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恒心文庫:お菓子な人

提供:唐澤貴洋Wiki
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本文

鈴木文刀には忘れられない味があった。
それは山形県山形市平清水にあるとあるケーキ屋のショートケーキの味だ。
鈴木文刀は10年以上前、宮城県仙台市青葉区に引っ越した。
大好きだった作並温泉の女湯の脱衣所に興味本位で侵入し、逮捕されてしまった。
罰金刑だけで済んだものの、犯罪歴が自分を苦しめた。
勤めていた会社からは解雇され、再度就職活動に励むもはっきり言って惨敗だ。
どこへ言っても過去の犯罪歴が原因で書類審査の段階で落とされる。
気が付けば自分は数年前まで馬鹿にしていた引き籠もり、親のすねかじり虫そのものになってしまっていた。

これはいけない。
親の引きニートの鈴木文刀は何とかして過去の輝かしい自分に戻りたいと思った。
すると頭の中にふと山形県山形市平清水にあるケーキ屋を思い出した。
作並温泉で女湯侵入して以来、行ってなかったな。
もう2年くらい経つだろうか。
あのケーキ屋は今でもやっているのだろうか?
興味本位でケーキ屋に向かう。
ケーキ屋は自分の知っているままの姿であった。
引きニート生活で金が足りない鈴木文刀であったが、懐かしの味を堪能したい衝動に負け、ショートケーキを購入した。

ショートケーキの味は自分の知る味のままであった。
自分が生まれる前からこの地でケーキを作り、売り続ける老舗のケーキ屋だ。
数年食べていないだけであの味が変わるはずがないのである。
翌日も何もすることがない鈴木文刀はふらっと外に出て徘徊していると、無意識のうちにあのケーキ屋の前に立っていた。
別に毎日食べたいほどの味でもないのだが。
子供の時も何か達成したときのご褒美程度でしか食べてないケーキ。
今の惨めな自分が食べるべきものではないはずである。
何を思ったのか、鈴木文刀の頭には子供時代の思い出が走馬灯のように浮かんでは消えてを繰り返し始めた。
子供時代の思い出。
今とは比べものにならないほど輝かしいもの。
努力して得た栄誉、皆で一致団結して一つのプロジェクトを大成する、皆で盛り上がってバカ騒ぎした青春、それらは今の鈴木文刀を大いに苦しめた。
今の惨めな鈴木文刀とは比較対象にすらならないものなのである。

気がつくと鈴木文刀はケーキ屋の前で泣いている。
子供の時はこのケーキ屋を見ただけでも飛び上がるほど嬉しかったのにケーキ屋を見るのがつらくなっていた。
それは今の鈴木文刀を昔の鈴木文刀に重ねてみてしまう鈴木文刀がそこにいたからである。
ケーキ屋の前でなぜか号泣する鈴木文刀は他の客からは「おかしな人」だと思われているだろう。
2012年4月15日の午後3時半頃、鈴木文刀が作並温泉の女湯の脱衣所に侵入したときに他の女から向けられた憐れみの視線を思い出す。
あの時も自分は「おかしな人」だと思われていたのだろうか。
考えれば考えるほど、あの日を境に人生が変わってしまった鈴木文刀が今の鈴木文刀であることに絶望する。
生きていることが死そのものなのである。

鈴木文刀は昔からケーキ以外にも甘い物が大好きであった。
鈴木文刀のお菓子に対する知識は凄まじく、かつての仲間達からは「お菓子な人」だと思われていた。
当然今の「おかしな人」ではない。
お菓子が大好きで将来お菓子の家に住みたいと本気で思っていたほどの「お菓子な人」である。
その中でも特に好きなのは、あのケーキ屋のショートケーキなのである。
ショートケーキはスポンジ、クリーム、イチゴと、3つの材料から構成される。
ショートケーキはケーキの中でも王道中の王道、即ち見た目の奇抜さや斬新さでは勝負できないのである。
スポンジはたったコンマ1秒の差で味が変わってくるし、クリームも配分を間違えるとくどい甘さとなってしまう。
イチゴもショートケーキのスポンジやクリームに合うものを選ばなければならない。
職人に問われるのはスポンジ、クリーム、イチゴの最高のバランスだ。
小細工は許されず、味で勝負するしかないショートケーキは、実は一番奥の深いケーキなのである。
鈴木文刀の好きなショートケーキは自分の生まれる前から作られ続けてきたものであり、長年あの味を守っているわけである。
職人の苦労が窺える。
自分もある意味職人技に憧れて院生になったのではないかと考える。
やはりだけだ。
違うことを考えても結局今の人生が終わった鈴木文刀に行き着いてしまう。
忘れられないあの味と忘れたくても忘れられないあの思い出は紙一重なのかもしれない。

