恒心文庫:ありがちなミス
本文
長机に横たわる男は1人+α。机を囲む男は2人。
「ありがちなミスですね」
やや長身の男が言う。
「まあ、ありがちではあるな」
頭髪の幾分寂しい男がこたえ、机に横たわる男+αを見やる。
「しかし、よりにもよって、Hさんが間違えてボギー1の肛門に入ってしまうとは……」
「《よりにもよって》とはなんですか。Hさんを侮辱するような真似はやめてください」
「いや、そういうつもりじゃないって。熱くなるなよ」
はぁ。
2人のため息がハーモニーを奏でる。
賢明な読者諸氏は既に察しているかと思うが、敢えて状況を説明させていただこう。
長机に仰向けに横たわっているのは、「無能」「パカデブ」「真理の御霊最聖なんたら」などと目下ネットで局所的に話題となっている弁護士K弁護士である。
そしてそのKの肛門からは、有能たる父Hの首から下、つまりボディがつるんと飛び出しているのだ。
つまるところ、H氏が少々のミスにより、誤ってKの肛門に己の頭を丸々突っ込んでしまったわけである。
なるほど大騒ぎするほどのことではあるまい。Hは実にありがちなミスを犯してしまっただけなのだ――例えていうなら、何もない道で足がカクッとなるのと同じようなものである。
「だけどさ、Hさんにしてはケアレスミスだぜ、これは」
頭髪の幾分寂しい男――風俗弁護士Kが腕を組んで言う。
「そりゃ確かに、俺たちみたいな、世間の道理ってものをまだまだ学ぶ必要のある連中なら仕方ないさ。
間違えて他人の肛門に首を突っ込むこともある……もちろん、全身を突っ込むことだってな。
でもHさんだぜ。老境の有能会計士が、こんなミスをやらかすとはね」
「誰にだってミスはありますよ」
長身の男、Yが反論する。
「生まれてから一度も、他人の肛門に誤って首を突っ込まなかった人なんていないでしょう。今回はそれがたまたま、Hさんだっただけです」
「あーわかった、俺とお前で騒いでも仕方ないだろ」
風俗弁護士が片手をあげてYを止め、
「今はああだこうだ言うよりも、この事態をどうにかしないとマズいだろうが」と続ける。
「しかしどうしたものでしょうか?」
「一般的には自然に出るのを待つものだな、こういう時は。つまり大腸の蠕動運動を待つんだ」
「そんな悠長にするヒマがないから困ってるんでしょうが!」
「だから熱くなるなって、クソ真面目君め。そんなだから15秒で敗北するんだぞ」
「誰がクソ――」
「2人とも、当職のために争うのはやめてほしいナリ」
久しく言葉を発していなかった男の声に、2人は言い争いをやめると長机に向き直る。
「パパは今晩、会長さんとディナーの予定ナリ。それを欠席する、これはいけない。なんとかしてパパを当職の肛門からつるりと出さねばならないナリ」
横たわった男は、人一人分は裕に入りそうなぷっくりとした己の腹を撫ぜながら、思案にふける表情で語った。
「なんとかして、って言ってもなあ、ボギー1」
風俗弁護士が手に持っているビンをカラコロ、カラコロと振りながら言う。真新しいビンの中には、ほんの数粒の錠剤。ラベルには「下剤」の二文字。
「下剤を一瓶だぜ? 一瓶お前に飲ませて、それでも出ないってんだからどうしようもねえよ」
「もっと買ってきましょうか。一瓶じゃなくても、もっと量があればなんとかなるかもしれない」
「……おそらく、当職に下剤は効かないナリ」
長机の上の男は淡々と語る。
「どうして言い切れる? 試してみなきゃわからんぞ」
「わかるナリ。わかってしまうナリ」
「あのな、ボギー1」、風俗弁護士が呆れた調子で肩をすくめる。
「俺は論理的な説明を求めてるの! ワカルナリ~ってんじゃこっちがわからねえんだよ」
「ちょっとKさん、言いすぎじゃ――」
「いいナリ、Y君。当職の説明不足ナリね」
長机の上の男は、ほう、と息を吐くと、天井を見つめながらぽつぽつと語り始める。
「当職が中学時代にとあるトラウマを抱えていることは知っているナリね?
