恒心文庫:悪魔と弟
本文
鍵の閉め忘れか、はたまた強引に侵入されたのか。
下校中の小学生の下見をしに留守にしていた間に、家に悪いものが入り込んでいたようだった。つい3日前に恒心教徒どもに住所が晒されたので、今日引越しの手続きを終わらせたばかりであった。
家に帰ると廊下に散乱したロリビデオと男の娘モノAVが目に入った。これはいけない。そう思った瞬間、背後からバットのようなもので殴られ、しばらく気を失っていた。
……どれくらい時間が経ったんだろうか。後頭部がじんじん痛む。よろよろと顔を上げると、当職をこんな目に合わせた張本人であろう男が、気持ちの悪い笑みを浮かべながら目の前に座っていた。大きな声を出そうとするも、ガムテープのようなもので口を塞がれている。
「あ、起きまたしたか?」
なんなんだこの小汚いチー牛は?おかしな人がいる。そいつは当職の顔を見て、わざとらしく口角を歪めた。
「……きっと厚史くんがリンチされた時もそんな感じだったんでしょうね」
「!」
厚史?よくも軽々しく弟の名前を。湧き上がる怒りで身が震える。このような言動は到底許されるべき行為ではない。
掴みかかろうとするも体を縛られており、芋虫のように体をくねらせただけになった。もがく当職を男がせせら笑いながら見つめている。
「そういえば、弟殺しだと言われた時はどんな気分でした?案外事実だったりして」
当職は当職の弟を殺してなんかいない。当職のせいじゃない。当職のアイデンティティを否定するな。悪いものたちが、悪魔がやったんだ。
「……無駄話はこのくらいにしておくか」
腕を掴まれる。抵抗も虚しく、男の怪力によりズルズルとバスルームへ運ばれていく。
カビ臭いタイルが頬を打ち、口のガムテープを乱暴に剥がされた。
浴槽の前に突き出されると、暗い水面に当職が映っているのが見えた。
何をする気だ?いやだ、当職はまだ――
「唐澤貴洋殺す」
男が当職の頭頂部を力いっぱいに掴み、冷たい水でいっぱいの浴槽へ沈めた。苦しい。今まで溜め込んできた贅肉が仇となりますます呼吸を困難にする。だが当職の手足はきつく縛られているので抵抗する手段は無い。
大きくうねる胸が深い藍に満たされていく。水の中はこんなにも薄暗くて、寒い。ぼやけた視界の中に、当職の弟を見た。
8月の用水路。ほとんど日も暮れかかっていた。
縁に立ちやけに長い蝉の鳴き声を聞いていた。弟が振り返り何か言っている。
沈む弟を見て当職は何をしたか。弟は何を感じたか。空は何色か。思い出す。ちょうどこのような、深い深い留紺色であったか。
不気味に静まり返った帰路をよく覚えている。ひどく憔悴した様子で迎える母さんには目もくれず、逃げるように自室へ飛び込んだ。
翌日亡骸になって帰ってきた弟の顔を、当職は見ることができなかった。
全ての基点。当職は弟が憎くて憎くてたまらなかった。不良のくせに友達に恵まれて、親戚にいつもチヤホヤされていた。当職が享受するはずだった両親の愛を、あいつは独り占めした。
あの日当職は、悪魔に魂を売ってしまったのだ。悪魔というものは必ず対価を求める。それは、
もう肺に酸素は残っていない。
弟がこちらを見ている。
静かに見ている。
「厚史」
喉に水が入る。声にならない。
泡の音だけを残して、世界が黒くなった。
――――――――――――
「今日午前九時頃、港区○○にあるアパートで住人の唐澤貴洋さんが遺体で発見されました。不審に思った住民が―――」
聞こえてきた言葉に私は耳を疑った。そんなまさか?しかしテレビを見ると、確かにそこに同僚の名前があった。住所も同じだ。鮮やかな水色が画面に映し出される。
今日彼は事務所に来ていない。どうせ岡本とかいう記者と左道タントライニシエーションでもしているんだろうと思っていたが。
急速に埋まるパズルピースに血の気が引いていくのを感じる。
あぁ、ついにやりやがったか。きっとあいつらだ。
逃げなければ。
手をつけていた仕事を放り投げ、私は事務所を後にした。
タイトルについて
この作品は公開された際タイトルがありませんでした。このタイトルは便宜上付けたものです。
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- 初出 - デリュケー 悪魔と弟(魚拓)