恒心文庫:オーミエール
本文
天井から垂れ下がった釣り針が皮膚を破り彼は爪先を震わせたが、僕が初めて針を手にしたときのように怯えて過呼吸を起こしたりはしなかった。
肌を貫く針が増えていくほど彼の身体は少しずつ宙に浮き、溢れた血が背中をつたう。鋭い痛みが全身を侵し尽くすと、それはフォクシーよりも甘い陶酔に変わる。
彼は学生のとき、こういうSMじみたショーを見せるパブで働いていた。
裸になって派手な化粧を施されていても僕にはすぐ分かった。僕は彼の身体の至る所にピアッシングをさせていたから。あれは嫉妬心かもしれない。一緒にいた仲間は血を見て吐いてしまい途中で帰ったけれど、僕は宙吊りになっている彼のショーを最後まで見た。蛾に似ている。
ショーが終わり、僕は裏口に立って彼が出てくるのを長い時間待った。
化粧を落とした彼がようやく出てくる。声をかけようとして躊躇っているうちに、停めてあった外車から小太りの男が出てきて彼に歩み寄り、花束を渡した。スーツ、時計、車、成金趣味の下品な男だ。
親しげに何かを話している二人の間に割り込んで乱暴に腕を引くと、花束がコンクリートの地面に落ちた。
僕はなぜこんなところで働いているのか尋ねた。すると彼は悪びれもせず淡々と「若いから」と言った。
「あと十年もしたら僕はただのおじさんになって誰にも見向きされなくなるけど、今は若くてきれいだから」
「あんなに血だらけになって、何がきれいなんだよ」
「うるさいな」
挑むような目を僕に向けて彼は僕の手を振りほどき、花束を拾い上げ、成金男の車に乗った。成金男は僕を見てほくそ笑む。あのときの僕にこれ以上の屈辱は無かった。
一人残された夜道で僕はひどい耳鳴りに襲われげえげえ吐いた。彼が不特定多数に裸を晒していることも、彼は今夜あの成金男のペニスを咥えるかもしれないということも、僕には耐え難かった。
けれど、不思議と別れよう縁を切ろうとは思えない。彼も僕と別れたいとは言い出さなかった。
彼は結局、店主が違法な風俗営業で逮捕されて店が潰れるまでショーパブのバイトを続けた。警察の事情聴取で、僕に言ったのと全く同じことを言ったそうだ。
「若くてきれいだから」
十年が経った。
僕の手で宙吊りにされ、ふうふう短く呼吸している彼の肌を撫でた。確かに昔のようなすべらかさは失われているように感じる。もう彼は、誰にも見向きされなくなってくれただろうか。
煙草に火を点けた。
「お前年取ったなあ」
俺は彼にどんなことを言えば傷つくのかをよく知っていた。
「もっと年取ったらどうなるの」
煙をゆっくり吐いた。彼は言う。
「あとは、死ぬだけ」
ふうん。
血が床に落ちた。煙が揺れている。呼吸の音がした。十年前と同じ場所にピアスがある。乳首をねじってやった。耳鳴りがひどい。