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その後控訴するが2002年1月31日刑が確定、同時に弁護士資格も剥奪された<ref>実際は刑法第34条「刑の執行を終えて十年を経過したときは刑の言渡しは、効力を失う」通り、理論上は2025年に法曹資格は回復できる。しかし、弁護士活動を行うためには弁護士会登録が必須であり、各弁護士会は登録を拒絶できる権限を持つため、弁護士としての活動は難しいと思われる。過去の例では、法曹資格を回復し10年後に弁護士登録しようとした{{wpl|鬼頭史郎}}も各弁護士会に拒絶されている</ref>。
その後控訴するが2002年1月31日刑が確定、同時に弁護士資格も剥奪された<ref>実際は刑法第34条「刑の執行を終えて十年を経過したときは刑の言渡しは、効力を失う」通り、理論上は2025年に法曹資格は回復できる。しかし、弁護士活動を行うためには弁護士会登録が必須であり、各弁護士会は登録を拒絶できる権限を持つため、弁護士としての活動は難しいと思われる。過去の例では、法曹資格を回復し10年後に弁護士登録しようとした{{wpl|鬼頭史郎}}も各弁護士会に拒絶されている</ref>。


{{wpl|週間大衆}}2003年7月14日号では「オウム真理教元顧問弁護士青山吉伸受刑者の『ムショ暮らし』」として、同じく{{wpl|府中刑務所}}に収監されていた人物の独占記事が掲載されている。
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'''「オウム真理教」(現・アレフ)元顧問弁護士 青山吉伸受刑者の独房はひどく汚れていたよ'''<br> 本誌独占ブチマケ!「受刑仲間」が初めて明かす 元「オウム」エリート弁護士ムショ暮らし!
<div class="mw-collapsible-content">
<poem>
'''懲役12年の実刑判決を受け、現在府中刑務所に服役中の青山受刑者。あらゆる局面で教団の弁明に走った"青山弁護士"と某を隣り合わせたA氏が、衝撃の7か月間を告白したーー。'''
私がいた東京・府中刑務所の第3区25工場に青山が来るという話を聞いたのは、昨年の5月9日でした。
工場の昼食は受刑者が舎房ごとに振り分けるんですが、その際に受刑者同士がちょっと言葉を交わすんです。まあ、連絡みたいなもので、我々は"ハト"と呼んでました。
その日の中速後に休憩していると、"ハト"から「明日青山が来るみたいです」という情報が入ったんです。
それは騒然となりましたよ。あれだけの凶悪な事件を起こした教団の顧問弁護士だった男ですからね。でも、私は本当に彼が来るとは思いませんでした。教団の古参幹部の多くは、一般の受刑者とは接触できない昼夜独居に入れられ、長い拘禁生活を送っていたからです。
翌5月10日、一般新入りの配役時間である午前9時を過ぎても、青山が来なかったので、「やっぱりな」と思っていたんです。
ところが、午前10時半頃、青山は工場に入ってきたんです。作業をしていた私の横を通る姿を見て、ひと目で青山とわかりました。
ただ、人相は、かなり変わっていましたね。頭も五厘刈りで、随分痩せて、弱々しく見えました。手と足が一緒に動いてましたから、ひどく緊張しているようでした。
彼が担当(刑務官)に礼をした際、「2829番、青山吉伸」といったのを、はっきり覚えています。
'''サリンによる滝本太郎弁護士襲撃など、8つの事件で殺人未遂罪などに問われた、元オウム真理教(アレフに改称)顧問弁護士・青山吉信被告(43)に懲役12年の刑が確定したのは、昨年2月。配薬された府中刑務所では、昼夜独居ではなく、一般独居だった。'''
'''2週間の新人工場での教育期間を経て、青山受刑者は一般工場に移された。A氏は、そこで青山受刑者と出会ったのだという。'''
本来、工場内で食事をしたり休憩する場所は担当が決めるんですが、青山は担当も気遣って、最初は外国人受刑者しか座っていないテーブルに座らされたんです。だから、誰も話しかけられない。
ところが、担当が交代する間に、その目を盗んで彼に話しかけた男たちがいました。
反オウム活動をやっていた。右翼関係者でした。連中は露骨に青山の追い出しに動いたんです。執拗に「殺してやる」と凄んだり、「工場から絶対に追い出してやると、面と向かって脅したりしました。
他の受刑者も「ほら、始まったぞ」と見守っている感じでした。青山は「そんなことをいわれても、もう7年も前のことですよ」と笑っていましたが、内心、怯えているようにも見えました。
それでも彼は、脇目も振らずに、淡々と作業をこなしていましたから、心臓の強い男だな、とは思いました。
彼のおかれた境遇を思うと、男気じゃないけど、何か手助けでもしてやりたくなりましてね。それで、私が担当に頼み込んで、配置換えをしてもらったんです。一応の解決を見たのは、彼が工場に来て5日目のことでした。
この一件で、私は青山に積極的に話かけるようになりました。独居房がとなりあわせにだったこともあって、急速に親しくなっていったんです。
彼は当初、7年間の(拘置所での)拘禁生活で、外部の人間とも会話をしてなかったから、言葉に詰まったり、話をしようにも声が出なかったりという状況でした。会話が普通にできるようになるまでには、2か月くらいはかかりました。
</poem>
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2009年に出所しており、その後については
2009年に出所しており、その後については
*父親の遺産で暮らしている
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