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恒心文庫:ではさよなら『崩星二厨』

提供:唐澤貴洋Wiki
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本文

曇天が渦巻いている。とぐろを巻いてうねる厚い雲は、時折その隙間から太陽の光白けたように覗かせるが、ただそれだけだ。日の光の十分に届かないコンクリートの地面は、より冷たく、より固く、黒々と地面を覆っている。その表面を、鈍く湿った風が薙いでいく。男はその音を聞いていた。鼓膜を重く震わせるその音の中、男はうつむくようにして佇んでいた。
絶えず吹く強い風がスラックスのすそを小刻みにはためかせ、舞う砂埃が男のスーツに軽い音を立てて散る。しかし、男は微動だにしない。ただ、うつむいた自身の顔面を、スーツに通した両の腕、その節くれだった手のひらで隠すように覆っている。数刻もの間、男はそのようにして立っていた。
そうしている内に、風の中に奇妙な音が混じるようになった。金属と金属をすり合わせるかのような、か細く甲高い、かすれた音。どこか笛の音に似たそれが、吹きすさぶ風を縫うようにして響いている。それは曇天に向けて無数に突き立つビル群、その中空を抜けながら、徐々に近づいてきているようだった。
対して、男は身じろぎ一つしなかった。変わらずうつむき、手で顔を覆い隠している。陰になったそこからは表情をうかがい知ることはできない。しかし風にも揺れずに天地逆立つ黒髪の様、隠しきれない男の激情がそこには顕れているようだ。それを、男は顔を覆った両の手のひらで沈黙させている。
そうしてより一層渦巻く曇天の下、いよいよ甲高い金属音が大きく鳴り響き、それは姿を現した。無秩序に伸びたビルの群れ、その側面を滑るようにして、無数の影が駆けてくる。
それは一見大福のような白い体をもち、同じように大福のような白い頭をもっていた。短い手足でそれらを無茶苦茶に振り回しながら、白い影は瞬く間に風吹くビルの谷を覆い尽くしていく。
遥か過去、それらは【風の民】と呼ばれていた。
金属を擦り合わせたような甲高い声で鳴き、凍えるように冷たい息を吐き、風にまぎれて狩りを行うという。そして『九理』ーーー人間を人間たらしめる『仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌』、そして『愛』ーーーを食らう。この『九理』を失うと人は人でいられない。血を失った肌は黄色く色づき、目は死んだように輝きを失って飛び出し、そして金属バットを片手に獲物を探してさまようのだ。まるで、自分に欠けてしまったものを補うように。
その哀れな犠牲者たちを、男は知っていた。その犠牲者たちは群れとなって、かつて男に襲いかかったのだ。男ははじめ、自分を守るために拳をふるった。
ただ思うに自分のことを考えれるようになれば、 それでいいと思う。
正当防衛だ。そう思っていた。

ただそのイエローペリルは、自分だけに留まらず、男の愛すべき友人、愛すべき家族をも無慈悲にのみこんだ。
男は迷った。戦ううちに、その黄色い哀れな人達を開示するたびに、彼らがいかにかわいそうなのかを知ったからだ。征服する快感だけを教え込まれ、人間として生きることを忘れた哀れな人々。ただ、迷ったまま男は拳をふるった。
そうして黄色い人達は黄色い人達のまま檻に入れられ、肉便器にされた父は真っ白な部屋でただ笑うだけになり、弟はなすすべもなく死んだ。
人は人を愛さなければない。男は涸れた声で呟いた。ぽつりとつぶやいた言葉は虚空に溶け、風にまぎれて消えていく。
もはや、言葉は力を持たないのだ。
ただ、それでも男は言葉をつむぐ。あの白き民達も、元々は人里離れた集落でひっそりと暮らしていたのだ。何かやむを得ない事情が、理由があったのかもしれない。それでも。手で覆った向こう側、陰になって見えない顔をなお隠しながら、もう迷わないために男は言葉を口にする。
人は人を傷付けて幸せになれるのか。男は震える手を、自分の顔に食い込む指先を感じている。君は親を殺すことができるのか。白い病室で父は最後まで綺麗な笑みを浮かべていた。あれは決してエゴではない。いま君は何を見ているのか。目の前には、誰かの幸せを壊すかもしれない誰かがいる。
ならば当職は、私は幸せにならなくていい。
男はそっと顔をあげた。
それは苦しみだった。そして堪えようのない怒りであり、悲しみでもあった。言いようのない感情がぐるぐると渦を巻いて、男には自分がどのような表情を浮かべているのかわからなかった。
男はただ薄く微笑んでいた。
男は手のひらをちらと見た。小さい時、父の手はあたたかで、大きなものだった。生まれたばかりの弟の手は、ぷくぷくとしていて、とても小さかった。
守るべきものは手のひらの内にあったのに。手のひらは繋ぐためにあるのに。
男は手を硬く握り締める。もう、この手が誰かの手を優しく包むことは、たぶん、ないのだろう。
ふと空を見る。鉛色の空は何するでも無くどこまでも続いている。
ではさよなら。
男は握り締めた拳を振りかぶり、そして振り下ろした。
『崩星二厨』
最後に口にしたそれは、悲しい決意に満ちていた。

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