恒心文庫:唐澤貴洋「洋一殺すナリよ~」

2021年5月30日 (日) 16:19時点における>チー二ョによる版 (ページの作成:「__NOTOC__ == 本文 == <poem> 洋一は例によって自室に籠り机に向かって難しい顔をしている。 今日も日本トップクラスの難関大学の…」)
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本文

洋一は例によって自室に籠り机に向かって難しい顔をしている。
今日も日本トップクラスの難関大学の奇問悪門に四苦八苦している、といった所であろう。
都内でも有数の進学校に通っているとはいえ、中学生が解く問題ではない。
しかし、ものの数分も経てば、彼は設問の本質を捉え、そして閃き、ペンを走らせ、正答へとたどり着くだろう。
私には手を付ける事さえ億劫になってしまうような難問も、彼にとっては赤子の手を捻るよりも容易いものなのだ。

本当に憎い。カッターナイフを握りしめた右手に力が入る。
小さく開けたドアの隙間から覗き見える、挫折を知らない背中が何よりも憎い。
私は大きく息を呼吸を置いて、もう一度洋一の後ろ姿を眺めた。
瞼を下ろし、その背中に握ったカッターの突き立つ姿を想像する。
迸る鮮血、驚き震える洋一の怯えた眼。そして私はそれを落ち着いた気持ちで眺めている。

それは手にとる事が出来そうな程にリアルだった。
大丈夫だ、私は今日、初めて洋一に勝利する。

洋一は何でも出来た。
それは大袈裟な表現や行きすぎた誇張ではなく、彼は本当に何でも出来る人間だったのだ。
頭の回転が速く、勉強はもちろん得意で、ユーモアがあり話も面白い。
私は彼よりも一つ年上だが、腕っぷしも強く、兄弟喧嘩で勝った事は一度もない。
運動神経は抜群で、地元のサッカーチームでは一年生にして早くも試合に出場することがあるらしいし、
彼に告白してきた彼女は芸能事務所に所属していて、時折テレビのCMや雑誌に顔を出す。

私にない全てを彼は持っていて、そして私は悲惨な程になにも持っていなかった。

洋一は完璧な自分に自惚れる様子はない。
どんなにテストの成績が良くても、野球でどんなに活躍しても、自慢はしないし、
私がどんなに至らないかを知りながら、嫌味を言う事も無い。

私と話すときは私の低さまで目線を下げて話を合わせる。

私は悔しかった。彼は良い奴には違いないのだろう。
ただ私には、その折られた膝が、下げられた目線が、屈辱以外の何物でもなかったのだ。

「お前の弟って凄いんだろ?なんでお前はそんなんなんだよ」クラスメイトの声。
「洋一は本当に凄いなあ!…貴洋も、まあ、もう少し頑張れよ」父の声。
「お前はダメな奴だ。生まれてくるべきじゃなかった。もうどうしようもないよ」僕自身の声。

私は学校に通うのをやめた。声を出すこともやめた。誰も私に寄り付かなくなった。
決めたのは朝だった。

コンコンというノック音は母親が朝飯を持ってきたときの合図だ。
大して腹が減っているわけでもなく、いつもは空腹を感じるまでドアの外に放置しておくのだが、私はドアへと向かっていた。

それは気配を感じたからであり、その気配は私が最も嫌いな人間が発するものであり、ドアを開けると案の定、
嫌な奴が、洋一が立っていた。

「兄さん、もう三ヶ月になるよ…。行こうよ学校。こんな兄さん、見たくないよ。なんなら僕も一緒に…」

言い終わらないうちに私は感情に任せて拳を振り抜いた。洋一がよろめく。

「待って、兄さん。これを」

洋一は何かを差し出したのが見えたが、私は構わずドアを叩きつけるように閉めた。


分かっていない。あいつはなんでも出来て、なんでも持っていて、なんでも知っているようで、本当に何一つ分かっていない。

こんなのは、今日で終わりだ。今日で終わらせる。今日、殺す。

ゆっくりとドアを引いて洋一の部屋へと入ると、洋一は驚いた顔一つ見せずこちらを振り返った。

「よ、洋一、今朝は悪かったナリね、当職も少し感情的になってたナリ。」

「いやいや、僕も悪かったよ。僕が余計なことしたから」本当に申し訳なさそうに洋一は話す。

「勉強頑張ってるナリね。これは差し入れナリ」怪しまれないように淹れてきたドリップコーヒーを洋一に差し出す。

「…。兄さんは優しいね。ありがとう。」洋一はそれを受け取ると、本場のコーヒーでも飲んでいるかのようにおいしそうに啜る。

「それじゃあ当職はこれで帰るナリ。勉強頑張るナリよ」ありがとう、という声がして、洋一が机に戻る。

ドアまであと少しという所でゆっくりと振り返った。
洋一は先ほどまでと同じように机に向かっている。
あとはその背中に、憎い背中に、カッターナイフを突き立てるだけだ。

