唐澤貴洋Wiki:チラシの裏/麻原裁判をふり返って

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麻原裁判をふり返って(あさはらさいばんをふりかえって)とは、ICHIBEN Bulletin2015年6月号・7月号に掲載された、麻原彰晃の裁判を担当した第一東京弁護士会に所属する弁護士の回想緑である。

概要

「麻原裁判をふり返って」の掲載にあたって   刑事弁護委員会委員長 松村龍彦
平成7年3月、オウム真理教の信者によって、史上最悪の無差別テロ事件である、地下鉄サリン事件が引き起こされ、多数の尊い命が失われ、負傷者の数は6000名を超えました。
事件発生から20年経った今日では、日常の報道で、「マインドコントロール」、「ポア」、「サティアン」などの言葉を聞くことがなくなりましたが、他方で、未だ後遺症等に苦しめられている被害者も多く、この事件のもたらした禍が消え去ることはありません。
地下鉄サリン事件をはじめとするオウム真理教に関連する事件は17件にものばりましたが、これらの事件の国選弁護人を受任した会員が艱難辛苦を乗り越え、いかなる弁護活動を行ったのか、弁護士会がどのような対応を行ったの かということは、刑事弁護という枠を超え、全会員が共有すべき当会の重要な歴史ではないかと考え、通常の刑弁通信より大部の寄稿を2回に分けて掲載していただくこととなりました。

寄稿弁護士は、「氏名を公表しない」ことを条件に国選弁護人を受任したため匿名で投稿されている。受任の葛藤や裁判の展開、獄中の旧尊師の姿がわかる貴重な資料となっている。本項目は便宜上、2か月分を一つにまとめて掲載する。

全文

はじめに

今から20年前の平成7 (1995)年3月20日、首都東京を震撼させる大事件が起きた。地下鉄サリン事件である。当日私は午前10時の家事調停事件があったため、午前9時過ぎに地下鉄丸ノ内線で霞ヶ関に向かっていたが、車内放送で霞ヶ関駅で「爆発事故」が起き、同駅には停まらないとのことで、銀座駅で降り、家裁まで歩いていったことを覚えている。その後、サリンが撒かれたことが分かり、当時事務所が日比谷線小伝馬町駅の近くにあったこともあって、騒然とした1日を過ごしたことが忘れられない。

しかし、そのときはまだ、私自身がその後オウム事件の処理に追われ、最後は事件の首謀者とされる麻原彰晃の国選弁護人を務めることになるとは予想もしていなかった。

あれから20年、麻原裁判の第一審判決が出たのが平成16年2月27日であるから、それからも11年が経つ。このたび麻原裁判に関して何か書いてもらえないかとの話があり、改めて当時をふり返り、この裁判の意義を皆さんに考えて頂きたいと思って筆をとることとした。

なお、私は、訳あって受任に当たり氏名を公表しないこととしていたので、匿名でこの記事を書くことをお許し願いたい。

当番弁護士の派遣

当時私は、当会の刑事弁護委員会の副委員長をしていた。当会でも平成3年に当番弁護士制度が始まり、東弁、二弁とも連携して、当番弁護士制度がようやく軌道に乗ってきていた時期であった。時が経つにつれ、事件がオウム真理教によって引き起こされたことが判明し、信者たちが次々と逮捕されていく事態が生じた。世の中の風潮は、オウムといえば全て「悪」、オウム信者は極めて軽微な事件でも逮捕され、例えば自動車に剣道の竹刀が積んであれば、これで何をするのだと言って逮捕されるということもあった。ただ、事件直後は教団の弁護士がこれに対応していたが、5月の連休中に同弁護士も逮捕されたことから、連休明けにはオウム教団側から当番弁護士の要請がなされることなった。

東京三会当番弁護士センターでは、教団側からの当番弁護士の要請に対しどのように対応すべきかを協議した。その結果、教団からの要請にも基本的には応じることを確認のうえ、その場合教団に対し次の事項を了解させることとした。それは、当番弁護士が教団からの要請であっても、接見する弁護士はあくまでも被疑者本人のために弁護活動をし、その結果被疑者が教団を脱会するなど教団側と利害が対立することになることもあるということである。教団側もすんなりとこれを認めた。余談であるが、このときの教団側との協議に私も立ち会ったが、初めて接するオウム信者の印象は、予想に反し、極めて純真な心の持ち主であった。その感想はその後数多く接するオウム信者においても変わることはなかった。

このようにして、東京三会としても、その後続々と逮捕勾留されるオウム信者への当番弁護士の派遣に追われることとなった。しかし、弁護士会側にも問題が生じた。派遣される当番弁護士の人員確保という問題である。世の中のオウム教団に対する敵愾心は極めて強く、普段は刑事弁護に熱心でもオウム事件だけは引き受けたくないという弁護士や依頼者との関係でオウム事件を引き受けることはできないという弁護士も多かった。さらには、当番弁護士として接見には赴くが、依頼があってもこれを断るという弁護士も多発した。

結局、同年7月24日の時点で、当番弁護士を派遣した件数(被疑者の人単位)は合計126名(うち殺人・殺人未遂罪は36名)、そのうち受任をしたのは38名(うち殺人・殺人未遂罪は19名)であった。

国選弁護体制の準備

当番弁護士要請の波が通り過ぎると、次は逮捕勾留された被疑者が続々と起訴され、弁護士会としてもこれに対応して然るべき国選弁護人候補者を推薦しなければならないという事態となった。弁護人候補者の確保はより一層大きな問題となっていったが、弁護士会としては、それ以前に、オウム事件において各被告人につき弁護人を何人付けるか、記録謄写費用や国選弁護報酬などにおいて特別の配慮をしてもらうなどの点で、裁判所との協議をする必要があった。

