恒心文庫:さよならを教えてやろう
本文
貴洋はさよならをした。体が傾いていく。それに伴って傾く視界に、父の顔が見える。もみあげを大きく広げた驚愕の表情だ。当職は少し面白くなって、笑おうとしたが、口の端がかすかに上がるだけであった。もはや感情表現もできないほど、当職は疲れていた。当職は数瞬空を仰ぎ、そのままビルの側面を滑るように落ちた。
向かいのビルでは、多くの人が仕事をしていた。書類を作ったり、電話したり、お茶をくんだり、頬杖をついたり。思い思いに戦う彼らの一部が、貴洋に気づく。驚愕の表情だ。一様に口をポカンとあけて、窓の外に目を向けている。当職はかすれた笑みを彼らに向けて、窓から窓へと落ちていく。
どの窓でも、人が働いている。時計の針に急かされ、せかせかとせわしなく仕事の群れに追いたていられている。当職はあそこにいたのか、と今更ながら何となしに思う。不思議と心は落ち着いている。とりとめのないことを、ゆっくりと考えている。
あそこにいた時には時間がない、時間がないと喘いでいたのに。
こんな短い時間が、こんなに新鮮に感じるなんて。心が晴れ渡っていく。心が軽くなっていく。
やってやったぞ。貴洋は心の中で絶叫する。やってやったぞ。貴洋の体が絶頂を迎える。
ガクガクと身を震わせながら、貴洋は落ちていく。
というのも、貴洋は思い悩んでいた。貴洋は持てる者であったのだ。裕福な家、有能な父、高名な祖父。そうして恵まれた環境にいた貴洋は、周りの人々がしなければならないことを、しなくても別に生きていけたのだ。仕事も恋愛もまともな青春も、すべて経験しなくとも生きてこれたのだ。それは、貴洋に暗い喜びを与えた。あいつらが必死にしがみついているものを、自分は屁とも思ってない。周囲への嘲笑を抱きながら貴洋は思う。当職は選ばれたものだ。しかし同時に、富と名声を生まれながらに持つ者は、当然、高貴な者の義務を求められているものである。ただ、「下」を見ることに夢中になっていた貴洋には、高貴な者の義務を理解することはできなかった。
そして年がたち、貴洋は中途半端な立ち位置になっていた。義務も果たせず、「下」にも属せず、そのあり方が奇妙に映ったからか、ただ両者から不満の声を浴びせられる毎日。
貴洋は思い悩んでいた。
「お前たちとは違う」
下ばかり見ていた彼は、いつしか自分が生まれ育った家と、一族にもその思いを向けていた。まるであてつけのように弁護士になり、まるであてつけのように事務所をやめ、まるであてつけのように削除要請...。そして無限に繰り返し、彼の魂は擦り減っていく。
お前たちとは違う。その思いに引きずられ続けた彼は、いつしかビルの屋上にいた。そして気づいた。みんな生きてみんな死ぬ。なのに、みんな必死になって生きようとしている。なぜそこまでして生きなければならないのか。貴洋はまるで天啓に導かれる様にして屋上の柵に手を掛けた。と、そこで屋上のドアが勢いよく開いた。そこには、父がいた。クタクタなスーツに身を包み、玉のような汗を散らしながら、荒く息を切らせて。当職はそれを横目にさっさと柵に腰掛け、後ろへと倒れた。
生けとし生けるもの全てが必死になってしがみつく命を、貴洋は屁でもない様に放り投げたのだ。
お前たちとは違う。
心からの笑みを浮かべた貴洋は、そうしてあてつけの様に命を灰色の地面へと打ちつけた。
その数日後、父も落ちた。
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- 初出 - デリュケー さよならを教えてやろう(魚拓)