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恒心文庫:コンパスの針は赤く錆びて

提供:唐澤貴洋Wiki
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本文

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


人間の尊厳性と高貴性は精神に、病気にあるのであって、一言でいうと、人間は病気であればあるほど人間であるのである。(魔の山)


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

Kは左腕を撫ぜていた。
 肥えた指先が、彼の左前腕をそろそろと、まるで絹の布の上を滑るように這ってゆくのを僕は眺めていた。
 いましがたついたばかりの傷。幾筋か垂れている血液。
 僕は医学について詳しくはないが、黒々としたそれは、きっと静脈の血液なのだろう。
 夕陽が事務所を赤く塗りつぶしている。それは僕の体をめぐる血流よりも赤く思えるが、彼の傷口から流れる赤よりも新鮮に見える。
 煙草を一口吸う。ろくに肺に入れず、吐き出したケムリは白く空中に湧き上がり、やがて空調に処理されて消えてゆく。

「K?」、僕は灰を落としながら呼びかけた。

 なに、と小さな声が返って来る。

「僕は、ありとあらゆる行為には、なんであれ『理由』があるのだと考えている」と僕は言った。
「僕らは金を稼ぐために働き、食欲を満たすために物を食べ、反応を楽しみたいがゆえに刺激的な行為をおこなう。
 行動を下で支える土台として、常に理由が存在するはずだ。倫理的に正しいとか正しくないだとか、そういった判定はそこには要らない。
 とにかく《存在する》のだと、そう考えている」

 思ったとおり返事は無かった。
 ……そもそも、僕の言葉を彼が聞いているのかも怪しいものだ。
 Kの指はあいかわらず左腕を這いつづけている。その指先は、夕陽ではない別の赤に塗れている。
 彼の三日月の瞳はその腕を、赤を、もしくは傷口を、慈しむように見つめている。

 僕は彼が見つめている傷を見た。
 彼お手製の傷。コンパスの針で深くつけられた傷。
 腕のキャンバスに、赤い血を絵具代わりにして書かれた漢字四文字。
 僕の名前。

「なあ、K」と僕は再び呼びかけた。
「その前提で長い間考えてきたんだが、どうにも僕にはわからないんだ。きみの《その行為》には、どういう理由があるのかな?」

 Kの動きが止まった。彼は焦点の定まらない瞳を僕に向けた。それは僕というよりも、僕がいる空間全体を漠然と見ているような瞳だった。

「……僕には、そういったことが意味のある行為とは思えない」
 2本目の煙草に火をつけ、紫煙を吐き出しながら僕は言った。
「わかるかな。「行為」に対する「理由」が、僕にはみつけられないんだ。……なりより、痛いだろう?」

 Kはしばらく何も言わなかった。彼はどこか遠いところへと精神を漂わせているようだった。
 その沈黙は意味をもって作るような――つまり、なにかしら返答を考えるためのような、そういう沈黙ではなかった。
 ただ、そこにぐったりと横たわっているような沈黙だった。
 彼は考えているのかもしれない。考えていないのかもしれない。
 僕への返事の代わりに、ロリドルやSのアイスのことを考えているのかもしれない。昨夜の性交の残滓に思いを馳せているのかもしれない。
 もちろん何も考えてない可能性だってある。
 それでも僕は辛抱強く返答を待った。

「……儀式、ナリ」

 2本目の煙草がフィルター間際まで綺麗に燃え尽きてしまったころ、Kは口にした。

「儀式」、僕は彼の言った聞きなれない単語を繰り返した。「儀式って、どういう意味かな」

「……忘れないようにするため、ナリ」

「僕を?」

 返答のかわりにひとつうなずくと、Kは腕に刻み込んだ僕の名前をそっと撫ぜた。
 血小板によって凝固されつつある血液の上を、丸々と肥えた指先が触れてゆく。

「これは、儀式ナリ」、再びKは言った。

 僕は返事の代わりに煙草を灰皿でもみ消した。

 ***

 忘れないようにするためなのだ、と彼は言った。
 忘れないようにするための、《儀式》なのだと。
 それは半分ほど本当だとは思う。
 しかし、すべての理由ではないと僕には思える。
 彼は無意識に、もしくは《意図的に》、いくらかの理由を隠しているのだ。

 でも、そんな理由を詮索したって、何も変わりやしない。

 だってKの握ったコンパスの針は、今日も確かに、赤く錆びているのだ。

 僕の名前をその左腕に刻むために。

 僕とKは同期の弁護士だ。
 僕はしばらく前にちょっとしたことで所属事務所を辞めており、そこを彼の父親に拾われた。
 よく言えば、ヘッド・ハンティングとでも言うのかもしれない。断る理由は考えてみれば何もないので、僕はその事務所へ入った。
 そうして、Kと本格的に関わりをもつようになり、それはやがて肉体的な関係をもつ部分まですすんだ。

