の、そして貴洋中年の切なる願いであった。
思えば貴洋に降りかかるのはいつだって苦難であった。曲げられたネクタイ。悪かったもあった。悪いものたち。ではさよなら法政二中。
だからこそ貴洋は願ったのだ。幸せが欲しいとは言わない。襲いくる苦難に立ち向かう強さを。ただ自分らしくある力を。
しかし人は、変わろうとする時、過去の自分をこき下ろさずにはいられない。それが大切な思い出でも、悪しき頃として考えねば人は前に進めないのだ。
貴洋はまず、一日一回ネットで今の自分を殺す事にした。悪しき自分との決別だ。そしてワザと殺意を向けられる様な弁護士を演じ、不特定多数に自分を無数に殺させた。
次に、体を鍛えた。山にこもり、長い谷、川を走破した。そして中近東の紛争から帰還した頃、186*100*36と化した彼は座禅しながら跳ねていた。
さらには開示。顔も声も分からない相手を、自分に向けられた殺害予告、その殺意のみを手掛かりに探り当てるのだ。様々な殺意が、貴洋の心の無駄を削り落としていく。
そして今、貴洋は過去の自分を殺している。汗を垂らししかし休むことなく、ひたすらしらみつぶしの様に過去の記録を抹消していく。貴洋はもはや振り返らない。それが父親にとって大切な思い出でも。老い先短い父にとってかけがえのない財産であっても。父が息子と過ごす平和なひと時を望んでいるとしても。
貴洋は今を見ない。過去も振り返らない。ただ、かつての弱い自分の様な存在でも、ありのままで居られる様な、優しい世界を目指す。泣き叫ぶ自分の声に耳を塞ぎつつ、貴洋は口にするのだ。
「声なき声に力を」

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