恒心文庫:The Talented Mr.Y
本文
夏だった。
「アイス、食べたいナリ」
デブは空調が効いていても暑いらしく、先ほどからソファに寝そべっている。だらしなく緩められた襟元から汗の浮かぶ首筋が見えた。ついでにキスマークのようなものも。ゾッとする。こんなブスでも肩書きは立派だから恋人どころか婚約者までいるのだ。僕はこの事務所に入ってから、忙しくて忙しくて恋人ができないというのに。
「アイス・・・」
「買ってきましょうか?」
デブがもう1度呟いたとき、Y岡が申し出た。こんなのを甘やかす必要なんてないよ、自分で買いに行かせたらいいんだ。そう言いたかった。
「う~ん・・・」
ちらりとY岡を見てから、僕を見る。目が合う。無能と目を合わせていると無能が移りそうで、僕は慌ててパソコンに向き直った。
「Y本くぅん、買ってきてほしいナリ。すぐでいいナリよ!」
******。舌打ちしたくなるのを必死で堪える。Y岡が心配そうにこちらを見る。
「やっぱり僕が」
「分かりました」
Y岡の言葉を遮り、僕は財布だけ握りしめて事務所を出た。
日差しがアスファルトを焼く。道行く人々はゆらゆらと揺れて、生きる屍のようだった。屍の歩く街。誰もが自分というものを隠し、暴かれることに怯え、結局自分で自分を殺す。そんな街にいる僕がいた。
どうして僕はこんなところで働いている。将来のためだ。臥薪嘗胆の日々。ふとKの言葉を思い出して、そんな自分に嫌気がさした。付き合いが長いせいで無能が染み込んでしまってるんだ、きっと。早く家に帰ってシャワーでも浴びたい。
コンビニの前には補習がどうの宿題がどうのと言いながらアイスを貪る学生たちがいた。そうか、世間はもう夏休みなのか。
自動ドアが開き、冷たい空気が触れる。ああ、生きてる。
「Kが結婚するまでの間、何かやらかしてしまわんように監視してほしいんぢゃ」
ある日、突然やってきたKの老いた父親は哀れっぽく僕の足元に座り込み、ズボンに縋った。なんでも相手はどこかの金持ちのお嬢さんらしい。いまどき珍しいくらいネットに疎くて、Kの悪評も知らないんだとか。気に入らない。なんで奴はこんなに恵まれているんだ。権力の傘の下で、きっとこれからものうのうと生きていくんだろう。******。
「もちろん、いいですよ」
Hがパッと顔を上げ、ほっとしたように笑う。僕がこんなことを考えているなんて思いもよらないのだ。自分の愛する息子が自分以外にも愛されていることを疑わない。それってすごく幸せなことだ。
「そのかわり、僕の靴の裏舐めてもらえます?さっきガム踏んじゃったみたいで」
ほんのいたずら心だ。これくらい許されたっていいはずだ。僕には苦痛が待ち受けているに決まってるんだから。
「その、そうか、そんなことでいいなら」
いくらか迷う素振りを見せながらも頷いたHはなんだか滑稽で、かわいそうだった。
「冗談です、先生ともあろう方がそんなことをしてはいけませんよ」
助け起こしながら服についた埃を払ってやる。
「ありがとう、Y本くん・・・」
「気にしないでくださいよ。ね、先生」
「ありがとう・・・ありがとう・・・それではよろしく頼むよ」
そう言って帰ろうとするその背中に、先生、と呼びかける。
「僕、事務所がほしいな」
「事務所あげりゅ・・・あげりゅよ・・・」
Hは引きつった笑みを浮かべながら頷いた。
僕はアイスを選びながら思い出していた。誰よりかわいそうで、誰より幸せな人たち。羨ましい親子だ。あの2人の間には愛しかない。
アイスを買って店を出る。1本だけ取り出して食べる。おいしい。持って帰るころには残りのアイスは溶けてしまうだろう。でもそれで構わない。Y岡には少しかわいそうだけど。