……ああ、いいナリよ、知らないふりしなくたって。(ここで弁護士K弁護士は聖母のような微笑を浮かべた)
ネットでは悪いものたちによってこの事がコピペにされ、挙句の果てには動画にされているナリ。2人が知らないはずないナリ」
風俗弁護士が腕を組み、少々バツの悪そうにそっぽを向く。
Yはうつむいて両指を組み合わせ、居心地の悪そうに手悪さをする。
「大切なのはここからナリ。当職はその中学時代のトラウマによって、ティーンエイジャーの後半をひどい便秘で過ごしたナリ。
具体的に言うと、大便をすることができなかったナリ。
便座に座って力んだ瞬間、当職の脳裏にはあの忌まわしき教室での出来事がよぎったナリ。
男子のあざけるような視線、教師の呆れた視線、女子のドン引きした視線、そして初恋のあの子の、軽蔑の視線……そういったものを思い出してしまい、大便をすることができなかったナリ。
でも、人間、便をせずに生きていくことはできないナリ。だから……」
「……下剤を使っていた、と?」
風俗弁護士が引き取ってたずねる。
「その通りナリ。(ここで弁護士K弁護士は膨れ上がった腹をぽんぽんと叩いた)そんな日々のなかで、当職のおなかはもう、下剤の刺激にすっかり慣れてしまったナリ……」
「なるほど」
言うと風俗弁護士は不意に立ち上がり、長机に横たわる†K†に深々と頭を下げた。
「すまん、ボギー1! 俺のせいでお前は自分の恥部をさらけ出す羽目になってしまった!」
「気にしなくていいナリ」
真理の御霊最聖Kは微笑を浮かべ彼を赦す。
「いつかはみんなにも話そうと思っていたことナリ。それにもう過去の話。当職は過去を振り返るばかりの男にはなりたくないナリ。俺は俺の20年後を見ている」
そこでたまらず、うぅっと泣き声を上げたのはYだ。
その姿は男泣きにふさわしく、目から大粒の涙を、鼻から鼻水をだらだらと垂らしつつも、唇をぐっとかみしめて泣き声を必死にこらえている。
「Y君……ダメナリよ、男の子がこんなことで泣いちゃ。ほら、部屋の隅にちり紙があるから、それで鼻をちーんしなさい」
「うぅっ……僕は、僕は、いつも一緒にいたのに……Tがそんな深い闇を心に抱えていたなんてぜんぜん……」
「T?」
不意に風俗弁護士の表情が険しいものとなる。
「おい、「T」ってなんだよ、その呼び方。お前らそんなに仲良しさんだったか?」
「あっ、いや、これは……」
狼狽えるYを風俗弁護士が疑いの眼差しで見る。物騒な人々との関わりによって鍛え上げられた、氷点下の眼差しがYをとらえる。
「あの、その……そ、それよりも、今はHさんを出さないと!」
熟した林檎のような頬で言うYをなおもジロリとねめつけると、風俗弁護士はふんと鼻を鳴らす。
「そうだな、その通りだ。今の件に関しては後だ……それでボギー1。お前の口調だと、方法はもう見つかっているようだが?」
「流石に、有能ナリね」
BKBが言う。
「ひとつ思い当たるのは、尿を飲むことナリ」
Yと風俗弁護士が顔を見合わせた。
ごくり、と喉を鳴らしたのは誰であったか、はたまたその場の全員であったか。
「尿って、お前……」
風俗弁護士もさすがに驚きを隠さず言う。
「なんだってそんなものを?」
「この前亡くなったおじいちゃんに、教わったナリ」
Kは懐かしい思い出の1ページをそこに見出そうとするかのように目を細め天井を見つつ、滔々と話し始める。
「おじいちゃんがむかーしうちに遊びにきたときのことナリ。
そのとき、当職は便秘20日目に突入していたナリ。
その頃からすでに下剤に耐性が出来つつあった当職は、それはそれはもう地獄の苦しみで毎日の半分をトイレで過ごしていたナリよ。
当職は自戒も込めてそのころを「臥薪嘗胆の日々」と呼んでいるナリが……それはまあ、別の話ナリ。
パパやママは、あと3日出なければ病院で手術して糞を取り出すしかないだろう、って話してたナリ。
そんなとき、おじいちゃんが素っ裸でおトイレに入ってくると言ったナリ。『T、お前、私のオシッコ飲め』って」
「なかなかエキセントリックな人だったんだな」
「茶化さないでください。……それで、効いたんですか?」
Yが慎重な口調でたずねる。
Kは微笑を浮かべてみせた。
「当職が今、快便家でオムツが手放せないのは、あのときのおじいちゃんのおかげナリよ」
「よしY、お前やれ」
風俗弁護士が軽い口調で言い放つと席を立つ。
