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恒心文庫:あなたの側に射る弁護士がいます。

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本文

「こんちはーっ」
ある昼下がりの事である。道を歩いていると、突然声をかけられた。何気無く後ろを振り向いても誰もいない。ただひと気の無い通りがどこまでも続いている。スーツ姿の男は首をかしげると、また正面に向き直った。
ふと、何かが鋭い風の音と共に男の頬をかすめていく。思わず男は右手で頬を撫でた。
指先が輪郭の表面をぬめる様に滑った。妙な感触である。男は手のひらを自身へと向け、そして立ち止まった。
顔の前にかざした手のひら、その指先から手首に向かって粘質な液体が伝っていくのを、男は見ていた。
血だ。男はしばらく固まった後、弾かれたように辺りを見渡すと、走り出した。なかば転げ落ちるかのように灰色の地面を駆け出した。
そうして沈黙した路地、その遥か後方の電信柱の影にのそりと動くものがあった。どうやら異国の人間である。彫りの深い面立ちを陰鬱に俯かせ、なにやらブツブツと呟きながら、やがて走りだした。男の前方、先ほどスーツ姿の男の頬をかすめていった何かが、ブロック塀に突き立っている。それはスコップだった。
異国の男はそれを音も無く引き抜くと、曲がり角に消えていった。



長谷川少年は呆然としていた。いつもと同じ帰り道。家に着いた少年を待っていたのは、ドアの前に倒れ伏した大柄なデブであった。その身を包んでいるスラックスは所々が擦り切れ、切り裂かれたジャケットからは血が滲んでいる。
これではドアが開けられないンゴォ。少年は弱々しい呼吸を繰り返すスーツ姿の男、その伏せられた頭の回りを所在無さげにグルグル歩き回ると、やがてその頭を蹴飛ばした。そして驚愕した。
大きな音を立てて折れ曲がった首の先。
その上を向いた顔面が、かつて少年の依頼を受け、その身代わりとなっていた弁護士のものだったのだ。
ンゴォォォ。少年は恐ろしさのあまり逃げ出そうとした。しかし後ろに壁があってこれ以上進めない。少年の足が懸命に地面を掻くが、少年の体は後ろへと進むことは無い。
しばらくして、ふと少年は不思議に思った。先ほどから自分が必死に体を押し付けているのは何なのだろう。少年は恐る恐る振り向いた。そして見上げた。
天高く輝く太陽、その光を何かが遮っている。それは重く、深い呼吸を繰り返している。逆光でわかりづらいが、恐らく男だ。長谷川少年が先ほどから体を押し付けていたのは、男の腹だったのだ。
男は逆光を投げかけるかの様に長谷川少年の顔面を覗き込んでいる。異邦人の、彫りの深い陰鬱な顔。数瞬後男は視線を切ると、その右手をおもむろに振り上げた。
右手には、スコップが握られていた。よく使い込まれた、そしてよく磨かれた表面に、長谷川少年の呆気に取られた顔が映り込む。太陽光線がその輪郭に沿って滑り、長谷川少年の視界を刺し潰した。
長谷川少年は思わず目をつぶった。次いで響いた粘質な音を、少年はどこか遠くに聞いていた。あの振り上げられたスコップは、自分に向かって振り下ろされたのだろうか。
しばらくして少年は、恐る恐る目を開けた。
そこには誰も居なかった。代わりに少年の後方、家の前から音が聞こえてくる。少年は振り向いた。
そこでは、男が穴を掘っていた。縦長の直下堀りだ。男の横に転がっているのはスーツに包まれた肉体である。関節ごとに断ち切られた両手足が、その胴体の上に丁寧に並べられている。それらが丁度入りそうな幅の穴を、男は掘っているのだ。
「ウメタテーッ、ウメタテーツ!」
男はカタコトで叫び声を上げながら土煙をあげている。玄関前に敷かれたカーペットも、石畳も、地面に根を張ったミントさえも一緒くたに掘り進んでいく。
長谷川少年は呆然と、時間だけが過ぎていくのを感じていた。

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