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恒心文庫:立夏

提供:唐澤貴洋Wiki
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本文

ぷぅんという音が鳴ったので耳元をはたくと、山岡くんの尻に手が当たった。呻くような山岡くんの声と共に、芳しい香りが鼻孔をくすぐる。それは微睡んでいた当職の頭を覚醒させ、薄暗い森タワーの一室へと招待した。
聞こえるのは二つの寝息と遠い車の音。先程まで行為に及んでいた部屋は嘘のように静まり返っている。しかし火照りは未だ冷めていないのか、体にはほんの少し温もりが残っていた。それは再び夢へといざなうには十分であったが、どういうわけか瞼を閉じても乗ることが出来ず、かえって外界を鮮明にするだけであった。――これはいけない、明日は早いのだ。明日は大事な仕事がある、と思えば思うほどますます夢から遠ざかり、終には布団から起き上がってしまった。
ひんやりとした空気が身に染みる。桜は散り、次第に暖かくなってきたといえども夜はまだ冷え込み、褌一丁の当職には少し堪えた。電気を点け部屋を整えようとしたが、二人を起こしてしまいそうだったので布団を羽織り、そのまま明かりが差し込む窓際へと赴いた。
「床暖房を消したのは失敗だったナリ。」
囁くような声でひとりごちる。行為の最中に暑くて邪魔だろうと思い当職自らが消したのだが、今こうして床を歩いていると、夜に冷えた床が足を通してひしひしと伝わってくる。普段から温室で過ごしていたためであろうか、それが一層冷たく感じた。
さて、とりあえず窓際まで歩いてみたが、この後に何をするかは全く考えていなかった。自分でも何故窓際まで赴いたのかは分からない。しかし、恐らく、暗闇に差し込む、どこか懐かしいような夜明かりに惹かれたのであろう。暗闇に降り注ぐ光は昔を、生きていた頃の弟の姿を思い出させる。あの時は二人で真夜中に家を抜け出し、街灯も何もない真っ暗の河川敷で星を眺めていた。川がもう一つあると喜ぶ弟を尻目に、当職は何も見えない空を眺めて生返事を返していた記憶がある。
だが、今はあの時とは違い、当職にも光がはっきりと見える。当職がいるはるか下から差し込む、地上に蠢く星々の光が。
「美しいナリ……」
昂る感情を抑えきれず、思わず口に出てしまう。眼下に望む無数のネオン、夜空を貫く紅の塔。いつしか呼吸は荒くなり、ようやく火照りが鎮まった体も再び上気し始めていた。――これを厚史が見たらどう思うだろう!きっとあの時よりも喜ぶに違いない!――気持ちは逸る。光を浴びて深くなる影を知らずに。

ぷぅん。

夢中にいる当職を覚ますように、耳元で間の抜けた音が鳴った。なんだ、また山岡くんがおならをしたのか。場違いな山岡くんのおならに、自然と笑みがこぼれてしまう。そこに先程のような影はなかった。昂る感情は次第に落ち着きを取り戻し、上気していた体も沈静し始めている。当職は再び森タワーの一室へと戻ってきたのだ。
しかし、何か違和感を感じる。音が鳴ってから暫く経ったというのに、あの芳しい香りが一向にしない。そして何よりもまず、音の鳴る位置がおかしい。当職が今佇んでいる場所は山岡くんから離れた、煌めく街を一望できる窓際。つまり、おならを耳で聞くことは出来ても、耳元でその音が鳴るはずがないのだ。そうするとあの間の抜けた音はおならではなく、何か別のものによる音だということになる。だが、この部屋で音の鳴るものは限られており、しかもそれら全てが窓際ではなく中の方にあるのだ。
突如耳元で鳴った間の抜けた、謎めいた音。一体それが何であったのかは、当職の体が教えてくれた。
脇腹の辺りがこそばゆい。思索に耽っていたときは気付かなかったが、脇腹に小さな腫れが出来ている。周囲は仄かに赤く染まっており、所謂虫刺されというものだった。
痒みを伴う腫れ、それが指し示すものはただ一つ。
「蚊、ナリか。」
そう、突如耳元で鳴った音の正体は蚊の羽音だったのだ。ようやく判明した音の正体に溜飲が下がる。恐らく上気した当職に反応したのであろう。蚊は人の汗や体温に反応すると聞く。つまり褌一丁で発汗、発熱していた当職は格好の餌食だったというわけだ。
脇腹をポリポリ掻きながら街を見下ろす。当職が引きこもってから、もうどれくらい経ったのだろうか。最後に出たのは引っ越しの時、およそ四ヶ月ほど前のことだ。それ以前も部屋から出たことは毫もなく、仕事で裁判所に行かねばならないときも適当に理由をつけて不出を通した。外気に触れることも窓を開けたときくらいで、外に出て感じるということはない。そのため引っ越しで外に出た際は、全身で感じる新鮮な空気に驚いたものだ。丁度時季が冬ということもあり些か肌寒かったが、逆にその寒さが季節というものを感じさせてくれた。
あれから時は流れ、いつの間にか夏を迎えていたのだな。脇腹にある腫れがそれを示している。部屋に紛れ込んだ一匹の蚊は、当職に夏をもたらしてくれたのだ。
ぷぅんとまた一つ音が鳴る。さあ、今度はどちらだろうか――

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