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恒心文庫:ばらの名前おしえて

提供:唐澤貴洋Wiki
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本文

 思い出は、色濃く残っているものから順番に思い出される。ぼくが兄貴のことを考えるとき、一番に思い出すのは、あのばらのことだ。
 あのころ庭に咲いていた黄色いばらは、夕日を吸って淡くきらめくのだった。ばらの名前を、兄貴が教えてくれた。ばらは何も言わず、黙って淑やかに咲いている。その姿をいつまでも眺めていたかったが、夕暮れはあまりにも短い。すると兄貴は打ち上げ花火の話をしてくれた。お前も見たことあるだろ? あれがきれいなのは、空に目いっぱい咲いて、燃え尽きて、消えてしまうからなんだ。

 毎年、冬期休暇が始まるとすぐ新幹線に乗って帰省する。一年のときからずっと付き合っていた恋人とあまり上手くいかなくなっていたから、東京を離れる言い訳としては都合がよかった。
「ただいま」
 玄関を開けると両親が嬉しそうに出迎えてくれた。ぼくはすぐに階段を上って自分の部屋に行き、荷物を置いた。チキンの香ばしい匂いがぼくの部屋まで届いている。けれどあのひとの存在が、リビングに行くのを躊躇わせる。あのひとは毎年、ぼくの母さんと一緒にキッチンに立ち、少し遅めのクリスマスパーティの準備をしてくれる。「あのひと」というのは、つまり、兄貴の彼女だ。
 兄貴とあのひとはぼくが中学のときからずっと付き合っている。家族ぐるみで仲が良いから、よくうちに遊びに来ていたけれど、ぼくはいつまで経っても慣れることができなかった。
 ぼくは割りと人見知りなたちで、「あのひと」と初めて会ったとき、兄貴の後ろに隠れていた。ねこみたいにくりくりの目がぼくを覗き込んで「かわいい」と笑った。
 彼女に微笑まれたときの胸の苦しさを、孤独だとか、悲しみだとか、寂しさだとか、そういう言葉で片付けてしまいたくない。だってあのひとはきれいで、品があって、優しい。少しでも嫌なところがあったなら、ぼくは彼女を憎むことができただろう。けれどあのひとはそれすら許してくれなかった。だからぼくはずっと、彼女との付き合い方が分からない。

 いつもどおり、家族みんなで食事をした。リビングには和やかな空気が流れている。ぼくは時折愛想笑いをするのみで、極力口を開かないようにした。一度口を開けば止め処なく言葉が溢れてくるに違いないからだ。
 なんでこの人と付き合ってるの? なんでこの人が好きなの? ふたりが愛し合っているのは知ってる。でも、どうしてそれをぼくに見せるの? どうして、にいちゃん。

 風呂上り、下着類を洗濯機に突っ込もうとしてやめた。ぼくの下着と、あのひとの、それ、が、混ざり合う。嫌だ。気持ちが悪い。洗面台でごしごし洗って自分の部屋に干した。
 
 一人で庭に出て煙草を吸った。
 あのころのばらが、あのころのまま咲いていた。しゃがみこんで、ばらを眺めた。もう夜だ。花は月のあかりじゃ輝いてくれない。
「なにしてんだ?」
 庭にいるぼくを見つけた兄貴は、「冷えるぞ」と肩にカーディガンを羽織らせてくれた。
「お前も東京行って不良になったな」
 兄貴はぼくの煙草を取り上げて自分で吸った。
「返せよバカ」
「兄貴に向かってバカってなんだよ。昔は可愛かったのに」
 思い切り睨んでやったけれど兄貴は笑うだけだった。ばからしくなったぼくはもう一本煙草に火をつける。ゆっくり吸って、
「あのさ、にいちゃんは、あのひとと結婚するの」
 ゆっくり吐いた。うん、するよ。と兄貴が言った。時間が急に遅くなるのを感じる。声の奥にある揺るぎない強さをぼくは聞いた。
「急にどうした? 寂しいのか?」
「うん」
「お前、俺のこと大好きだもんなあ」
 ぼくは頷いて、黄色いばらを指差した。
「あのねにいちゃん、あのひとと結婚するとき、お嫁さんの髪に、あのばらはつけないで」
「いいけど、なんで?」
「ぼくの宝物だから」
 ばらの名前はいちばん星。夕日を吸って淡くきらめく。ぼくの宝物。あの美しい時間。あの後ろすがた。あの笑顔。ぼくのにいちゃん。
 もう消えてしまった、ぼくだけのもの。

挿絵

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