駆け出す体勢と呼吸を整え、両手にゆっくりと力を入れる。
そしてイメージする。私が勝つ場面を、そして上からの景色を。

正に駆け出す瞬間に、洋一がもう一度振り返った。

「やっぱり、兄さんは優しいよ。」

私はカッターの刃を彼に向け、それを彼の背中に突き刺そうと駆け出す体勢のまま固まっていた。

心臓は飛び出さんばかりに大きく音を立てていて、動かし方を忘れた体はピクリともしない。嫌な汗が額を伝った。

部屋にあるすべてが止まって見えた。
時計も、ラジオも、鏡も、机も。

けれども時間は確かに、ゆっくりとその間を流れていて、
それを貫くように洋一の視線が私をじっと捉えていた。

何か言わなければ、何か動かさなければ、何か───。

脳の必死の警告には全身が耳をふさいだ格好で、、
私は目を見開いて洋一から目を逸らさずにいることで必死だった。溜まった唾を飲み込むことさえ出来ない。

「僕は兄さんが離れていくのが怖くてたまらなかった。」

洋一はひどく落ち着いて話す。
刃物を手にして殺気立った私を目の前にしても、彼は呼吸ひとつ崩さず、私の淹れたコーヒーを啜っている。

「何よりも怖かった。どんどん温度を無くしていく兄さんの態度が、蔑むように僕を見るその瞳が。」

洋一は悲しい目をしていた。
それは私が今まで目にしたものの中で最も冷たく、いくら手を伸ばせど届かない遠さにあった。

「そろそろだろうなって、思ってたんだ。だから分かったんだよ。」

「当職が、洋一を守るナリ!」


まだ何も知らなかった頃の夏。
まだこの世界が優しかった頃の夏。

父の田舎は空気が澄んでいて、それを透かして照りつける太陽は肌にジリジリと心地良い。
土や緑の匂いが虫の声と共に風に乗って私に伝わってくる。
私は父の田舎の夏の匂いがこの世の何よりも好きだった。

けれどもそこに行くと洋一は居心地が悪そうで、いつも怯えや不安が綯交ぜになったような目をしていたのを覚えている。

「兄さんはさ、本当に僕を殺せるって、思っていたの?」

私は洋一を睨みつけた。
思っていたさ。お前の背中にカッターナイフの突き立つ、その姿を何度もイメージしていた。
体はまだ固まったままだ。

「そんなカッターで後ろから僕を刺そうとしても、僕が気付いて少しでも急所からずれたら計画は台無しだよ」

洋一は私を見ている。

「兄さんは決して力の強い方じゃないし、僕が抵抗でもしたどうするつもりだったの?」

そんな事は知らない。私はただ、終わりにしたかったのだ。
このふざけきった日常に、何か変化を与えたかったのだ。

だから───
だから洋一を殺すのか?それで何が変わる?
私への陽を遮るようにそびえ立つその背中を崩し落とせば、私のところに洋一に当たっていた陽がそのまま私を照らすのか?

私は感情に振り回されて、ただそれを撒き散らしたかっただけだ。
私はやはり至らない。何をしても駄目だ。
私は、私は本当に

「馬鹿じゃないよ。優しいんだ」

そう言って洋一は机の方に振り返った。

「コーヒー、僕は好きだよ。丁度欲しかったんだ。ありがとう。おいしいよ、兄さん」

洋一はコーヒーをもう一度啜って見せた。

父の田舎で過ごす夏の数日は私の心に安息と癒しを与えてくれた。

祖父や祖母の昔話に耳を傾けたり、新鮮な野菜で彩られた料理に舌鼓を打ったりするのが私のその夏の楽しみだったのだけれど、
一番楽しみはなんといっても親戚の子供たちで行う裏山の探索だった。

新鮮な空気を肺一杯に貯め込んで、私達はそびえ立つ木々の間をずんずん進む。
「貴洋兄ちゃん!これ、どっち進んだ方がいいかな?」
「貴洋兄ちゃん、歩き過ぎて疲れた…。おんぶしてよ!」

私は探検隊の隊長で、みんなの頼れるリーダーだった。

洋一の姿はそこには無かった。
いつも扇風機の前で何かに隠れるように風に当たっていた。
私は本当にもったいない事だと思った。
一度外に出てみれば、風も緑も土も虫も、みんな味方になってくれるのに。

