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恒心文庫:はやりうた

提供:唐澤貴洋Wiki
2019年11月29日 (金) 21:43時点における>Ostrichによる版 (正規表現を使用した大量編集 カテゴリ:恒心文庫を導入)
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本文


タクシーのステレオから、俺の一番好きな曲が流れている。その曲は十年前の九月に発売された。
 朝からタワーレコードに並んで手にした五分四十六秒の曲は、オリコンチャート初登場一位に輝き、二十五万枚売れて、ドラマの主題歌になって、CDはもう直径十二センチになっていて、俺はケータイを持っていて、喫茶店のバイトは辞めていて、三十六歳の男をおっさんだと思って、人と人はいつか別れるかもしれないことを知らなかった。
 三十六になった今、好きな曲のためにレコードショップに並ぶようなことはしない。下宿の電話を占領するのが申し訳ないから、とテレカを買ったりしない。なにもかもが変わった。
 だけど大学生の頃使っていたテレカは今も、財布の奥の方にしまってある。あと五分くらいは電話できそうだ。このテレカは、あいつの声を聞くためだけに買った。
 タクシーを降りた俺は電話ボックスに入った。彼に「ごめん」と「さよなら」を言って、テレカを使い切るためだ。受話器を手にとり、深呼吸しながら、あいつのことを考えた。
 人生で一番好きな本だとか、人生で一番好きな曲をひとつ教えてもらえたほうが、長々と自己紹介されるより人を深く知ることができると思う。だけどあいつは、そういうことを一切語りたがらず、好きな食べ物を聞くと嫌いな食べ物を教えてくるようなやつだった。
せめて俺のことを知ってほしくて、買ったばかりのCDを貸した。そういえば返してもらっていない。返してもらうには、放置しているメッセージアプリと向き合う必要がある。せっかく送ってくれた「ごめん」に既読をつけたままだ。明日こそ謝ろう、明日こそ謝ろう、と思っているうちに一ヶ月が過ぎていた。
 それにあの曲はストリーミング再生が始まっているから、CDを持っていなくたっていつでも聴ける。
 CDラックの隙間も、下らない喧嘩もそのままになった。明日も仕事がある。俺は十年前の感傷より、一ヶ月前から連絡を取り合っていない恋人より、八時間後の朝を優先するおっさんになっていた。
 喧嘩の原因は、俺以外の誰かと新しく事務所を設立する、と聞かされたことだった。思わず俺は「なんで?」と言っていた。
「なんで、って言われてもな」
「ふたりで事務所やるの?」
「そうだけど」
「なんで?」
 仕事は仕事だから関係ない、というのが彼の言い分で、なんでそれが俺じゃないの? というのが俺の言い分だった。仕事だったらなんなんだよ、他の男とふたりっきりなんて許せない、俺は嫉妬で怒り狂い、あいつは「きみのそういうところが本当に無理」と俺への不満を糾弾した。歳ばっかり食って、俺たちは大学生の頃とまったく同じだ。
 小さな不満は雪だるま式に大きくなり、俺は事務所をやめ、彼は予定通り事務所を設立した。事務所が別れ別れになっても、笑っても泣いても、平等に朝は来た。
 先月入所したばかりの事務所は駅のそばだ。人見知りのきらいがある俺にしては割とすぐ慣れた。ついこのあいだまで所属していた事務所のことで、なにか言われるようなこともない。とはいえ、同じ事務所で働く人間とすごく仲が良くなったわけでもなかった。 当たり前だ。友達を作りに仕事へ行くわけではないのだから。
 俺はただ仕事をこなしてさえいればいい。ただ仕事をして、最低限の会話をして、お疲れ様です、お先に失礼します、それで終わりだ。歓迎会のようなものは一応開いてもらった。どうやら飲酒にも口実が必要なようだ。これから先、誰かとものすごく仲が良くなることは二度とないと思う。

午後八時、雨が降り始めた。疲れているけど素直に帰りたくない俺は、音楽を聴きながら意味なく六本木をぶらついて後悔した。あいつがいる。臆病者の俺はタクシーを拾ってその場から離れた。タクシーの窓を伝い落ちる雨粒は、あたりの光を吸い込んで流れ星になった。窓にうつる自分の卑小さがたまらなく嫌いだ。ステレオから俺の一番好きな曲が流れ出した。そういや、あのドラマが映画になったんだっけ、と考えながら耳を傾けた。
 切々としたボーカルも、アウトロのピアノも、何万回聴いたって胸に迫る。溢れそうなまぶたを擦った。メッセージアプリを起動して、彼の送ってくれた文字をなぞり、返信を入力しては消し、入力しては消しを繰り返す俺は世界一ダサい。俺はダサいけど、せめて文字に頼るのはやめにする。タクシーを降りた後も、あの曲が耳の奥で流れ続けた。
「もしもし」
 五コールのあと、彼は出た。出てくれるとは思わなかった、だって公衆電話だし、きょうび拒否している奴の方が多い。
「あ」
「どちらさま?」
「えっと……俺」
 ああ、きみか、と彼は呆れたような声を出した。
「なにか用? なんで公衆電話なの」
「なんでもない。あの、ごめん」
「……別に気にしてない。で、なに?」
 彼は用事を求めている。声を聞くのに用事が必要になってしまったことが悲しい。だけど俺のせいだ。
「昔、CD貸したじゃん」
「そういや、借りたままだったね。ごめん」
「あれ聴いてくれた?」
 うん、と彼は言った。
「もう一回、もう一回、ってやつでしょ」
「そう。あれ、俺の一番好きな曲なんだよ」
「分かるよ。僕も好きだな」
「あのCD、お前にやるよ。……そんだけ。おやすみ」
 電話を切ろうとしたとき、待って、と声がして、俺はまた受話器を耳に当てた。
「今どこにいる?」
「マンションの近く」
「今から返しにいく。三十分くらい待ってて」
「やるって言ったじゃん。別に、」
 テレカは切れてしまった。さよならを言うことはできないまま、俺は自宅へ帰り、彼を待った。
 三十分後、彼は本当に俺の家に来た。一ヶ月ぶりに見た彼はCDを持ってこなかった。持ってこなかった理由なんて、わざわざ聞かなくても分かる。
「ごめん」
 今度こそ目を見て言った。彼は「泣くなよダサいな」と笑ってくれた。
 彼の買ってきてくれた安いビールとつまみで乾杯して、たばこを吸って、テレビを見て、笑った。それは大学生の頃とまったく同じだった。さよならは言わなかった。
 あの曲のタイトルは「花火」。
 花火は夜空に美しく打ちあがり、何度だってきらめく、何度だって。

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