この点に関し、東京三弁護士会は、早くも5月15日付けで東京地方裁判所所長に対し、次のような要請を行った。

①オウム事件については全て特別案件とし、国選弁護人は各被告人につき2名以上とされたい。
②被告人の自白の有無にかかわらず、記録謄写費用は全て国選弁護費用として支弁されたい。
③弁護人が希望する限り、当該弁護人の事務所及び自宅には、担当裁判官、担当検察官と同等の警備が可能となるよう対処し、協力されたい。
④弁護人が身体の危険を感じ、その他職務遂行が著しく困難であるとの理由から辞任の申出をなした場合には、これを認められたい。
⑤弁護人が希望する限り、傷害保険をかけることとし、その費用を国選弁護費用として支弁されたい。
⑥弁護人の氏名・住所等につき、マスコミないしは関係者から問い合わせがあっても、教示しない取り扱いとされたい。

上記要請を見ても分かるとおり、当時はオウム事件の弁護人になることによって弁護人自身が何者かによって危害を加えられるおそれを心配していたのである。

その後東京地裁との間で何度か協議がもたれ、①については、殺人・殺人未遂等重大事件については基本的には3名、その他は2名の弁護人が付けられることになった。②についても、弁護人1名分については全額国選弁護費用として直ちに支払われることになったが、他の弁護人分については弁護士会等でコピーをとることになった。③については裁判所の役割ではないと一蹴され、また④については、弁護人の申し出があれば辞められるとまでの約束までは得られなかった。⑤については、その後弁護士会としても特に重大な事件の弁護人については生命保険をかけることを検討し、裁判所にもその保険料の負担を求めるようになったが、結論的には「保険料としては出せないが、報酬決定の際に考慮する」との回答を得たものの、実際にどの程度考慮されたのかは曖昧のままとなった。⑥については、第1回公判までは約束するが、第1回公判後は無理であるとの回答であった。

他方、当会としては、いち早く会長を本部長とする特別案件本部を設置し、国選弁護人候補者を確保に務めるとともに、4000万円を目標に寄付を募り、国選弁護人を支援する体制を作った。

日弁連も後押しをしてくれた。6月28日付けで会長声明が出され、「国の費用で弁護などとんでもない」という 一部国民の声に対し、「私たち弁護士、弁護士会は、いかなる事件であっても、また、いかなる思想、信条を持った被告人に対しても、法に従って、その職責を果たすための体制を整えなければなりません。」と訴えた。

さらに8月24日、東京三会は、日弁連に対し、オウム事件弁護人につき弁護士の平均収入を基準として算出した特別の国選弁護報酬を支払うこと、記録謄写費用は全額事前に支払うこと、上記に伴い然るべき予算措置をとることなどを諸機関に働きかけてほしい旨の要請書を提出した。これを受けて日弁連は最高裁刑事局と国選弁護報酬増額交渉を行い、私もこれに立ち会ったことがあるが、当時は今とは違って法テラスもなく、国選弁護報酬は各裁判体が決定することになっており、最高裁からは裁判事項なので答えられないとの回答がなされるだけであったのを覚えている。なお、実際にはある程度までの特別な配慮はなされる結果となり、これらの活動の意味はあったと思われる。

こうして、弁護士会としての支援体制も整えながら、国選弁護人候補者を募集し、特別案件名簿を作成の上、推薦手続を行っていった。記録によれば、同年7月31日時点で東京地裁に起訴されたオウム教団関係者は87名(うち殺人・殺人未遂罪は15名)、そのうち裁判所から国選弁護人選任の依頼があった被告人は41名(うち殺人・殺人未遂罪は9名)であった。

麻原弁護団の結成

このようにして、当会としても、他の二会と連携して、次々と起訴されていくオウム信者に対する国選弁護人の依頼に何とか対応していったのだが、残された大きな問題があった。オウム真理教の教祖たる麻原彰晃(以下「Aさん」と呼ぶ)の弁護人問題である。Aさんはその年の 5月16日に逮捕され、地下鉄サリン事件、松本サリン事件、坂本弁護士事件、その他を含む合計17の事件で起訴されていた。ただ、当初は教団が付けた私選弁護人が一人いたが、そもそもこのような多数の重大事件の弁護を一人でできるはずはないし、またその弁護人の評判も必ずしも良くなかったことから、弁護士会内部では、その弁護人が解任された場合に備え、あるいは解任されなくても裁判所が私選弁護人と併行して国選弁護人を選任する可能性もあることから、国選弁護団結成の必要性がつぶやかれていた。

そのためにはどのような弁護団を結成する必要があるのか。東京三会で協議の結果、各会で4人すつ出し合って、合計12名の弁護団を結成しようということになった。他会の事情は別として、我が一弁においてもその候補者の人選が始まった。当会の刑事弁護委員会における重鎮O先生[1]とU先生はすぐに決まった。

私は、そのような具体的な人選を始める前から、自分がもしその指名を受けることとなったら、果たして弁護人を引き受けられるか、ということをすっと考え続けていた。そもそも私自身にそのような大事件の弁護をしていく能力があるのか、事件を受けた場合に事務所はやっていけるのか(当時私は独立して一人で事務所を経営していた)、収入面はどうなるか、依頼者との関係はどうなるか、また自分だけでなく家族に身の危険はない 。裁判所との協議を行ってこれらの問題はある程度までは解消していたとはいうものの、いざ自分のこととして考えると別である。しかし、このような極悪非道な犯罪を行ったとされる被告人でも弁護人は必要である。日本の刑事司法制度を守るためには、このような事件でも弁護人がついてしつかりとした弁護活動を行う必要がある。他の弁護士に国選弁護人をお願いしている立場の私がこれを断るという理由が見出せない。いろいろ考えた挙げ句、最後は立場上引き受けざるを得ないという結論に達していた。

その年の10月26日、Aさんに対する第1回公判が予定されていたが、その直前に私選弁護人が交通事故で負傷し、第1回公判が流れた。その直後、裁判所から国選弁護人の依頼がなされ、10月末から11月初めにかけて、各会から予定していた弁護人候補者が推薦され、選任がされていった。東弁からは後に弁護団長を務めることになるW先生、二弁からは死刑廃止運動の第一任者であるY先生、その他壮々たる強者どもが揃った。我が一弁も予定されていた二人の選任はスムーズに行われた。、ところが、残る二人の決定には時間を要した。