「ま、待ってくださいよ。なんで僕が――」
「俺にそういう趣味は無い。安心しろ、席は外しておく。外でゆるゆりを一話視聴してくるからその間に済ませてくれ」
「ぼ、僕だって流石に、抵抗ありますよ!」
「なーにが抵抗だ。愛しの「T」とケツの穴に入れたり入れられたりしてるんだろ」
瞬間、かっと赤くなったYの顔は羞恥ゆえか怒りか、もしくはその両方か。
「待ってほしいナリ」
しかしBKBの鶴の一声によって、風俗弁護士はジャケットを羽織る手を止める。
「Kの小便も、当職には必要ナリ」
「……どういうことだ」
「おじいちゃん、遺言状に書いていたナリよ。『Tよ、私の可愛い孫よ。お前がもしまた便秘で困ることがあったら、尿を飲ませてもらうんだ』って」
「だから、Yにやってもらえばいいじゃないか」
ふふ、と乾いた笑みを弁護士K弁護士は漏らす。
「遺言のつづきにはこうも書いてあったナリ。
『その人はお前にとって、真に大切な人でなくてはならない。尿というのは、大切な人に飲ませてもらうからこそ、ときには聖水となり得るのだ』って。
……当職、Y君はとっても大切ナリ。だけど、かつての事務所の先輩も同じくらい大切ナリ」
霜のような沈黙が事務所に下りた。
YとKがじっと風俗弁護士に視線を注ぐ。
ややもしてから、風俗弁護士がジャケットを床にたたきつける。
「わかったよ、やるよ! やればいいんだろ!」
「先輩、これを口に嵌めます。少しの間ですから我慢してください」
どこから持ってきたのか、YがじょうごをBKBの口にセットする。
「本当の弁護士同士のスカトロプレイをみたいかい?
オラ!オラ!オラ!オラ!オラ!オラ!オラ!オラ!オラ!オラ!オラ!オラ!オラ!オラ!オラ!オラ! 」
風俗弁護士がチャックを下ろしながらやけくそ気味に叫んだ。
頭部を駆け巡る生温かい感触で、Hは目覚めた。
湯特有の香り、そして石鹸の香り。視線を上にやると、ピンクのシャンプーハットのふちが見えた。
なぜだか自分は、頭を洗われているらしい。
ごしごしとした感触が止まり、Yシャツの両腕をまくりあげた男が、背後からこちらをのぞき込む。
「お目覚めですか?」
「ん……ああ。すまんが、状況がよくわからんのんじゃが……」
「気になさらないでください。ちょっとした事故があったので、今頭を洗っているだけです」
はて、事故?
Hは未だ醒めきらぬ頭でぼんやりと記憶の糸をたぐりよせる。
確か息子のオムツを交換しようと一緒に便所に入り、ズボンを下ろし、そして、そして……。
……どうなったんじゃったかのう?
思わず苦笑を浮かべてしまう。歳のせいにしたくはないが、最近どうも記憶のたぐいが曖昧だ。
「かゆいところはありませんか?」
定番ですけど、一度言ってみたかったんですよねこれ。頭を洗いながらYが言う。
「うむ、ちょっとつむじがかゆいのう」
「わかりました」
ごしごしと慎重な力で洗髪される快感に、ネコのように目を細めながらも、Hはふと思い出してたずねた。
「そういえば今、何時じゃ? キミちゃんとの予定があるから、あまりうかうかしとれんのじゃが……」
「ああ、食事会なら中止になると思いますよ」
「中止? そりゃまたどうして」
「いえ、まあ、ね」
Yは言葉を濁すと鼻の天辺に飛んだシャボンをぬぐい、事務所の奥を指した。
「Mさん、ちょっとした「ありがちなミス」をやってしまいましてね。今全身を先輩とKさんが洗っているところなんです」
「ありがちなミス……というと、まさかキミちゃん」
「そうなんですよ」
Yが微笑を浮かべる。
「Mさん、どうも間違えて、先輩の肛門に入ってしまっていたらしくって。全身入っちゃったので、ちょっと洗浄に時間がかかりそうなんです」
「そうかそうか、キミちゃんがのう。実にありがちなミスじゃが、あのしっかり者に、珍しいこともあったもんじゃなあ」
こりゃ、いつか酒の席で笑い者にしてやらんと。
そう言って軽い笑い声を立てるH。
――あなたを引っ張り出したらあとからMが出てきたんですよ。まったく、いつTの肛門に入り込んだんだか。
……などとは到底口にすることもできず、苦笑いを浮かべるYであった。
今日も事務所は、平和である。
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- 初出 - デリュケー ありがちなミス(魚拓)