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恒心文庫:あなたの側面をみる弁護士がいます。

提供:唐澤貴洋Wiki
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本文

硬いコンクリートの地面が、雨で黒々と濡れている。等間隔に並ぶ街灯の光を閉じ込め、雨音が夜道に溶けていく。
そこを転げ落ちる様に弁護士が一人駆けている。傘もささず、雨に濡れたコートをはためかせながら。息を切らし、しかしひたすら駆けている。
何が彼をそうさせるのだろうか。
弁護士だというのだから、例えば依頼人を救えなかった無力さに、走らずにいられなかったとか。例えば、多くのものから恨みをかう悪徳企業の弁護を引き受け、今まさに命を狙われているとか。
何も知らない人間からすればそう思わせるような必死さを彼は持っていた。ただ、何かを知っている人間からすれば、彼は大いなる嘲りの対象である。彼はそのような人間から逃げているのである。
彼は、ある界隈で有名な弁護士である。ある高校生の依頼を受けたがために、今日に至るまで様々な事件に巻き込まれ続けている。もちろん、彼もその現状をどうにかしようと手を打ち続けているが、結果はかんばしくない。むしろ、裏目に出ているような感さえある。
彼は徐々に走る速さを緩めると、息を整えるため膝に手をついた。汗とも雨ともつかない生ぬるい液体が額を伝っていく。視界の端で、濡れそぼったコートの裾から水滴が垂れる。彼は努めて自身の呼吸を意識する。
自分は「弁護士」として依頼を受け、「弁護士」として業務にあたっただけだ。「弁護士」として当然のことをしているだけなのに、こんなことになるのなら。それは「弁護士」のせいではない。
「依頼人」のせいだ。「恒心教」のせいだ。人をおもちゃにする「悪いものたち」のせいだ。
そう思っていた。
「あっ」
息を整えていると、誰かの驚いたような声が不意に耳をついた。振り返ると、塾帰りだろうか、学生服の子共が連れ立ってこちらを見つめている。それだけではない。道を行く仲睦まじい老夫婦も、会社帰りのサラリーマンも、手をつないで歩くカップルも、無数の視線を彼に突きつけている。
「え、ほんもの?」「まちがいないよ」「この前テレビに出てた」「尊師」「尊師」「尊師!」
固まっていた空気が動き出していく。困惑の顔が、徐々に、徐々に、色づき、嗜虐的な表情へ変わっていく。
その様子を彼はまばたきもせずに見つめる。つばが固くシコり、思わず彼は息をのむ。先ほどまで普通に社会生活を送っていた人々が、それぞれの人生をそれぞれ過ごしていた人々が、今まで見せてこなかった「側面」を彼に向けているのだ。
ただ、それは彼にとってひどく懐かしく、だからこそ彼は動けなかった。
過去のあらゆる映像が断続的に彼の脳裏を駆け巡る。
無能!B5!すねかじり虫!!!俺がネクタイ整えてやるよギャハハ!!!
記憶の中の「悪いものたち」は皆同じ表情を彼に向けていた。嘲りに歪んだ口、興奮に赤らむ頬。人を人としてみない、細く冷たい目。
彼の目の前で、過去と現在がクロスする。
彼らにも友人がいて、恋人がいて、親がいて、当職に向けている表情以外の、親しい者へと向ける温かな表情を持っているのだ。
そんな彼らは本当に「悪いものたち」なのか。彼らの「側面」しか見たことの無い、当職は一体何なのか。
彼らに「側面」しか向けられなかった当職にこそ、何か原因があったのではないか。
迫り来る人々が手に手にスマホを構えているのを見て、彼は今更ながらそう思った。

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