先ずは私。いざ選任という段になって、私は初めて妻に打ち明け、その了承を得ようとした。ところが、妻から猛反対にあった。「なぜ貴方がやらなければならないの?」「もし子供たちに危害があったら誰が責任とれるの?そうなったら離婚よ!」、これには参った。私には女の子3人がおり、当時長女は中学2年、次女は小学4年、三女は小学3年であった。私自身が危害を加えられても自分の責任だが、娘たちが狙われたら責任の取りようがない。私としても受任を断念せざるを得す、翌日理事者に断りに行った。しかし、それでは済まなかった。

しばらくして、会長・副会長から「やはり貴方しかいない。是非やってもらいたい」と頼まれ、それもお断わりしたが、それでも再度頼まれ、そのうちに家内も諦めたのか、しぶしぶ了承した。ただ、そのときの条件は、決して弁護人の名前を公表しないことであった(これが匿名の理由である)。

4人目も、当初予定をしていた人から、やはり家族の賛同が得られないとして断られ、急遽私が親しくしていたK先生にお願いすることとなった。K先生は戻く引き受けてくれたが、彼も依頼者との関係で、名前は公表しないこととなった。

こうして、11月半ばになって、一弁の4人が揃った。しかし、我々二人が弁護人に選任されるのはまだまだ先であった。

開廷頻度と弁護体制の問題

弁護団のメンバー12名が実質的に揃ったとき、裁判所 (東京地裁刑事第7部)から言われたのが、実質審理における公判期日の開廷頻度と弁護体制の問題であった。裁判所としては、審理を効率的に進めていくために、月6回の公判期日を開き、地下鉄サリン事件、松本サリン事件、坂本弁護士事件の三大事件を2期日ずっ連日開廷として順番に回していく、弁護団には4人ずつ3っの班に分かれてもらい3大事件を各班で担当してもらう、個々の弁護人としては月に2期日だけ出頭してもらえばよい、との考えであった。

これに対し、弁護団が猛反発した。我々は事件の真相を理解しておらずこれを理解するためには時系列的に事件を追っていくしかない、各事件は深く関連があるはずで、各弁護人はいずれの事件も基本的には出頭して証言を聞く必要がある、弁護団内部でどうのように分担するかはこちらの問題であり裁判所から言われる筋合いではない、というのがその理由であった。また、そのような審理を前提とすると、開廷頻度は1ヶ月3回が限度であると主張した。

裁判所は、当初は、それでは弁護人12名は認められないとして、まだ選任されていない3名(一弁2名のほか二弁1名)の弁護人選任手続を遅らせた。しかし、最後は弁護側が押し切った形となり、三大事件を併行して審理していくということに関しては裁判所に考えを撤回させたが、開廷頻度については月4回(隔週で木金連日開廷) とすることになった(ただ、この問題は後に再燃する。)。

裁判所との間でこのような協議がまとまったのが平成 8年2月初めのことであり、私を含む残る3名も、そのとき弁護人に選任されることとなった。また、第1回公判は同年4月24日と定められた。

このような裁判所との協議を通じて感じたことは、これほどの事件になると、弁護側としても、どのような土俵が定められるかが裁判の帰趨を決する重大な問題となるということである。今は裁判員裁判という土俵が定められており、あの時とは全く違う土俵で闘うこととなっているが、それにしても、弁護人の体制をどのようにするか、期日をどのように開くか、ということが、有効な弁護活動を行うためにどれ程重要であるかは、当時も今も変わるものではない。

初めての接見

このようにしてようやく弁護人となった後、私は初めて被告人であるAさんと接見をすることになった。当時Aさんが留置されていた警視庁の接見室での接見であった。

Aさんとの接見の第一印象・・・それは「さわやかな人だ」ということだ。

このようなことを言うと皆さんの顰蹙を買うかもしれないが、Aさんと接した数少ない者として、正直に申し上げるしかない。おそらくAさんと言えば逮捕されたときの苦り切った顔を想像するに違いない。しかし、それはマスコミによって焼き付けられた彼の一面の顔にすぎない。今思うと、そのときはまだAさんも余裕があったというしかないが、割腹もよく、ニコッと笑う笑顔がとても魅力的であった。12名の弁護人がついたことが、あたかもキリストと12人の弟子のように捉えられ、満足しているような感もあった。

Aさんは、各弁護人と接見するとき、弁護人によって態度を変えているようにも思えた。後に知ることになるが、Aさんは、それぞれ弟子に応じて別々の修行を命じていた。その弟子の弱い部分をズバッと指摘し、その弱い部分を克服するよう修行させるのである。指摘された弟子としては、まさにグルとして尊敬し、修行に励むことになる。オウム教団は、最盛期には在家信者1万2500人、出家信者約1500人を擁していたとされるが、その要因の一つに、Aさんのカリスマ性があったことは間違いない。

その後Aさんとの接見を何度も繰り返した。内容についてはお話しするわけにはいかないが、当初は事件のことも含め、極めて饒舌であった。我々はそのとき話されたAさんの言葉を基に弁護方針を立てた。ただ、そのAさんが、その後我々に対しても、一切口を閉ざすことになるとは、全く予想もしていなかった。

パソコンの購入

話は遡るが、私が弁護人になることが実質的に決まり、弁護団の一員として公判の準備のために最初に行ったことは、ノートパソコンを買ったことである。当時はまだノートパソコンが出始めのころである。今と違ってMS-DOSの操作も複雑、試行錯誤を繰り返しながら、何とか操作方法を習得していった。

パソコンを買ったのには理由がある。私としては、地下鉄サリン事件において3794人のサリン被害者の全員が殺人罪・殺人未遂罪として起訴されているが、亡くなった方や重傷者は別として、目がチカチカする、周囲が暗く感じるという軽微な被害に留まる者について、果たして殺人未遂罪が成立するのだろうか、という疑問を持っていた。有機リン中毒の症状の一つとして縮瞳(瞳孔の収縮)というものがあり、サリンを被曝した者にも上記症状が現れることが知られている。しかし、上記症状が出たからと言って直ちに死の危険がある訳ではない。問題は致死量に達する程度に被曝の蓋然性があったかである。仮定の議論としては、微量の被害を受けた者もそのままその場に居続ければ被曝量が増え死の危険が生じるとも言える。あるいはさらにサリンが撒かれた現場に近づいて大量の被曝を受ける可能性もある。しかし、多数の人が出入りする地下鉄の車内あるいは構内で、現実的にそのような事態を想定できるであろうか。

