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「BC級戦犯60年目の証言と日本の戦争」の版間の差分

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>津島蓮生
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 では、兵科予備学生の制度からお話します。第一期の学生は二八〇名のうち二三〇名は帝大や国立大学の卒業生で、第二期は四〇〇名のうち三〇〇名が帝大か国立大学の卒業生で、これらは海軍省人事部好みで選んできましが、私ども兵予三期になると、戦局がおかしくなって来たこともあり、私立大学の優秀な者も含め、三六〇〇名も選ぶようになったのです。<br>
 では、兵科予備学生の制度からお話します。第一期の学生は二八〇名のうち二三〇名は帝大や国立大学の卒業生で、第二期は四〇〇名のうち三〇〇名が帝大か国立大学の卒業生で、これらは海軍省人事部好みで選んできましが、私ども兵予三期になると、戦局がおかしくなって来たこともあり、私立大学の優秀な者も含め、三六〇〇名も選ぶようになったのです。<br>
 私たち三期までは、予学の試験に合格して館山の砲術学校に入った途端、いきなり少尉候補生と兵曹長の間の身分(准少尉候補生)が与えられました。娑婆(軍隊のそとの社会)から、いっぺんに水兵や下士官の地位を飛び越え、士官服着用と短剣を吊すことが許されのです。さて、私たちは、基礎教程の三ヶ月がおわり翌十九年一月になると、術科がわかれ、砲術、陸戦、航海、通僧などにわかれた。そのうち、私は優秀なトップーグループ(陸戦)の二〇名に選ばれ、「山岡部隊」という特殊部隊要貝になったのです。<br>
 私たち三期までは、予学の試験に合格して館山の砲術学校に入った途端、いきなり少尉候補生と兵曹長の間の身分(准少尉候補生)が与えられました。娑婆(軍隊のそとの社会)から、いっぺんに水兵や下士官の地位を飛び越え、士官服着用と短剣を吊すことが許されのです。さて、私たちは、基礎教程の三ヶ月がおわり翌十九年一月になると、術科がわかれ、砲術、陸戦、航海、通僧などにわかれた。そのうち、私は優秀なトップ・グループ(陸戦)の二〇名に選ばれ、「山岡部隊」という特殊部隊要貝になったのです。<br>
 予備学生と言えば、本誌の前号、第一二六号の「戦争体験者の証言」(硫黄島玉砕の真実)の大曲覚さんも予備学生の同期です。彼は飛行整備ですね(私も今年三月十四日に硫黄島で日米共同慰霊祭があり、参加してきました)。「山岡部隊」(司令・山岡大二少佐)という特殊部隊ができた理由は、こういういきさっがありました。海軍の将校も入っていた「神兵隊事件」があったのです。この神兵隊という集まりが、海軍省に「イ号潜水艦を一〇隻用意しろ。アメリカ本土に、われわれ神兵隊が攻撃に行く」という上申書を出したのです。その結果、海軍は神兵隊の上申に刺激されたかどうか分かりませんが、特殊部隊を編成して、これをやろうと決めました。その特殊部隊に、私たち二〇名(陸戦)の予備学生が特別選抜されたわけです。だから私の場合、残った予備学生たちとは違い、特別の馴練を受け、任官も進級も早かったのです。終戦近くには大尉になっていました。<br>
 予備学生と言えば、本誌の前号、第一二六号の「戦争体験者の証言」(硫黄島玉砕の真実)の大曲覚さんも予備学生の同期です。彼は飛行整備ですね(私も今年三月十四日に硫黄島で日米共同慰霊祭があり、参加してきました)。「山岡部隊」(司令・山岡大二少佐)という特殊部隊ができた理由は、こういういきさっがありました。海軍の将校も入っていた「神兵隊事件」があったのです。この神兵隊という集まりが、海軍省に「イ号潜水艦を一〇隻用意しろ。アメリカ本土に、われわれ神兵隊が攻撃に行く」という上申書を出したのです。その結果、海軍は神兵隊の上申に刺激されたかどうか分かりませんが、特殊部隊を編成して、これをやろうと決めました。その特殊部隊に、私たち二〇名(陸戦)の予備学生が特別選抜されたわけです。だから私の場合、残った予備学生たちとは違い、特別の馴練を受け、任官も進級も早かったのです。終戦近くには大尉になっていました。<br>
■ 山岡部隊は特攻特殊部隊<br>
■ 山岡部隊は特攻特殊部隊<br>
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 しかし、戦況は、本土各地がB29の猛爆にさらされていた。米本土攻撃など行う実力は、日本軍にはなかった。だが、せっかく特別に編成したこの特殊部隊を使わないわけにはいかない。<br>
 しかし、戦況は、本土各地がB29の猛爆にさらされていた。米本土攻撃など行う実力は、日本軍にはなかった。だが、せっかく特別に編成したこの特殊部隊を使わないわけにはいかない。<br>
「イ号潜水艦」が駄目なので、次に考えたのは昭和二〇年七月末ごろ、一式陸攻六〇機を三沢と北海道に持っていき、その六〇機に一五人ずつ特殊攻撃隊員を乗せるというもので、この九〇〇名、このうち海軍は山岡部隊の六〇〇名、陸軍が三〇〇名がテニアンの飛行場に胴体着陸をして地上のB二九を破壊するというもの(陸軍の三〇〇名のなかに後の外務大臣・園田直が陸軍大尉として入っていた)。<br>