「洋一、行くナリよ!」

洋一は困った顔をしている。
だけどもう決めたのだ。今日はなんとしても連れて行く。

「大丈夫ナリ!当職が付いているナリよ!」

「僕は父さんと血が繋がってないんだよ。」

洋一は何を言っているというのだろう。全く笑えない。
ただ洋一は気の利かない冗談を言っている様子ではなかった。

「分かるんだよ。なんとなくだけどね。父さんは僕にどこかよそよそしい。」

そんなはずはない。
そう言ってやりたい。安心させてやりたい。

「だからあの場所は怖かったんだ。最初はね。」

だけど声はまだ、出ない。

「そしてそれは似ているんだ。『他人』が出す雰囲気って、分かるんだよ。嫌という程にね。」

そう言って洋一は机の上に並べられた手紙のようなものを私に見せた。

「僕は勉強のために毎日机に向かっていたんじゃない。これを読んでいたんだ。」

私は二の句を継げないまま、その紙をただ見つめていた。

外の世界に出かけても、洋一はまるで楽しそうじゃなかった。
何もかもが私たちにはこんなにも優しいのに、洋一の心はどこか別のところにあるみたいだった。

「洋一…。何がそんなに気に入らないナリか?土を踏みしめればとても柔らかくて、空気を吸えばそれはとても澄んでいておいしいナリ。」

「…。僕には怖いんだ…。何もかもが。この場所は、僕を受け入れようとしてくれない。怖いんだ。それが…。」

洋一はそういってしゃがみ込んでしまった。
震える背中が痛々しく私の記憶にこびりつく。

「死ね」「殺すぞ」「犯罪者」…。
そこには目を覆いたくなるような罵詈雑言が紙一杯にずらりと並んでいた。

「僕には友達が居ないんだ。一緒にご飯を食べたり、トイレに行ったり、そういう人たちは沢山居るんだけどね。」

理解できない。
トモダチガイナイ?
脳の中で音だけが反射して響いている

「これが毎日のように僕の鞄や机の中、ロッカーや靴箱なんかに投げ込まれてるんだ。筆跡は一定じゃない。」

それは想像もしなかった洋一の一面だった。

「何人もの人間がこれをやってるってことさ。」

私はパニックになっていた。

「僕はいつも必死だった。全て繋ぎとめておくのに。自分で言うのもなんだけど、辛い努力をいくらでもしんだ。僕は天才なんかじゃない」

呼吸さえもおぼつかない。胸がきつく締め付けられるのを感じる。

「でもそれは逆効果だったみたいだ。或いはそれは全く関係ないところで問題があったのかもしれないけど…。
 とにかく、僕の側にはもう、誰もいないんだ。」

洋一はそんな素振りをひとつも見せた事がなかった。
全てを持っている彼に、私は激しく嫉妬を覚えるばかりだった。
それは彼の拙い演技だったのだ。
私は、それすらも見抜けなかった。

「兄さんだけが味方だった。だけど、その兄さんさえ僕は怒らせてしまった。僕にはもう価値なんてない。」


洋一が手に不気味に光るナイフを持っているのが見えた。

「兄さんの手は汚さない。僕の終わりを兄さんは願った。一瞬でもね。僕はそこで終わりなんだ。最後は自分で責任を持つよ。」

私は、溜まりに溜まった唾をやっとの事で飲み込んだ。「洋一!怯えるのはもう終わりナリ!」
私はしゃがみ込んだ洋一の手を無理矢理に引っ張って立たせた。
その瞳を見つける。

「でも…」
弱気な洋一を私は遮る。
全てが敵に見えるなら、それから守るものがあればいい。

「洋一の側に居る当職が居るナリ。当職がずっと側に居るナリ。
 喉が乾いたら当職に言うナリ。お前が好きな飲み物をすぐに持ってきてやるナリ。
 腹が減ったら当職に言うナリ。お前が好きな食べ物をすぐに持ってきてやるナリ。
 お前を苛める奴がいたら、当職がこらしめてやるナリ。」

私は自信満々に言った。兄とはそういうものなのだ。

「本当…?」

洋一の目から怯えが消えていくのが分かった。本当さ、お前は私が守る。

「世界中が洋一の敵になっても、当職が洋一の味方になるナリ!」

「ありがとう、分かったよ。兄さんは…本当にやさしい。」

「当職が、洋一を守るナリ!」

私の手を握る洋一の手にぎゅっと力が入るのが分かった。

動かし方は忘れたままだったけど、私は無理矢理に筋肉を動かした。
壊れても良い。間に合わなければ、終わる。

「洋一!やめるナリ!当職が…お前の味方ナリよ!」

洋一の首の辺りから勢いよく血が噴き出すのが見えた。
空しい音がして洋一が力なく床に転がる。

「ありがとう」
洋一がそう言った気がした。気がしただけかもしれない。
私がそういう終わり方を望んだだけだ。

どれくらい経っただろうか。
部屋にあるすべてはまた同じように動き出していた。
時計も、ラジオも、鏡も、机も。

ただひとつ、すっかり冷たくなってしまった洋一だけを取り残して。


私は何もできない人間だけど、
ただ一つの、忘れてはいけない、やらなければならない使命を持っていたのに。

分かっていないのは私の方だったのだ。
洋一は何でも出来るようで、なんでも知っているようで、なんでも持っているようで、本当に何も持っていなかったのに。

「あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!(ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ!!!!!!! )」

私はやっと発することが出来るようになった声を振り絞って叫んだ。
窓に見える外に向かって吠えた。そのまま泣いた。体にある全てを外に吐き出すつもりで。

そしてその夜、私は決めた。もうこんな悲劇は繰り返さない。
待っているだけでは幸せは訪れない。
私が創り出すのだ。

誹謗中傷なんてない、本当に優しい世界を。

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