恒心文庫:さよならを教えて
本文
朝、目をこすりながら洗面台に向かう。洗顔を終え歯ブラシとコップを濯ぎ歯磨き粉を手にしてから気づく。
あれ、もう無い
別段急だった訳でもない。昨日から少なくなっていたのは分かっていた。端を捻って少しでも出ないかと期待したが、歯磨き一回分にも満たない量しか出てこない。
どこかの誰かの、朝の1ページとそれは相似していた。
資本主義社会の行き詰まり、若者の将来への不安、不景気だの地球温暖化だので騒ぐ世間の不満
そんな汚れたモノをネットに吐く事で明日も生きていける。まさに宗教的な熱狂ぶりをみせていたが、ある頃から彼らの間に閉塞感が漂う。
何故か?誰も説明できなかった。
イナゴは別の畑を貪り、ネットを拠り所としていた若者は仕事に追われ、過激な陶酔者は自分もピエロだということに目覚め項垂れた。
その間無限油田はいつもの様に噴き出し続けたが、人々が石油を必要としなくなっていたのなら。
元凶となった少年の行方は掴めず、その事に最早誰も興味を持っていなかったし、最盛期に対象とされた弁護士は良くも悪くも知名度が爆発的に広がり、日本でも有数の巨大法律事務所を経営するまでに至っている。
集いに残った者達も既に長くはないことに気づいていた。
それにより殆どの掲示板は管理者が自主的に閉鎖し、残ったメインもサブが無い故にメインと呼ばれる事は無かった。
騒動・コンテンツとして完全に衰退の一途を辿る中、その喜びや悲しみ等を懐古し楽しむためオフ会を開こうとする輩も現れたが、結局開催されることはなかった。
残った彼らの中心となった数名はその全員が最盛期以前から騒動と関わりを持っており、集合体の「馴れ合いはしない」という理念を忘れてはいなかった。彼らは終わりのその瞬間に際しても教徒としての意義を失わない、理念を尊ぶ真剣で、ふざけた集団だったのだ。
しかし、半匿名という珍妙な過疎コミュニティにも、理念の核であった「嫌な思いをさせる」が対象の許容化に伴い雲散霧消したために解散の危機が着実に訪れていた。
1人は正大師の称号を捨て、1人は騒動の全ての教訓が、各々のこれからの人生の基盤になるだろうと書き残し消えた。
1人、また1人と自分語りを辞め、理念と理想、現実を抱き去っていく。
残ったのは掲示板の管理者である私と、顔も知らない誰かの二、三人のみだ。予め今日が掲示板最後の日と宣言し、今までの歩みを存分に語りあおうと思っていたが、夜の11時を過ぎてもお互いの会話の殆どは空白が占めていた。
『終わったんやな 何もかも』
「これでええんや」
『また新しい、似たような優しい世界ができるんやろうなぁ』
「いかんのか?」
『いいじゃん(いいじゃん)』
『誰もが心の中にチンフェを飼っている』
…
自動閉鎖
…
最後まで他愛のない書き込みばかり。それでも満足感、充実感が私の内には漲っている。
端末の電源を切り、部屋の照明を落とした時、窓から差し込む月華が、部屋の隅で埃を冠っている野球道具を照らした。
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