アイスを食べ終わって、のたのたと帰る。暑い。足取りは重い。その他大勢と僕は同じ顔をしているに違いない。
事務所の扉をノックしようとして辞めた。中から嬌声が聞こえたからだ。事務所でAVなんか見やがって。******。
「Kさん、そろそろ彼が帰ってきちゃいますよ、アッ・・・アッ・・・」
普段より高いがそれは紛れもなくY岡の声だった。
「Y岡くんと違って当職はまだイってないナリ。Y岡くんはY本くんに帰ってきてほしいナリ?それでY岡くんのいやらしい姿、見てほしいナリ?」
「そういう訳、では・・・ありませんが・・・アッ・・・いじわる言わないでください・・・アッアッ・・・またイっちゃう・・・」
「当職もそろそろ・・・Y岡くん、ナカで出すナリ!しっかり受け止めるナリよ!孕め、弁護士の子を!」
最悪だ。吐きそう。さっき食べたアイスが喉まで逆流してきた。
「アイスを買いに行ったら外で熱中症になったので早退させてもらいます」とメールだけ打って、トイレへ駆け込む。定期券も何もかも事務所の中だが、そんなことは気にしてられない。いやだ、汚い。耐えられない。
家に帰るとさっそく冷たいシャワーを浴びる。なぜ。どうして。堂々巡りの思考とは別のところで、じゃああのおぞましいキスマークはY岡がつけたものだったんだな、と知った。温い涙が水と混じって頬を伝い、口の中に塩味が広がる。自分はホモフォビアだったっけ。そういう訳ではなかったはずだ。弁護士は偏見を持つべきではない。あの事務所で行為に及んだことを許せないんだ、あの2人だから嫌なんだ。
アイス、もったいないことしたな。どろどろに溶けたそれらを僕は駅のゴミ箱に捨ててきた。
一息ついたところで冷蔵庫からビールを取り出して飲む。髪を拭きながら灰皿を引き寄せて、なんとなくテレビをつける。何本か空にしてから、そう言えば明日もあの事務所で働くんだ、と当たり前のことに気づかされる。もしかしたら今日初めて気づいただけで、彼らは前から事務所であんな行為を繰り返していたのかも知れない。******。
大学で出会って、語り合って、同じ夢を追いかけたのは僕だったのに。耳の中で扉越しの喘ぎが蘇る。好きだった。ずっと。本当に。今更気づいたってどうにもならないのに。ただ傍にいられればいいと思っていた。それを愛と呼ぶことに今まで気づかなかった僕が無能なんだ。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。目が覚めて出勤時間を過ぎていることに気づく。変な体勢で寝たせいで身体のあちこちが痛んだ。何か夢を見たような気がする。思い出せないし、思い出したくないし、思い出してはいけない気がした。
「今日は休みます」
メールをして再び布団に潜り込む。こびりついたY岡の声は布団の中で丸まった身体の上を這い、僕の性器に柔らかく絡みつく。次第に速まる右手のテンポに合わせてY岡の声は細切れになっていく。
僕がKだったら、彼に愛されていたんだろうか。Kから全てを奪えば、僕はKになれるんだろうか。
やがて射精して、僕はKから全てを奪うことをぼんやりと決意した。
******。
テレビには海水浴場の様子が映されていた。小麦色に焼けた少女がインタビューに答えている。Kは口を半開きにして食い入るようにそれを見ていた。KとY岡が性的関係にあることを知ってから1週間が経っていた。
「海・・・海行きたいナリ・・・そうだ、パパに頼んでみるナリ!」
そう言って唐突に電話をかけ始めるKを見て、Y岡はやれやれとでも言いたげに笑っている。