この疑問に対する回答を求めるために、各被害者の被曝状況、サリンの拡散状況を分析する必要があると考えた。そのためにはパソコンが不可欠だ。私の頭の中では、分析の結果、あたかもNHKのドキュメンタリーのように、サリンが撒かれた後に時間を追ってサリンがどのように拡散されていき、また乗客らがどこにいて、どのように行動し、その間どこで、どのくらいサリンを被曝する可能性があったのか、ということが映像的に分かるのではないか、と漠然と思っていた。

ところが、その後学者にも相談したところ、電車内という複雑な構造、しかも人が出入りしドアが開閉される状況で、サリンの拡散状況を再現することは不可能とのことであった。また、被害者らの行動分析にしても、弁護団で手分けをしたが、殺人未遂罪として起訴されている3794人のデータをパソコンに打ち込むことだけで大変苦労した。

被害者らの被害を立証する証拠としては、死亡者・重傷者を除いて、各被害者につき①被害事実答申書、② 医師への照会書、③医師からの回答書という、我々が「3点セット」と呼んでいた、極めて簡易な証拠しか検察官からは請求されていなかった。①は警察官が各被害者から被害状況を聴取した内容を1枚の紙に記載したもので、被害者の署名などもないもの、②は単なる照会書で中身はなく、③も医師の診断内容が記載されているが、縮瞳や血液検査(有機リン中毒ではコリンエステラーゼ値の低下がみられる)の測定結果などの根拠もなく、単に被害者の申告内容に基づいてのみ診断されたと思われるものや、「サリン」かどうかまでは判断がつかないと思われるのに「サリン中毒症」と結論づけられているものもあり、果たしてこれで殺人未遂罪の立証ができているのか、極めて疑問であった。

開示記録の謄写

地下鉄サリン事件を始めとする17件の事件の開示記録は膨大なものであった。前述した地下鉄サリン事件の被害者の3点セットだけで1万1千点を超え、それ以外を入れれば、優に大きなロッカーが一杯になる程度である。その謄写料で軽く1OO万円を超える。ただ、謄写料の問題はすでに解決しており、裁判所から謄写を依頼した司法協会に直接支払われ、弁護団で負担をすることはなかった。しかし、複写分は国選弁護費用からは出ない。この点は弁護士会にお世話になった。検察庁で謄写した記録を、複写を要しないもの、各会1部すつコピーするもの、各弁護人に1部ずっコピーするものに分け、しかもそのコピー作業は弁護士会で一手に引き受けてくれた。複写費用も弁護士会で負担してくれ、しかも記録の保管場所も弁護士館内に用意してくれた。

弁護団会議の場所も弁護士会が提供してくれた。弁護団結成後判決に至るまで、毎週水曜日の夜は東弁506号室が弁護団会議に当てられた。

このように弁護団がその活動をしていくに当たって、弁護士会側の協力は欠かせないものであり、また非常に有り難いものであった(そのお膳立てに私自身も関与していたのだが・・・)。

このようにして、記録謄写の態勢は整備されたが、肝心の記録の開示自体は不十分であった。本件各公訴事実はAさんが共謀のうえ各犯行を行ったとされるが、Aさん自身は共謀共同正犯としての責任が問われており、その核心は共謀の具体的状況にあったことは言うまでもない。ところが、実行犯の供述調書などのうち、肝心の共謀部分は最初は開示されず、その後見せはするが手書きの謄写しか認めないという扱いがなされた。このため、我々弁護団としては、手分けをして各供述調書の共謀部分を閲覧し、パソコンに打ち込んで、これをプリントアウトしたものを他の弁護人たちに配るという作業をしなければならなかった。

幹部クラスの実行犯については、検面調書の証拠請求をせず、いきなり証人尋問請求がなされた(その場合も検面調書の開示はなされた。)。

このような諸準備をし、といっても準備不十分のまま、我々は平成8年4月24日の第1回公判に臨むこととなった。

第1回公判

平成8 (1996)年4月24日、第1回公判が開かれた。当日は、傍聴券を求めて日比谷公園に12292人が集まり(これは今でも最高記録)、晴れ上がった青空に報道のヘリコプターが舞い、日本中がこの麻原裁判を注目しているという感があった。我々弁護団12名は、日比谷公園を隔てた帝国ホテルのロビーに集まり、4台のハイヤーに分乗して東京地裁に向かった。浴びるようなフラッシュの中、裁判所裏門を通り過ぎ、我々は地下の駐車場で降りて、そのまま東京地裁104号法廷へと向かった。ここがこれから8年をかけて繰り広げられる裁判の場であった。

裁判官は3名の合議体だが、裁判所も長期裁判となることを想定して、当初は補充裁判官が2名いたように記憶している。

傍聴席も見守る中、Aさんが入場。裁判長による開廷宣言の後、人定質問において注目の第一声であったが、 Aさんが何を述べたか余り覚えていない。こちらもかなり緊張していたようだ。

人定質問の後に検察官による起訴状朗読が行われる。このやり方をめぐって事前に議論があった。地下鉄サリン事件の被害者3794名(死亡者12名を除く)については、起訴状の別表として氏名が掲載されているが、検察官からは、この氏名の朗読を、例えば「〇〇以下〇名」というように省略した形で済ませたいと言ってきたのである。要は朗読の時間を短くして効率化を図りたいという趣旨である。弁護団の中でも意見は分かれた。しかし、Aさんは目が見えず、朗読を省略すると被害者の氏名を認識することができない。結局、その後もその方針が貫かれることになるが、意見が分かれたときは原則に従うということにした。検察官の起訴状朗読はその日の夕方まで続いた。

起訴状朗読に続く被告事件に対する陳述においては、弁護団は意見を留保した。前回述べたように証拠開示は不十分である上、弁護団としてはオウム事件が何故起きたのか、Aさんはこれにどのように関与していたかについて検討ができておらず弁護の方針が立っていなかったからである。検察官請求証拠に対しても、同意できるものは同意したが、不同意あるいは意見留保とするものが多かった。地下鉄サリン被害者関係の1万件を超える3点セットは意見を留保した。

