恒心文庫:「司法の神」
本文
本人も自覚していたことだ。
そうだよ。当職は無能弁護士だよ。
くだらない資料を前に唐澤は一人悩む。事務所の皆は気を使ってくれているのが余計につらい。
そんな中、明確に通知を突きつけてくれる判決はさすが司法といったところだ。
「裁判費用は原告が負担」「訴えを却下する」etc…
炎上だけならともかく、普通に裁判に勝てない。着手金が貰えるから仕事人としては良いのかもしれないが、それでも嫌という程弁護士としての実力のなさを突きつけられる。
そういえば明日も裁判があった。
もう藁にでも縋りたい気分だ。いっそのこと、縋ってみるとするか。
と、いうのも、先々日、新人の山本がまたくだらないネタを仕入れてきたのだ。
雑学の類が好きなのだろう。入社当時も星の王子様がどうのとか、言っていたっけ。
彼よりも、そのくだらないネタである。
曰く、「夜中の0時に、一人で、ギリシャで作られた天秤に海水を入れて釣り合わせると司法の神、なんて奴がでてきていいことをしてくれるらしいっすよ」
だそうだ。
司法の神など、誰だって会ってみたい。負け続きの弁護士なら尚更である。
まるで遠足の準備をする小学生のようだな、などと思っていた。そういえば、幼い頃は深夜に剃刀を咥えていたような気もする。
現れた神は、期待していたよりも普通であり、予想通りの荘厳さを伴っていた。
やはりギリシャの神だろうか。彫りの深い女が天秤の上に現れる。
「私を呼び出したのはお前か」
唐澤はあっけにとられて見ていたが、頭の中に響く声に神経を跳ねさせた。
「司法の神に何の用か」
本当に司法の神なのか。驚いた。もっと聞きたいことが彼には数多くあったが、口をついて出てきてしまったのは日頃からの願望であった。
「と、当職を、私を絶対に裁判に勝てるようにしてっほしい」
言い切って瞬きをしたあと、司法の神は消えていた。
よかろう、たやすいことだ…そう言っていたような気もする。
明日は裁判だ。久しぶりの勝利に向けた願掛け程度と考えてもいいだろう。
だめでもともとである。
彼は高鳴る胸を無理に沈めて眠りについた。
翌日の裁判では、唐澤はあっさりと勝ってしまった。
裁判官は原告側の意見を手早く聞き、被告側の意見を手早く聞き、手元の資料も見ずにあっさりと唐澤の勝ちを宣言したのだ。
彼は拍子抜けした。それどころか、あまりにも速すぎる勝利をいぶかしんだりもした。だが、判決は降りたのだ。神の力のおかげかもしれない。そう考え直して、閉廷した職場を後にした。
天秤は丁重に、金庫にでもしまっておこうか。
そんな嬉しげであり、納得がいかないといった様子でもある唐澤の帰路を止めたのはスーツを着た3人組だった。
よく見ると、それぞれ弁護士バッジをつけている。
同業者が何の用だろうか。なぜ無言で立っているんだ?
道を塞がれ困惑する彼に、3人組は封筒を突き飛ばすように押し付ける。
あっけにとられて腰を抜かした彼を置き去りにして、もう関わりたくない、といった様子で足早に去っていった。
どうしようもなく、残された彼は封筒を情けなく開ける。そこには、弁護士会からの除名通知が入っていた。
突然の災害の原因を知ったのは、唐澤が帰宅した直後、開きっぱなしの法典を見たときである。
最後のページに、彼にとっては見慣れない条文が追加されていた。
「唐澤という弁護士が付いた者は、必ず訴えの全てを認められ、裁判費用を負担することはない。」
なるほどこれでは勝負にならない。あの3人組が突き飛ばすのも道理だろう。
そういえば、彼女は司法の神であった。裁判の神ではない。
どうやら当職は縋る神を間違えたらしい。
リンク
- 初出 - デリュケー 「司法の神」(魚拓)