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恒心文庫:運虎武龍

提供:唐澤貴洋Wiki
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本文

月永帝の放蕩と諌言

8世紀初頭、唐は繁栄を謳歌しながらも、北方の遊牧民系集団、中華思想で言うによる度々の襲撃に悩まされていた。

しかもそれまでは押して押されての均衡した状況であったのが、月永帝(げつえいてい)が皇帝に即位するとこの状況は更に悪化してしまうこととなる。


月永帝は唐の歴代皇帝の中でも屈指の遊び人であった。彼は青空を鑑賞して一日を過ごすことがあったかと思えば、武芸を研鑚するという名目で部下の兵士を引き連れて山奥まで虎狩りに出かけ、狩った虎の肉をその場で食する虎研磨という行事を突如として始め出すこともあったという。


この為、内政が混乱するようになった上に異民族の軍事行動への対処が後手に回り、国境(長城)付近の町や村が大損害を被る事が常態化してしまったのである。

そしてある日、危機感を覚えた臣下の一人、谷 川亮(コク-センリャウ)は彼に進言をした。

「陛下、長江の治水工事があなたの放蕩により遅滞しているために、度々の川の氾濫により流される家々は幾千戸、命を落とす人民(百姓)は幾万人にも及びます。彼らは流されて行方も知れず、葬式どころか墓を建ててやることもできません。 また、夷狄(いてき)に対する備えも忘れられており、長城は補修を怠っている為に所々が朽ち崩壊しております。 私は北の蛮族どもとの戦いに何度か加わったことがあります。 彼らの馬の蹄が、戦いの初めに作る微動を私は気持ち良くは感じず動悸を抑えられませんでした。 武人の私ですらこうなのに、人民たちが日々侵攻の恐怖に怯えていないなどということがありましょうか。 いやない。 陛下、私は進言いたします。 一つ、遊びをほどほどに慎み天子としての本来の仕事を為すこと。 一つ、ただちに兵士の訓練を開始させ、北への防備に当たらせること。」


月永帝は納得し、こう答えた。

「なるほど、そなたの言う事は実に正しい。 しかし朕は生まれもっての天子であるから働いたことなどなく、それゆえ人民の気持ちを完全に理解した施政は不可能である。 そこで朕はそなたに命ず。 的確な進言をして朕を確実に補佐する、ここの誰より才を持つ物を朕の元へ連れて来てはくれないだろうか。」


自分より優秀な人材の抜擢を命じられた谷川亮は、困って悩んだ挙句に官僚のタマゴ、すなわち科挙の合格者をあたってみる事にした。

科挙という激烈な試験を潜り抜けてきた物ならば優秀なのは当然であったし、まして組織に入っていない段階での人間であれば上下関係などを恐れた硬直化などなくまだ十分理想に燃えている為、柔軟な答えが出ると考えたのだ。

その時においてはまったく合理的な考え方であったが、後世の史家は谷川亮のこの選択を彼の人生最大の過ちと評している。


澤 貴洋

澤 貴洋(タク-キヤウ)の生没年は不明であるが、恐らくこの故事が生まれた時には既に三十台半ばであった可能性が高いということが後の歴史家の研究により明らかにされている。

貴洋は三十二歳にしてようやく科挙に合格した肥え太った男であったが、しかし地元(現在の河南省)では、彼は親の七光りを身に纏い「臥薪嘗胆」と称し道楽の限りを尽くす、貴族の馬鹿息子として有名であった。

彼の科挙合格は不正によるものであるというのが現代の通説であり、今で言うカンニングをした(実は科挙ではカンニングがかなり横行していた)という説と、弟の澤 厚史(タク-コウシ)に替え玉で試験を受けさせた後に厚史を黄河に突き落とし口封じをしたという説の二つが存在するが、確たる裏付け資料は未だ見つかっておらず、歴史は決して語らない。


何はともあれ科挙に合格し長安に上った貴洋は、程なくして谷川亮に声を掛けられることとなる。


推挙と皇帝の試問

谷川亮は省試(科挙の最終試験)の合格者に「皇帝の補佐をしてみるつもりは無いか」と聞いて回っていたものの、そのことごとくが謝絶されていた。その為彼は焦っていた。

彼らはいくら科挙に合格したとはいえ未だ実績の無い若者たちばかりであり、国家の命運を握るなど恐れ多いと考えるのも当然のことであった。ましてや失策を奏上してしまった場合死刑は免れないのだ。