冒頭手続は1日では済まない。起訴された事件が17 件あり、これらにつき夏に至るまで6期日かけて冒頭手続が行われた。

実質審理

平成8年9月からはいよいよ実質審理が始まった。検察としては、地下鉄サリン事件について逮捕後に事実関係を詳細に語っていた井上嘉浩を最初の証人に立ててきた。教団の若手幹部であり、地下鉄サリン事件の実行犯たちを現場で指揮した人物である。主尋問で繰り広げられる教団におけるグルと弟子との関係、ポアの意味、教団の武装化の過程、そしてリムジン謀議、地下鉄サリン事件の実行、およそ供述調書からは想定された内容ではあるが、やはり現実に法廷で語られると迫力がある。問題は反対尋問である。

裁判員裁判が始まった現在、弁護人の尋問技術についても議論が進み、反対尋問は主尋問の証言を弾劾することにあり、主尋問を上塗りすることは絶対に行ってはいけないと言われている。これに対し、我々は全く逆のことを行った。

もちろん主尋問で証言された検察の筋書は果たして信用できるか、という観点からの反対尋問だが、ただ「それは本当ですか?」と聞いても「本当です」と答えるだけで全く意味をなさない。前述のとおり、弁護側の準備は全く不十分なまま審理に突入した結果、弁護側から矛盾する事実を突きつけようとしても、その情報自体が極めて限られていた。そこで、我々としては、その証人からできる限り沢山の事実を聞き出し、その場でそれが他の証拠や証言、あるいはその証人自身のそれまでの供述と矛盾しないかを確認しながら、弾劾していくという手法をとらざるを得なかったのである。

井上に続いて、実行犯の一人である林郁夫、そしてその他の実行犯と、次々と証人尋問が続いていく。地下鉄サリン事件が終わると坂本事件、松本サリン事件、そしてそれ以外の様々な事件と、結審まで実質約7年間、延べ約1300時間、計522人の証人尋問、約250回の期日に及ぶ実質審理が行われた。

宗教としてのオウム

我々は、弁護人に就任してからオウム真理教についての勉強を始めた。教団が出している本やその他宗教関係の本を読み、オウム真理教の教義は、きちんとした仏教の教義に乗っ取っているということが分かった。ただ、通常の小乗仏教、大乗仏教とは異なり、真言秘密金剛乗(タントラ・ヴァジラヤーナ)という教義を採用した点に特殊性がある。チベット密教と共通するものがあり、教団内ではバーリ語の教典の翻訳作業などもまじめに行われていた。

「ポア」という言葉も仏教界の用語であり、「魂をより高い世界へ移し変える」ことを意味する。ただ、これを俗に言う「殺人」の意味で用いたのかどうかが問題となったが、弁護人的に見れば、Aさんがいわゆる謀議の場で「ポア」との文言を述べたとしても、それは宗教的意味で述べたにすぎないのではないか、とも考えられる。

「マハームドラー」という修行がある。これはチベット仏教に伝わる修行法で、「大いなる空の境地」を得ることを目的とする。グルは実現不可能と思われるような課題を弟子に課し、弟子としては心を「空」にしてその実現に向けて努力するが、結果の実現が求められている訳ではない。グルからの指示であっても、後に「あれはマハームドラーだったんだよ」と言われれば、弟子としては自分の心が試されただけと理解しホッとするということもあった。このため弁護人的に見れば、Aさんが「ポア」を指示したとしても、それは修行として指示しただけで、結果の実現を求めたわけではない、とも言える。前にも述べたが、Aさんは弟子たちの弱点を見抜く能力に長けており、それを克服するために弟子に応じて様々な修行を命じていた。

Aさんは、早い段階から1997年あるいは1999年に「ハルマゲドン」すなわち最終戦争が起きると予言し、これに対する救済計画を説いていた。教団の武装化もそのーっであるが、サリンプラントという荒唐無稽な計画もマハームドラーの一種であり、それ自体が完成されることを求めていたわけではない、とも言える。

このように、弟子たちは、グルの指示に従い修行を行っていたが、ときにはグルの意思を忖度(そんたく)し、グルから直接の指示がなくても、自らの判断で行動を起こすこともあった。また、グルであるAさんの指示ではなく、村井秀夫を始めとする高弟たちの指示により行動するということもあった。こうなると、その指示がAさんから出たものか、Aさんの意思を忖度した高弟から出されたものかということさえ分からなくなる。その意味で、平成7年4月にAさんの右腕であった村井が殺害されたことは、我々にとっても真相解明の上で大きな痛手であった。

他方、Aさん自身は目が全く見えない。Aさんが、弟子や家族らから伝えられる情報をもとに今の世の中をどのように捉えていたのか。Aさんが頭の中で描いていた弟子たちの行動、そしてその目的たる救済計画とはどのようなものだったのか。Aさんが目指したのは現実世界での救済か、あるいは心の中だけの救済か。全てはAさんの頭の中にあり、我々は真相は何かを模索しながら、反対尋問を続けていくしかなかった。

ドクターズチーム

このオウム事件の審理を進めるに当たって、化学・医学の知識は不可欠であった。弁護団は12名いるものの、それぞれ得意不得意があり、この分野は主として私と一弁のK先生が担当することとなった。どうやら我々は弁護団内外から「ドクターズチーム」と呼ばれていたらしい。幸いにも、私の出身大学のサークルには全学部の人が参加していたことから、先輩や後輩に化学者、医師などがおり、その人脈を使って、それぞれの専門分野に関していろいろなことを教えてもらうことができた。

サリンとは、正式には「イソプロピル・メチルホスホン酸フルオリダート」のことであるが、その構造式、合成の仕方、人体に及ばす影響、その機序などなど、文献を売むだけでは分からないことが沢山あった。サリンは無色無臭であるが、地下鉄に残置された物質は茶色の液体で、臭いがしたという被害者もおり、果たしてサリンと言えるのか。検察から提出される化学警察研究所、化学捜査研究所による鑑定書には、ガスクロマトグラフィー質量分析(GC/MS)による分析結果が記載されているが、その分析方法に問題はないか。分析結果から果たしてサリンであったと言えるか。我々は俄に仕入れた知識に基づき、鑑定者に対する反対尋問を行った。サリンのほかVXについても同様の検討が必要であった。

