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恒心文庫:贖罪

提供:唐澤貴洋Wiki
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本文

「はぁっ・・はぁっ・・・」
やってしまった。もう後戻りは出来ない。
ずっと弟に嫉妬していた。成績は僕よりもずっと良く、交友関係も広い。親に褒められた回数もずっと多い。そんな弟が疎ましかった。
二人で遊びに出かけた帰り道での些細な言い争いが発端だった。内容がどんどんエスカレートして、最後には殴り合いになった。左頬に入った強烈なパンチが僕の頭の中にあった何かを切った。
僕は泣きながら弟を殴打した。どこを殴ったかも分からない。拳に血が垂れた感覚を覚えた同時に大きな水音がして、僕はようやく目を開けた。
弟がいた。前歯が数本折れ、目が開けられなくなるほどに顔が腫れて歪み、用水路のコンクリートによって手足に擦過傷をにじませた弟が、力なく横たわって浮いていた。
ほとんど開けられない目で弟が僕のことを見つめる。真っ直ぐで優しげな、子供の頃から変わらない目。
それを見た僕は思わず逃げ出した。振り返りたくなかった。
家まで息もつかず、涙でぼやける夜入りの道を駆け抜ける。弟を助けたい思いと犯罪者にはなりたくない思いが頭の中で錯綜する。
親にどうやって説明しようか、考えがまとまらないまま家についた。
全てを打ち明ける覚悟をして家の戸を開けた時。悪魔が僕に囁いた。
「お父さんお母さん、チーマーに絡まれて、
弟が僕をかばって集団リンチを受けて――

そこからはあまり覚えていない。父親が用水路に到着した時、弟はすでに息が無かった。
もしかしたらお父さんは本当のことを知っていたのかもしれないが、僕を問い詰めることはしなかった。当時は子供を犯罪者にしたくない親心なのかと考えていたが、今はそうでないことを知っている。
元河野家としての体裁、もしくは当時父親が取り掛かっていた大きな仕事。あのときの父親にいろいろと事情があったことを、今の僕は知っている。
警察にもチーマーから受けた暴力ということでことを片付けてもらった。当時社会問題化していたこともあり、事件は嘘のようにまとまってしまった。

あれから十数年、僕は司法試験に合格して弁護士を営んでいる。収入がほとんどないので父親の事務所を間借りしているのだが、自分の事務所を持って仕事をしていた。
担当した高校生の炎上案件に取り組む中で自分にも炎上の火の粉が飛んでしまった。掲示板にいるような底辺共に煽られて心底ムカついてつい反応してしまったらそれすら面白がりの材料にされてしまい更に炎上は加速した。
今日も今日とて僕に対する酷いデマが書き込まれている。頭を抱えながらスクロールする。
目に止まった文章に、僕は心臓を握られた感覚を覚えた。

"唐澤が弟を殺して用水路に沈めたってマジ?"

あの時のことがフラッシュバックする。どうして?なぜ?あそこには誰もいなかったはず。
監視カメラも無かったはず。警察もまともに捜査していない。どうやって?
手がわなわなと震える。汗が噴き出す。心拍が上がって呼吸も浅くなる。こんなことをしている場合じゃない。早くこれをデマだと言って事を収拾しなくては。
急いでFacebookを開いて文章を打ち込む。ガタガタ震える指でタイピングして、推敲もせずにそのまま投稿する。
明らかにおかしな文章だった。焦って書いたことがすぐに分かってしまうような、文章の全体を見通す余裕すらないまま投稿したことが素人にも分かってしまう代物だった。

案の定この文章はネタにされた。文系資格でも難易度が高い司法試験に合格した人間が支離滅裂な文章を書いたという事実が掲示板の住民にとっては滑稽だったのだろう。
しかし僕は更に焦った。この文章が焦りながら書いたものであると悟られてしまったら、今度こそ終わりだ。あの時のことが全てバレてしまう。嫌だ。臥薪嘗胆を経てようやく手に入れた地位への固執は、想像以上に大きかった。

今に至るまで、僕はわざと不自然な投稿をしている。推敲の過程でわざと入力ミスを装ったり誤字脱字を入れて、おかしな文章を作り上げている。
全てはあの文章を目立たなくさせるため。わざと無能を演じて、あの文章も"推敲が出来ない無能弁護士が"投稿したことにするため。
明日も、明後日も、僕は無能を演じ続ける。
全てはあの日を無かったことにするため。僕は無能であり続けなくてはならない。

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