 Kはどこかぼんやりとした感じの男だった。
 夢想家気質と言ってもよいのかもしれない。あるいはある種、詩人的な性質。
 肥大化した己の理想に振り回され、ありもしない「優しい世界」を探していそうな男。
 彼はいつもどこか遠くのほうを眺めていて、たまに声をかけても反応しないことがあった。
 まるで彼には2つの世界があるように思えた。こちらの現実世界と、どこか抽象的な、空想の世界とでも呼ぶべきものとのあいだ。
 波間をただようクラゲのように、彼はふらふらとその2つの世界を渡り歩き、ときにはこちら側にいるように思えることもあれば、ときには向こう側にいるようにも思えた。

 ……もちろん、弁護士という実務的な職業においてそれはあまりよい性質とは言えなかった。
 僕はインターネットにあまり詳しくないので後になってから知ったのだが、彼はネットで局所的に有名であるらしかった。
 それも悪い意味で、だ。

 頭の痛くなっていきそうな情報を探っていくうちに、僕は彼がかつてtwitterに投稿したという詩を見つけた。
 ……いや、それは「詩」と呼ぶのもはばかれるようなものだった。
 解釈の自由が低く、抽象性を固有名詞で台無しにしている。酒に酔って書いたとしか思えない。

 稚拙なその文章をかつての事務所の「公式アカウント」で投稿していたという事実は僕を少しあきれさせた。
 中学生じゃあるまいし。
 しかし僕はそれを彼に話すつもりもなかったし、何より新しくやらねばならない業務は目の前に山積みだった。

 僕が彼の《儀式》をはじめて目撃したのは、それから少ししてからだった。

 その日は本格的な冬が始まったころだった。
 体型の割に寒がりのKは暖房をひどくきつくかけるところがあったので、その日もぬるい空気が漂う事務所の中で、僕はネクタイをゆるめて書類の整理をしていた。
 Kの父親は所用で席を外しており、事務員はすでに帰っていた。
 僕ら2人は、会話も交わさずに互いの作業をおこなっていた。
 窓の向こうではビルの谷間に原色の夕陽が沈んでいく。きっと明日になれば生まれたての胎児のように、ぬめぬめとした朝日が顔をのぞかせるのだろう。
 大体の作業を終えた僕は、先に帰ることを告げようとKのデスクを見やった。

 はじめ僕はKが怪我をしたのかと思った。
 シャツをまくりあげた彼の左前腕から、赤い血が流れ出すのを見たからだ。
 しかし、すぐにそれは《彼自身が》おこなったのだとわかった。
 Kは右手にコンパスを握りしめており、その針の先端は赤く染まっていたのだ。

 Kは無表情に自分の左腕を見つめていた。
 僕がどんな表情をしていたかなんてわからないが、きっと相当に奇妙な顔を浮かべて彼を見つめていただろう。

 しばし逡巡してから、「……なにをしているのかな」と僕は慎重にたずねた。
 こういった場合、どういった言葉をかければよいのかなんてわからない。

 Kはこたえなかった。彼は自身の左腕をじっと観察していた。

 彼のそばへ歩みよってその傷を見たとき、僕は息をのんだ。
「なあK」、僕はなるべく平静を保つよう心掛けながら言った。「どうしてそんなことをしているんだ?」

 相当深いところまで針を突き立てたのだろう。黒々とした血があふれ出していた。
 でも、僕がそのとき一番驚いたのはその傷の深さよりも、その傷口のカタチだった。
 それは、僕を表す漢字四文字を象っていたのだ。

 Kはなおも沈黙をたもっていた。それは僕との会話を拒絶するというよりも、どこか遠い世界へと彼の意識を漂わせているように思えた。
「K」、僕が大きめの声で呼びかけると、やっとKは僕の方を向いた。

「どうかしたナリか?」

「どうかした、じゃないよ」と僕は困惑しながら言った。
「その傷……いや、痛くないのか、それ。早いところ消毒したほうが」

 Kは何も言わず僕の顔を見つめていた。
 彼の表情は相も変わらず何の色合いも浮かべていなかった。お面をつけたような無表情だった。
 そのアシンメトリーの瞳に見つめられていると僕は、心の根っこにある部分をぐらぐらと揺さぶられるような感触がした。
 まるで地震の初期微動のように。

「……書類の整理、終わったから」

 ブラインドから差し込む夕陽が消えていったころ、僕はやっとの思いで口を開いた。

「だから……お先に失礼するよ。お疲れ様」

 単純なそれだけの言葉を発するのに、ひどく疲弊した気がした。
 僕は素早く事務所を後にした。

 お疲れさまナリ、とKが後ろで言うのが聞こえた。
 それは感情をまとった声というよりも、反射的に出ただけの返答にしか聞こえなかった。

  ***

 帰路、その光景は僕を混乱させつづけた。
 彼がそんなことをする意図も、僕の名前を書き込む理由も、当然のことながら僕にはさっぱりわからなかった。
 家に戻ってから僕はグーグル検索で「コンパス 恋人の名前を書き込む」なんて間抜けなキーワードで検索をかけてみたが、
 当然彼の行為の因果関係を説明してくれるような情報はどこにも転がっておらず、代わりに見つかったのは小学生の子どもを持つ母親に向けたコンパスへの記名方法(シールに書いて貼ろう)とかそんなものだけだった。
 悶々としたうちに僕は思考を放棄し、他の事柄で気をまぎらわせ、いつしか酒に酔って眠り込んでいた。