「・・・諸君、旅行ナリよ」
「はあ?」
まだ整理しなければならない書類は山ほどあるのに、何言ってだ。
「ここはどうするんですか?」
Y岡が訊ねる。
「パパがパパの知り合いにお留守番を頼んでくれたみたいですを~!」
きゃっきゃっとはしゃぎながらKが答える。
Y岡と僕は顔を見合わせて肩を竦めた。
昼だった。僕らは海辺の小洒落たレストランに来ていた。
「Y本くん、ナイフの持ち方はそうじゃないナリ」
生まれだけは上流のKは僕のテーブルマナーが気に入らなかったらしい。
「はあ、ありがとうございます」
言われた通りにすると、Kは「分かればいいんだ」とか何とか言ってまたムシャムシャと食べ始めた。
レストランを出ていよいよ浜辺につくと、Kは露骨にキョロキョロした。
「Kさん、荷物置いてきましたよ」
Y岡は手早くパラソルを設置してきて、Kの横に立った。見慣れたスーツ姿ではなく、大学生のころを思い出させるようなラフなスタイルだった。
「大学生のころを思い出しますね」
Y岡もちょうどそう思っていたらしく、僕に向かってにっこりと笑った。そうだ、僕らには不可侵の神聖な思い出がある。優越感に浸りながらKの方を見ると、Kは暗い目でじっとりと舐め回すように僕を見ていた。
「・・・そうだ、Y本くんに話があるナリ。Y岡くん、ちょっと荷物見ててくれるナリ?」
「ええ、いいですけど・・・」
ずいぶん歩いた。浜辺の喧騒は遠く、涼しい風に乗ってざわめきが運ばれる程度だった。岩陰は日差しを遮り、べたついた肌に心地よい。
「アンノォ・・・言いにくいことなんだけどね、当職とY岡くんはお付き合いしているナリ。だからY岡くんに色目を使わないでほしいナリ!」
「色目なんて、そんな・・・僕は・・・」
使ってないと言い切れるだろうか。残念なことだが言い切る自信がなかった。
「当職たちのサンクチュアリに君にいられても迷惑なんですを・・・」
そう言ってKがどこからか取り出したナイフの反射光が僕の目に刺さった。ああ、暑い。夏だった。太陽も空も海もナイフもきらきらと輝いて僕を焼く。昼だった。
咄嗟の行動だった。僕はKを刺していた。滅多刺しにした。抵抗を感じたのは最初の2回くらいだった。Kはピクリとも動かなくなった。
僕はKを引きずって崖の上まで運ぶと突き落とした。何の役にも立たない人間だったが、海の生き物の餌くらいにはなるだろう。
*****した。
「Kさん、今度結婚するらしいね」
Y岡のところへ帰ってきてそう言った。僕はなに食わぬ顔をできているだろうか。
「冗談でしょう?僕たちは、結婚の約束を・・・」
「それでね、自分からY岡さんに伝えることはできないからって話だったよ。別れを惜しむと2人でどこまでも逃げていきたくなるから、もう会えないって」
我ながらあっぱれな役者だと思う。
「Kさんはどこに行ったんですか、Y本くんは知ってるんでしょう?」
立ち上がって肩に掴みかかってくるY岡を哀れだとは思うが、なんだかすごく満ち足りていた。
「ね、もう忘れるんだ。KさんはHさんが決めたお嫁さんと幸せに暮らすんだ、君は捨てられたんだよ」
「そんな・・・」
「さあ、帰ろう。僕らの事務所に」
今にも崩れ落ちそうなY岡を支えながら、僕はこれからの幸福な生活を思った。
了
この作品について
山本祥平の参画が明らかとなり、山岡裕明と同じ大学を卒業しているという事実追及が明らかになっていく過程で生まれた作品。 題名の通り太陽がいっぱい (映画)から影響を受けており、冷気と共にこの後の暴力に強い弁護士、夜はコアントローなどの山本祥平の一人称で語られる山岡裕明への愛をテーマにした耽美的な作品の先駆と言える。