「イ号潜水艦」が駄目なので、次に考えたのは昭和二〇年七月末ごろ、一式陸攻六〇機を三沢と北海道に持っていき、その六〇機に一五人ずつ特殊攻撃隊員を乗せるというもので、この九〇〇名、このうち海軍は山岡部隊の六〇〇名、陸軍が三〇〇名がテニアンの飛行場に胴体着陸をして地上のB二九を破壊するというもの(陸軍の三〇〇名のなかに後の外務大臣・園田直が陸軍大尉として入っていた)。<br>
 (注) 一式陸攻とは、一式陸上攻撃機のことで、乗員七名、最大時速四三七キロ、二〇ミリ機関砲二門、七一七ミリ機銃四挺、二五〇キロ爆弾四個搭載。<br>
 (注) 一式陸攻とは、一式陸上攻撃機のことで、乗員七名、最大時速四三七キロ、二〇ミリ機関砲二門、七・七ミリ機銃四挺、二五〇キロ爆弾四個搭載。<br>
 「山岡部隊」の陸攻によるテニアン島攻撃計画はアメリカの機動部隊に発見されてしまい、三沢と苫小牧に集結した一式陸攻六〇機のうち五四機が集中攻撃され破壊、たった六機が残った。不可能と断定され、「山岡部隊」の攻撃は以後中止になった。山岡司令から種々攻撃の意見具申があったが、採用されなかったようです。<br>
 「山岡部隊」の陸攻によるテニアン島攻撃計画はアメリカの機動部隊に発見されてしまい、三沢と苫小牧に集結した一式陸攻六〇機のうち五四機が集中攻撃され破壊、たった六機が残った。不可能と断定され、「山岡部隊」の攻撃は以後中止になった。山岡司令から種々攻撃の意見具申があったが、採用されなかったようです。<br>
 また、私がアンダマンの司令部で無線通信傍受で知ったのですが、いわゆる「マリアナ沖海戦」です。日本軍が昭和十九年六月、マリアナ諸島の上陸作戦を支援する米機動部隊を攻撃する「ア号作戦」の大航空決戦の計画が実施されたが、出撃した日本軍約一二〇〇機が途中で待ち伏せされ大半をうしなったのです。かろうじて到達した日本側攻撃機は米軍機の投下した「熱センター」爆撃を浴びて全滅したようです。これによって、日本側は搭乗員三五〇〇人を失ってしまったといわれています。開戦二年半、科学技術とそれを最産できる国力の差がはっきりあらわれ、惨敗したのです。学んだものは「プラグマティズム」です。哲学と科学を融合した合理的な思想はアングロサクソン流のグローバルスタンダードの理解に不可欠だと思います。<br>
 また、私がアンダマンの司令部で無線通信傍受で知ったのですが、いわゆる「マリアナ沖海戦」です。日本軍が昭和十九年六月、マリアナ諸島の上陸作戦を支援する米機動部隊を攻撃する「ア号作戦」の大航空決戦の計画が実施されたが、出撃した日本軍約一二〇〇機が途中で待ち伏せされ大半をうしなったのです。かろうじて到達した日本側攻撃機は米軍機の投下した「熱センター」爆撃を浴びて全滅したようです。これによって、日本側は搭乗員三五〇〇人を失ってしまったといわれています。開戦二年半、科学技術とそれを最産できる国力の差がはっきりあらわれ、惨敗したのです。学んだものは「プラグマティズム」です。哲学と科学を融合した合理的な思想はアングロサクソン流のグローバルスタンダードの理解に不可欠だと思います。<br>
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■ 田中師が引きつけられた木村久夫の歌<br>
■ 田中師が引きつけられた木村久夫の歌<br>
―原田とは、呉の軍港から戦艦「大和」に乗り、シンガ  ポールから苦労してアンダマンに赴任した仲です。また、原田も柳本も、彼らの赴任航海は、私がそのころ水警隊にいたので、艇指揮をして送ったものです。<br>
―原田とは、呉の軍港から戦艦「大和」に乗り、シンガ  ポールから苦労してアンダマンに赴任した仲です。また、原田も柳本も、彼らの赴任航海は、私がそのころ水警隊にいたので、艇指揮をして送ったものです。<br>
 最後に、もう一つのBc級戦犯、木村久夫のことについて、お願いします。<br>
 最後に、もう一つのBC級戦犯、木村久夫のことについて、お願いします。<br>
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 木村久夫さんは、岩波文庫の「きけ わだつみのこえ」に載っていたあの方ですね。今年の八月十五日に売り出された田原総一朗監修の「日本の戦争・BC級戦犯、六十年目の遺書」(アスコム)を読んだのですよ。東京の池上本門寺貫主、日蓮宗管長の田中日淳さんが、シンガポール・チャンギー刑務所で処刑される日本軍人の教誨師だったとき、受刑者たちが故郷に残した父や母、そして家族や友人たちに書かれた遺書を持ち出して毎晩ねずに筆写し続け、それを持ち帰った。この九十二歳の高齢な田中さんから貴重な証言を田原総一朗さんは聞かされたのです。<br>
 木村久夫さんは、岩波文庫の「きけ わだつみのこえ」に載っていたあの方ですね。今年の八月十五日に売り出された田原総一朗監修の「日本の戦争・BC級戦犯、六十年目の遺書」(アスコム)を読んだのですよ。東京の池上本門寺貫主、日蓮宗管長の田中日淳さんが、シンガポール・チャンギー刑務所で処刑される日本軍人の教誨師だったとき、受刑者たちが故郷に残した父や母、そして家族や友人たちに書かれた遺書を持ち出して毎晩ねずに筆写し続け、それを持ち帰った。この九十二歳の高齢な田中さんから貴重な証言を田原総一朗さんは聞かされたのです。<br>
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