そして尋ねること十一人目にして、遂に彼の望んだ返答が帰ってきた。それこそが澤貴洋であった。

「国家の平定、当に(我が)職とすべきなり」


喜んだ谷川亮は早速彼に金三十万両を与え、皇帝の御前に連れていくこととなる。


月永帝は彼に問うた。

「そなたの理想とする治世とはどのようなものか。」

貴洋は答えた。

「恐怖による治世であります。 それまでいかに善い施政を行い名君と呼ばれていようと、民衆の間に一度反抗心が生まれてしまえばその心はあっという間に中華全土を覆い、やがては易姓革命へと繋がることでしょう。 そんなことをさせないために官吏と兵をつかい皇帝の権力というものを人民の心の中にきざみ恐怖心を植え付ければ人民は王朝にもっと協力的になるのではないかと思います。」

月永帝はさらに問うた。

「なるほど、参考にしておこう。 ところで近年、北の蛮族共が中華にたびたび侵攻し、その度に人民はおびただしい被害を出している。 彼らは野蛮ではあるが末端の兵士に至るまでよく訓練されており、指揮官の命令をすぐに聞き分け的確な行動を取ってくる。 しかし、こちらの兵士達はまだ訓練を始めたばかりであり使い物にならない。 どうすればよいと思うか。」

貴洋は答えた。

「今すぐに兵を派遣し夷狄どもを撃滅すべきと考えます。 私の郷里には次のような言い伝えがあります。 ある山に、武芸はとんと駄目であったが、天の意を受けていたおかげで常に幸運に恵まれていた虎と、常日頃から武芸を鍛えていたが天から野蛮と評されていた龍がいました。 ある日両者は遂に激突し、激しい争いを演じることとなりました。 そして最後に勝ったのは虎の方でした。 運虎、武龍に勝つ。 いかに武芸に優れていようと天命に逆らうことなどできなかったのです。 逆に言えば天命を受けてさえいればいかなる敵であろうと関係ありません。 ここには天子になるべく、天命を受けた皇帝がいらっしゃいます。 陛下の号令ひとつで山のような兵たちが動き蛮族を必ずや滅ぼすことでしょう。」


惨敗と処刑

それを聞いた月永帝は喜び、臣下の反対意見も聞くことなく早速派兵を決定する。 未だ訓練の終わっていない十万に及ぶ兵士達が北の平定に向け出発したのである。

結果は言わずもがなであった。 優秀な騎兵の群れである北狄の軍勢に烏合の衆が敵う筈もなく、あっけなく唐軍は包囲され全滅した。 「唐軍紀伝」はこの時の様子を生々しく記している。

「……戦い続くことわずか三日目にして数万の兵士を失い、所々に死体の丘が出来上がった。 我が唐が誇る、幾年とかけ武芸兵法百般を学んできた将軍たちもあっけなく討ち死にしてしまった。 ああ、この乾いた大地に本来流れてはいないはずの河、血の河よ。 幾千騎もの敵が轟かす雷鳴のような地鳴りは、我が軍を戦う前から崩壊させてしまった。……」


その惨憺たる結果を聞いた月永帝は激怒し、澤貴洋の処刑を決定する。

処刑の報を聞いた貴洋は慌てて逃げ出そうとするも、その肥えた巨体が仇となってすぐに捕らえられてしまう。


以下は、処刑に際して澤貴洋が遺したとされる言葉の現代語訳である。

「最期に残す言葉。考えてみると何にもない。別に何を引き継ぐとか黄河の伝統を守ってくれだとかそんなことはこれぽっちも頭の中にない。ただ思うに自分のことを考えれるようになれば、それでいいと思う。それと学問、自分のことを考え人のことを考えれるようになれればこの世に生を受けたことは決してむだではないだろう。 ではさよなら中華王朝」


そして処刑当日、澤貴洋は斬首の直前になってとうとう恐怖に負けてしまい、奇声を上げながら脱糞したと「唐史伝」は伝えている。 以下はその場面の抜粋である。

……兵士がとうとう刀を構えると、澤貴洋は震えだし命乞いを始めた。

そして聞き入れられることがないと悟るや、ついに脱糞しながら奇声を上げだし、


「嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼!!!」(武利武利武利武龍龍龍龍龍龍龍龍龍龍龍流!! 仏遅遅武武武地地地武利利衣利部部部部宇!!!)


と周りの観衆や兵士たちを驚かせた。この声は周囲十里にまで届き天地を震わせた。

その後まもなく、澤貴洋は斬首された。


このエピソードから「運虎武龍」の故事成語が出来上がり、「必ずしも武力のある方が勝つわけではなくそれと同じくらい運も勝負を左右する」という意味と「奇声を上げて大便を漏らしてしまうさま」の二つの意味を指すようになった。

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