 2回目にそれを見たのは一週間ほどしてからだった。 
 外から戻った僕が事務所に入ると、Kはまたしてもコンパスを右手に握り、左手に僕の名前を刻み込んでいた。

「……なあ、K」
 その行為に触れるべきか否か、かなり悩んだ末に僕は言った。
「やめないか、それ?」

「やめる」、Kは静かにこたえた。今日は僕の声が届くところに彼はいたらしい。
「何をナリか?」

「それは、だからつまり……あー……自傷行為みたいなものを、ってことだけれど」

 Kはその日初めて笑った。
 からころ、からころとした笑い声が事務所に響いた。

「これはそんな妙な行為じゃないナリ」
 彼は傷口の上の凝固した血液をいとおしげに撫でながら言った。
「ちょっとしたおまじないみたいなものナリよ」

「おまじない?」

「これをしないとね」、Kはそっと言った。「なんだかひどく不幸なことが起こってしまうような気がするナリ」

「どんな不幸かな」

「わからない」、言うとKは軽く首を横に振った。「でもそれは、きっと悲しい世界ナリ」

 会話はそこで途切れてしまった。
 
 ***

 冒頭を含め、僕が彼の行為を直に目撃したのは3度だ。
 実際に、彼が幾度その行為をおこない、それが彼にどういう快感を与えていたか、僕は知らない。知る由もない。
 普段シャツに隠されている左腕を僕は見ないようにしていた。

 ――おまじない。儀式。

 彼の表現する言葉は正体不明な軟体生物のように僕の頭をすり抜けてしまう。
 それは彼のもつ世界を僕が共有できないからなのかもしれない。人間の精神を重ね合わせることなど、できはしない。
 すべては過ぎ去り、今はもうなにもわからない。でもそれは、いくら拭っても消えないDEGITAL-TATOOのように僕の脳裏に染みついている。

 立春の始まったころに、僕とKの関係は終わりを告げた。
 当然僕にとっては彼の行動は不気味なものとしか映らなかったし、そんな妙な人間と深い関わりを持ち続けたくもなかった。
 別れ話を告げるときにも、正直自分が刺されたりしないだろうかとひやひやした。ナイフでめった刺しにされたらどうしよう、と。
 でもそれは杞憂だった。僕のぽつぽつと話した言葉を聞くと、Kは「そうナリか」と静かにこたえた。
 至極あっさりと、こうして僕らの関係は終わった。

 翌日事務所へ出勤すると、Kのデスクからあの先端の赤く錆びたコンパスは消えていた。
 その日から僕らの関係はまたただのビジネス・パートナーに戻ったし、僕はKを通じて知り合った人と新しく恋人関係をつくった。

 ***

 今でも僕は時折夢の中で、Kのあの行為を見る。
 左腕にコンパスの針で乱雑に書かれた血の文字。僕の名前。
『これは儀式ナリ』、夢の中のKは、右手にコンパスを持って笑う。真っ赤に染まり、血で錆びてしまったコンパス。
『Yくんのことを、ずっとずっと忘れないための、儀式ナリよ』
 からころ、からころ。
 乳白色の世界で、彼の笑い声が響く。
『残りの理由を教えてくれよ』、夢の僕は言う。『僕を忘れないため、じゃ半分だろう』
 Kはこたえない。
 彼は笑い続ける。僕は空想の川を挟んだ向こうからそれを眺め続けている。

 ***

「……おい。おい!」
 乱暴に揺さぶられて僕は目覚めた。
 いつものようにホテルの一室に居ることに気づく。性交のニオイが残る室内。
「大丈夫かよ」と恋人は言った。「なんかお前、すごくうなされてたぞ」
 僕は醒めきらぬままにぼんやりと恋人の顔を見つめ、それから微笑んだ。
「大丈夫ですよ。何の問題もありません」

「びっくりしたぜ」、煙草に火をつけながらその人は言った。
「あんなにうなされてる人間なんて、生まれて初めて見たよ」
 ちょっと一服するぜ、と言ってベッドから降りる。オレンジ色の電灯が淡く室内を照らし出す。あの日の夕陽のように。
 その人はこちらに背を向けてしばらく煙を吐いていたが、「もう一眠りするか」と言って僕の方へ向いた。

 その瞬間のその人の表情は、とてもなじみ深いものだった。
 僕がKのそれを目撃したときに、きっと同じような顔をしたに決まっているから。

「……お前、何やってんだ、それ」、一音ずつ区切って放たれる言葉。
 僕は返事をせずに微笑むと、腕の傷口をそっと撫ぜた。
「これはね、儀式みたいなものなんですよ」



 僕の握ったコンパスの針は、今日も赤く錆びている。

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