科警研や科捜研での鑑定において問題を感じたのは、鑑定の資料を全部費消してしまっていることである。本来、鑑定においては資料を3つに分け、その1つを鑑定に用い、もう1つは再検査のために残し、さらに残りの 1つは再審等のためにとっておくことが欧米における常識とされるが、我が国を代表する科学捜査機関がこのような常識をわきまえていないことに驚きを覚える。

また、松本サリン事件では、死亡した被害者について死体解剖がなされておらず、その被害者のロや鼻の粘膜からサリンの残留物質が検出されたということのみによって、検察による死因立証が終了した。通常の殺人事件でさえ、死体解剖がなされ、死因が特定できるのに対し、このような稀有の事件において、死体解剖も行われなかったとしたら手続上問題である。我々弁護団は、この裁判において通常の刑事裁判と同様の審理がなされることを求めていた。

現地調査

我々弁護団は、裁判の合間を見て、事件のあった現地の調査にも出向いた。第1回公判が開かれる前には幾つものサティアンがあった上九一色村を訪れ、まだそこで生活をしていた信者たちの様子も垣間見ることができ、坂本事件の現場のアパートの部屋や親子三人が埋められた場所(三人は人里離れた山奥の別々の場所に埋められていた)も訪れた。いずれも実行犯らの供述内容を現場の状況に照らして検証することが目的であった。

松本サリン事件では、奥様が被害を受けた上に容疑者とされた河野義行氏ともお会いして話をすることができた。警察の捜査の杜撰さを訴えながらも、我々弁護団に対しても冷静に対応しておられる姿が非常に印象的であった。

ずっと後のことになるが、サリンプラント事件の審理に当たっては、裁判所の検証に立ち会う形で、第7サティアンのサリンプラントにも足を踏み入れた。籠に入れたカナリアをかざしながら捜査官が入っていった映像が忘れられない、あの第7サティアンである。当時は他のサティアンは既に壊されていたが、この建物は差し押さえられ残っていた。

Aさんの不規則発言と退廷命令

三ロ一舌は戻るが、井上に対する反対尋問を進めていくうちに、それを脇で聞いているAさんの様子に異常が生じ始めた。井上に対して何か言おうとしているのか、あるいはその証言を妨害しようとしているのか、その意図は分からないが、何やらブップッとつぶやき始めたのである。 Aさんは我々12名の弁護団のすぐ前の席に座っており、前を向いているせいか、我々には何を言っているかよく分からない。裁判長の制止にかかわらずAさんの不規則発言は、一向に止まらない。

あるときは、尋問の最中にAさん自身の体がガタガタと上下に動き出し、気が上昇してきて明らかな異変が生じたことがあった。よくオウム信者が修行中になる「クンダリーニの覚醒」と呼ばれる状態である。後ろにいた我をも何事が起きたのかと驚くばかりであったが、演技とも思われない。

そのようなことが続くうちに、裁判所としても、さすがに制止も聞かずに不規則発言を続けるAさんに我慢ができず、Aさんに対し退廷命令が出されることになった。

ここでいきなり弁護団として壁にぶち当たった。まずは異議を出すが、異議が認められず退廷となると、果たして被告人がいない中で弁護人として尋問を続けるか否かの対応を迫られることになったのである。しばし休廷をもらい、弁護団で協議した。退廷命令に抗議して我々も退廷しようという強硬論も出たが、最後は被告人なしでも尋問を続行しようとの結論となった。弁護団の退廷自体の可否よりも、退廷することにより反対尋問が打ち切られ、それ以上の真相を究明することができなくなる、ということを重視した結果である。

その後も退廷命令が繰り返され、被告人不在での審理も度重なった。しかし、そのころから、我々弁護団とAさんとの関係がおかしくなっていった。

接見拒否

我々は、公判期日と公判期日の合間に、分担して東京拘置所に赴き、できる限りAさんと接見をするようにしていた。ところが、平成8年の終わりころから、我々が接見に赴いてもAさんから接見を拒否されるという事態が生じるようになった。接見に来たことを職員から告げられても、Aさん自身が接見室まで出て来ないのである。それまで接見拒否というのは警察署あるいは拘置所の職員からなされるものと思っていたが、被告人本人からの接見拒否というものもあることを知った。

ただ、接見に応じるときもある。しかし、そのようなときも、Aさんは我々に対して一切物を言わないようになった。このような状況は、その後判決まで続くことになる。

これには我々も苦しんだ。

私は、弁護士になって初めて受任した国選弁護事件で、実刑判決を受けた被告人から、「あんた、ひどい弁護士だね」と言われたことがある。それがトラウマのようになり、それ以来、私は、刑事弁護においては被告人との信頼関係が最も重要であり、そのためには弁護人は被告人のために誠心誠意弁護活動を行うべきであると考え、実践をしてきた積もりである。このような意味で、被告人から接見を拒否され、また被告人が弁護人に対して一切口を閉ざしてしまうという事態は、被告人との信頼関係が全面的に崩れてしまった以外の何ものでもない。

もっと被告人と正面から向き合うべきではないのか、そのためには審理の中断が必要ではないのか。しかし、審理の円滑な進行に熱心な裁判所がこれを認めるはすがない。そのような中で我々弁護団が考えた手段は、月4回ある公判期日のうち1回をお休みしようということであった。もともと我々は月3回の開廷を主張していた。

我々の疲労も頂点に達していた。

公判欠席とその波紋

平成9 (1997)年3月14日、我々は裁判所に欠席届を出し、第30回公判を欠席した。理由は月4回の開廷による疲労である。その前に、裁判所には月3回の開廷を再度求めたが、認められず、3月6日付けで弁護団の全員を解任するよう求めたが認められなかったことによる最後の手段であった。