店の前で立ち続けて2時間が経過しようとしていたとき、店から1人の店員が出てきて不意に話しかけられた。
哀愁漂っていた鈴木文刀は我に返る。
そこにいたのは自分が幼い頃からこのケーキ屋で働いている店員で顔なじみのある人だ。
一方で店員側も常連さんであることは把握しているので話は早い。
とりあえず店の中に入って話を聞いてくれることとなった。
店の中のレトロな振り子時計は閉店時間間際を指し示していた。
店の奥にはパティシエの田中一哉がいた。
田中一哉は一日中奥でケーキを作り続けている人ということくらいしか鈴木文刀は知らなかった。
聞けば田中一哉は寡黙な人で、黙々とケーキを作っているのだそう。
昔の鈴木文刀も田中一哉のような、黙々と一つのことに取り組み続ける人に憧れていたのだろう。
店員は鈴木文刀の悲しい過去を受け入れてくれた。
自分の悲しい過去を他人に言うことは抵抗はあったが、この店員であれば受け入れてくれるという希望的推測があったため、素直に打ち明けることができたのである。
引き籠もりの自分に今できることなど考えるに何もない。
しかしながら店員さんは気を遣ってこの店の手伝いをしないかと申し出てくれたのだった。
お金も出るし昼と夜のまかないも出してくれるという。
一日中何をすることのない鈴木文刀にとってはこれ以上にないほどの朗報だ。
早速明日から鈴木文刀はこのケーキ屋で手伝いを始める事となった。

ところが鈴木文刀が手伝いを始めたことで店側に大きな問題が生じた。
イチゴの切り方が悪いし、砂糖を均等にまぶせないし、社会人になって数年が経つのに常識的なことが身につかず、勉強の成績はクラスの中で平均的と言う癖に学習能力が皆無なのである。
手伝うどころか足手まといにしかなっていない。
鈴木文刀を「お菓子な人」たらしめるはずのあの店からも自分は「おかしな人」扱いされるようになった。
初めこそ手伝いを申し出てくれた店員さんが庇ってくれたのだが、次第に他の店員、挙句の果てには提案者からも腫れ物扱いされるようになった。
あの店員は責任を負うために退職し、自分には頼れる味方がいなくなってしまった。
店の売り上げは暴落し、寡黙な田中一哉でさえ苦言を呈するようになった。
他の店員に素直に謝っても売上金は時が経つにつれてどんどん減っていく。

遂に我慢できなくなった田中一哉は鈴木文刀を殴った。
溜まりに溜まった感情が爆発したのだ。
それでも飽き足らなかった田中一哉はストーブにかけてあったやかんの熱湯を頭に浴びせかけて、鈴木文刀に全治3ヶ月の大火傷を負わせてしまった。
他の店員も田中一哉が動き出したことで一斉に暴行に加担する。
数日間続いた鈴木文刀への暴行は、客が不審に思い警察に通報したようで、田中一哉と鈴木文刀以外の店員は全員傷害の疑いで逮捕された。
店員が一斉に警察に逮捕されたことで鈴木文刀は再び孤立してしまった。
あのケーキ屋は自分が怒られたときでも、どんなに店員の機嫌が悪くても味は変わらなかった。
そのことだけは凄いと思う。
当然のことながらあのケーキ屋は事件以降廃業し、再度独り身無職になってしまった。
これから自分はどうやって生きていこう?
「おかしな人」の苦悶はこれからも続いていく。

タイトルについて

この作品は公開された際タイトルがありませんでした。このタイトルは便宜上付けたものです。

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