恒心文庫:クロスする追憶
本文
「貴洋兄さん、ただいまナリ」
僕は鉛筆を置き、声のする方に振り返った。部屋に入ってきたのは齢16になる弟、厚史である。脂肪でパンパンになった丸い顔に大きな痣を作っている。
「厚史!?どうしたんだその傷……?」
「何でもないナリ……。それより兄さん、今日もパー券買ってほしいナリ……」
弟はそう言うと、学ランのポケットから大量に刷られた紙の束を取り出す。僕は小さく舌打ちをしながら財布から紙幣を三、四枚出した。
「厚史、その友達との付き合いはそろそろ辞めた方が……。」
「俺は兄さんみたいな出来のいい優等生じゃないナリ!あの人たちはお金を出せば俺に、当職に構ってくれるナリ……!」
厚史が学校でいじめられていると知ったのは五、六年ほど前である。小学生時代、罵られ無視されていた弟を庇ったのは他でもない僕だ。それが兄として、家族としての義務であると思っていた節もある。しかし、何より父親にさえ冷遇されていた厚史に対しての憐憫の思いも確かにあったのだ。
そんな厚史が関わってしまったのは地元の悪いものたちだ。彼らにとって名家のお坊ちゃんは良い金蔓でしかないのだろう、よくカツアゲされたりパー券を捌かされている。それでも弟は楽しそうに笑うのだ。
「兄さん、友達が出来たナリ!」
厚史は控えめに言っても頭が良くない。その上肝っ玉も大きいわけではない。これはいけない。何とかしなくては。僕が守ってやらないと……。
「貴洋、勉強は進んでるかい?」
満身創痍の弟に入れ替わるようにして入ってきたのは、優しげな表情をした父さんだ。
「父さん、厚史が……」
「貴洋は将来何になるつもりなんだ?会計士を継いでくれるというなら、そんなつまらない事を気にせず勉強するんだ。いいね?」
何かから目を背けているような父親の笑顔に反発するように、僕ははっきりと反抗の意を示した。
「弁護士になりたいんだ。悪いものによって悲しむ人がいない優しい世界を作りたいんだ……!」
小さな自立心の表明は、ドアの向こうで泣いている弟にも届いたらしい。
「兄さん、本当に大丈夫ナリ……?あの人たちに逆らったら……」
「大丈夫。何かあったらすぐ逃げるんだ。それはできるよね。」
「●はい。」
どんよりした雲が空を支配する多摩川の河川敷。降り出した雨がちょっと不吉だけど、これは僕たちにとっては始まりの雨なんだ。これから僕と厚史は悪いものに立ち向かう。緊張で渇いた心を潤すにはちょうどいい天気だ。
「おい、デブ!一人で来いって行ったよなぁ?誰だ?誰を連れてきたのかなぁ!?」
悪いものの一人がそう怒声を上げる。妙に老けた顔をしている彼に、僕は河原に手をつくことで謝罪の意を表そうとする。
「うちの弟が皆さんに御迷惑を……。お願いします、もうやめにしませんか。これ以上弟を、無能な弟を虐めるのはやめてください!」
「そうか……。なぁ、デブ!いいお兄さんじゃないかぁ?使えないお前のためにこうやって土下座まで……。俺は、感動したよ?〈br/〉でも死ね……」
リーダー格の男は土下座している僕の腹を蹴り上げる。濡れた石の上にガラクタのように置かれた僕の身体は、悪いもの達のサンドバッグとなって殴られ続ける。
ダメだ、意識が遠のく。口内は鉄の味がして気持ち悪い。咳き込もうにも猿轡のせいで呼吸さえままならない。吐きそうだ。全身が痛い。いつの間にか自由の効かなくなった四肢を縛られ、そのまま水面に叩きつけられる。
「んー!んー!!」
こんな状況に陥りながらも脳内では全く違うことを考えてしまう。
僕は弟さえ守ることが出来なかった。浮かぶ身体をローファーで蹴られながら、僕の意識は水底に沈んでいく。
「ハァ……ハァ……。さっさと、さっさと沈むナリィィィ!!!」
俺は叫びながら動かない兄さんの身体を踏みつける。よくも、よくもよくもよくもよくも……。
「おい、その辺にしたらどうだ?」
「ハァ……。感謝するナリ。」
当職は彼らに報酬である金を渡す。こんな端金で共犯者になるなんて、庶民の弱さがよくわかるナリ。
「なぁ、なんで実の兄を手にかけたんだ?」
「あいつは俺の事を守るフリして見下してたナリ。許せないですを」
そう言葉を濁すが、真意は別の所にあるナリ。俺は、当職は嫉妬していた。父洋に愛されてた兄さんを。出来のいい真面目な兄さんを。
愛なき父親に愛を。俺は家族に愛されるために厚史という人格を捨てるナリ。
今日からは生まれ変わろう。唐澤貴洋という人間に。