この公判欠席の波紋は予想以上に大きかった。マスコミから大きく非難されたばかりでなく、弁護士仲間からも非難の声が上がり、憲法記念日における最高裁長官の談話の中でも取り上げられることとなった。 平成9年4月24日の第34回公判では、裁判官交代による更新手続が行われた。我々はその機会にこれまでの審理経過を踏まえて窮状を訴えた。また、地下鉄サリン事件に関する大量の証拠について全て不同意とする意見を述べた。そして、Aさんはと言えば、被告事件に対する陳述の機会に、何と英語で「自分はエンタープライズの上にいる」というようなことを述べ始めたのである。

これには我々も驚いた。もちろんこのような打合せはしていない。裁判長が日本語で話すように再三注意したが、 Aさんは従わなかった。弁護団としても、このようなAさんを制御することはできなかった。

その後裁判所と協議の機会が持たれ、最終的には双方が歩み寄り、4回開廷する月と3回開廷する月を交互に設ける、すなわち平均月3.5回の開廷という決着がはかられた。

平成9年12月になると、検察も、地下鉄サリン事件及び松本サリン事件の被害者のうち、比較的軽微な被害者について訴因を撤回する措置をとった。具体的には、地下鉄サリン事件では、3794名の受傷者のうち3780名が撤回され、死亡者12名、受傷者14名のみが審理の対象となり、松本サリン事件では、144名の受傷者のうち140名が撤回され、死亡者7名と受傷者4名となった。審理を迅速に進め早期に判決を得るためとの理由であるが、これによって、前回述べた地下鉄サリン事件に関して当初から私が抱いていた疑問が晴れる余地がなくなってしまった。

しかし、問題の本質がこれで解消されるわけではなかった。依然としてAさんの弁護人に対する接見拒否あるいは「黙秘」が続くことになる。

我々は、たとえこのような状況が続いたとしても、できるだけ接見には赴いて、Aさんに今後の証人尋問におけるポイントや弁護方針、その他の情報を話すこととした。これに対して、Aさんが答えることは一切なかった。我々は、Aさんが黙って聞いてくれていることをもって、黙示に承諾してくれているものと善解した。あたかも我々がマハームドラーの修行を課されているかの感があった。我々としては、以後Aさんの意思を忖度し、弁護活動に当たっていくしかなかった。

Y先生の逮捕

弁護団にとっての試練はその後も続いた。平成10(1998)年12月になって、主任弁護人であるY先生が強制執行妨害罪で逮捕されるという事態が生じたのである。それ以前から捜査が進んでいるという噂は聞いていたが、Xデーは突然やってきた。その日私の事務所で弁護団会議が行われ、会議が終わって事務所の外に出たときのことであった。

事件そのものは、Aさんの裁判とは全く関係がないY先生個人の事件であったが、我々にとっては検察による裁判妨害としか言いようのない出来事であった。Y先生はその後一審で無罪、控訴審で罰金刑となったが、 審判決が出るまでに実に5年の歳月がかかった。

Y先生は、この件で起訴されると裁判所から国選弁護人を解任されることとなった。弁護団の団長は最長老のW先生、副団長は一弁のO先生であったが、両先生は主としてマスコミ対応をし、実質的な弁護活動の中心は主任弁護人であるY先生が担っていた。Y先生は、洞察力、発想の柔軟さ、人情の厚さ、反対尋問の準備の入念さ、そして法廷での迫力、どれをとっても、これまで私が出会った弁護士の中でもずば抜けたスーパーマンであった。そのY先生を失うことは、我々弁護団にとっては大きな痛手であった。

我々はY先生にはすぐに戻ってきてもらいたいと考え、Y先生の戻るべき席を準備することとした。具体的には、Aさんの家族に依頼しY先生を私選弁護人に選任してもらい、さらに全弁護人の指定により主任弁護人となってもらったのである。ただ、当面はY先生がいない以上、裁判所との関係でも、実際に弁護活動を続けていくにも、Y先生に代わるべき副主任弁護人が必要となる。そして、弁護団での協議の結果、私が副主任弁護人になることとなった。私としては、これも運命と思って受け入れ、その後弁論に至るまで、Aさんの意思を忖度しながら、Y先生が敷いたレールの上を進んでいくことになった。

法廷では、それまでY先生が座っていた主任弁護人の席は決まっていた。Y先生がいなくなって以降は、我々は抗議の意味と早く戻ってきてほしいとの願いを込めて、その席を空け、副主任弁護人である私は、その隣の席に座ることとした。しかし、主任弁護人の席は、その後も判決に至るまで埋まることはなかった。

怖い体験

話は変わるが、8年にわたる裁判の中で、一度だけ心臓が止まるかと思うほど怖い思いをしたことがある。選任された当初は損害保険までかけて身の危険を心配したほどであったが、特に何事もなく時が過ぎ、そのうちに裁判自体が日常化してきて、危険を感じるという感覚も麻痺してきた頃のある日のことである。

私は、弁護団会議を終えて、仲間と一杯飲み、夜遅くなって郊外にある自宅に帰ってきた。私が自宅の門に近づいて行くと、反対側の物陰から一人の男が出てきて近づいて来るではないか。街灯はあるもののシルエットしか分からないほどの暗さである。だんだん私が門に近づくにつれて、相手も近づいてくる。このままでは門のところで丁度出会ってしまう。一体何者なのか。心臓の鼓動が激しくなり、酔いも一気に醒めてしまった。このままプスッと刺されても防御のしようがない。全く何者か分からないまま、相手の顔も見ず、私がいよいよ門に手をかけたとき、相手の男から声をかけられた。「〇〇先生ですね。〇〇新聞の者です。」

新聞記者でホッとする反面、このような怖い思いをさせられたことに対し怒りが込み上げてくる。しかし、私がを飲んで何時に帰るかも分からないのに、この新聞記者はずっとここで待っていたのであろうか。しかも、取材をされても、こちらも余り期待に沿える回答をすることもできず、ほんの何秒間かの遣り取りで終わってしまった。そう思うと、多少は同情の気持ちも湧いてきた。

あちらも仕事とはいえ、本当にご苦労様。

マスコミ報道

麻原裁判の様子は、常に新聞のトップ記事で扱われたが、私は、この裁判を通じてマスコミを信用しなくなった。というのは、マスコミは、常に偏面的な報道しかしなかったからである。Aさんに有利な証言は一切記事にならないのである。

刑事裁判というものは、検察官による事件の見方に対し、被告人側からも事件に焦点を当てさせ、それを公正中立な裁判官が判断をする場であるはずである。反対尋問の場でも、我々弁護団としては、検察官の見方に対し、絶えず複眼的な見方を提示し、検察側証人の証言を弾劾していた。しかし、多少それが成功し、主尋問がぐらついたかと思えるときであっても、マスコミ報道はそのことを取り上げない。「〇〇証人は、検察官の尋問に答え、『・ ・』と証言した」としか記事にしないのである。これでは、それしかニュース源がない一般国民のみならず、同業の弁護士でさえ、Aさんは真っ黒、弁護団は時間の引き延ばしをしているとしか映らないに決まっている。弁護団のアピールが足りないのではないかと思われるかもしれないが、弁護団としては公判終了後に毎回、団長、副団長らが記者会見をし、尋問の意図なども述べているが、それが一切報道されないのである。

日本におけるマスコミのレベルも低い。何でこんな極悪非道の犯罪者に弁護人をつける必要があるのか、それも国の費用で12人もの弁護人を・・ これを一般の人が言うのならまだしも、テレビに出てくるコメンテーターたちが述べて、一般国民の感情を煽るということがあってよいのか。マスコミとしては、このようなときこそ、被告人の裁判を受ける権利を保障した憲法37条の理念を一般の国民に訴える良い機会だったのではないか。

そのような中で、私としては、「このような事件でこそ、きちんとした弁護活動をすることが、日本の司法制度にとっては必要だ」との信念をますます強く抱いたのであった。

被告人質問

平成15 (2003)年3月、検察側の立証が終わり、弁護側の数少ない立証も終えた最後の段階で、被告人質問をすることとなった。Aさんは、その後も「黙秘」を継続している。

我々は、最後にAさんが法廷で事件に関し話してくれることを期待し、それぞれ自分の思いを込めてAさんに質問を発ししかし、Aさんはここにおいても黙秘を貫いた。

私は、最後に質問をすることとなったが、これまでの思いをAさんにぶつけた。

私はこれまで被告人との信頼関係を一番大事にしてきた。ところが貴方は我々に一切口を閉ざすようになってしまった。実質審理が始まった当初、貴方が不規則発言をするようになり、さらに我々との接見を拒否するようになった。それは貴方が我々の弁護活動が容認しがたいものと思っていたからであろう。にもかかわらず、我々は公判期日を続行してしまった。しかし、それは間違いだった。やはり、あのとき、世間が何を言おうとも、弁護団としては公判を中断して、貴方としつかりと向き合い、貴方が何を考えているのかを聞き、それを踏まえて弁護方針を修正するという作業をすべきであった。我々の弁護活動は失敗だった。

およそこのような趣旨のことを述べ、Aさんに発言を促した。しかし、Aさんは私に対しても終始黙ったままであった。私の思いがそのときAさんにどこまで伝わったかは分からない。

弁論と判決

被告人質問が終わると、弁論要旨の作成が始まった。弁護団11名で、それぞれ担当したところを中心に原案を作成し、それを皆で議論して正式の文章に仕上げていくという作業だが、合宿も行い、何ヶ月もかけて準備し、最終的には814ページに及ぶ弁論要旨が作成された。

Aさんは各事件につき殺害を指示していない、教団幹部らがグルの意思を忖度し、自らの判断で行った事件であり、サリン、VX等が使用されたとの立証も不十分である、という弟子の暴走説を基調とするものであった。

こで問題が生じた。Aさんに対して死刑判決が予想されることから、弁論においても死刑は違憲であることを主張すべきであるとの意見を述べる者が出てきた。弁護団の大半は、無罪を主張している以上、有罪を前提とする死刑違憲論は述べるべきではないとの意見であった。さんざん議論をしたが、どうしても一人の弁護人が最後まで譲らず最終的には皆の弁論に加えて、その弁護人だけが補充の弁論として死刑違憲論を述べることとなった。最後の最後の段階になって弁護団に生じた亀裂であった。

判決は平成16 (2004)年2月27日に下された。結果は皆さんご承知のとおりであり、我々の主張はほとんど全てが採用されなかった。

我々は即日控訴を申し立て、その職務を終えた。

おわりに

麻原裁判が始まったころ、私は当会に実務修習に来ている司法修習生たちに刑事弁護の講義をする中で、「貴方だったら、このような事件の国選弁護人の依頼を受けた場合どうするか」という趣旨の出題をしたことがある。修習生たちは本当にまじめに考えてくれ、「労力と責任が重すぎてとても受けられない」とか、「正義感に反するので受けない」などの答えをする者もいた。その中に「どのような極悪非道の犯罪者であっても、裁判を受ける権利が憲法上保障されている。だから形式的でも国選弁護人がついて裁判を行うべきだ」との意見を述べる修習生がいた。私はすかさずそれは誤りであると指摘した。

憲法の保障する弁護人選任権は、弁護人による実質的な弁護を受ける権利を保障しているものである。これまで述べてきたように、我々は、このような事件においても、きちんとした弁護人がつき、きちんとした弁護活動が行われることが必要であると考え、検察のみならず裁判所をも相手に、8年という長期間にわたって闘ってきたのである。

我々が行ってきた弁護活動の意義はどこにあるのか。それはこれを読んだ皆さんに改めて考えてもらうしかないが、私としては、先に述べた被告人質問での発問のとおり、我々の弁護活動は本当に被告人のための弁護活動であったのか、疑問をもっている。

今にして思えば、これだけの事件なのであるから、第1回公判までの公判準備にもっと十分な時間をとるべきであったと思う。十分な時間をかけて、事件の争点を見極めることができれば、結果的にはもっと早い解決となったかもしれない。裁判所の拙速も非難されるべきであるが、我々が第1回公判期日を受けてしまったことによって、その後我々が混迷する原因となる「土俵」が設定されてしまったと言えるかもしれない。

(おわり)

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註釈

関連項目

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番組・手記 NHKスペシャル 未解決事件 File.02 オウム真理教 - 麻原裁判をふり返って
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